第十一話 Over easy/とても簡単な④
エンブリオ第七区画。
『エデン』の研究施設がある都市の中央から、七枚目の壁を超えた所。『人間の居ない街』。まさしくこの都市の悪徳そのもの。
それぞれの壁に設けられた関所は、『エデン』のお墨付きであることを示す福祉局の社員証を提示すればほとんどフリーパスで通過できる。
民間人はこうも行かない。もっとも、中心に近い階層に住む者が都市の外縁を目指す理由はほとんどの場合において存在しない。だから、実質的にはそれは貧しくて汚くて危険なスラムから抜け出そうとする者を阻むための門だ。
都市が隔離されている理由は、『エデン』の研究施設が細かく区分けされているのと同じだ。都市そのものが、症例や重症度によって分断された一種の行動展示なのだ。
違うのは、
──人間ではなくなった者がどのように生活し、どのような文化を形成するのか。
企業複合体の好奇心の対象は、概してその一点に収束される。それこそが、彼らがこんな大それた都市を作り出した理由でもある。
例えばそこにどんな酷い差別や諍いや血なまぐさい問題の数々が蔓延っていたとしても、彼らがそれに介入する事はない。それこそが、彼らの観察対象だからだ。
そして、その中で興味深い研究対象を保護という名目でピックアップするのが、福祉局の『表』の存在理由である。
自業自得の機密情報の漏洩を隠蔽したり、あるいは今回のように、事件に巻き込まれた研究対象を他の企業や警察よりも早く回収して事件そのものを無かったことにするのが、
それでも、転生病という病に侵されたこの世ならざるただの人間達は、この街に来て|企業複合体≪アカシア≫に頼る他にない。
アリアカシアという種の樹木がある。アリアカシアはその名の通りアリと共生する習性を持った樹木だ。住処として自身の体と、そこから湧き出る樹液をアリに提供し、アリはその見返りに自らの棲家を守るために樹木に取り付く害虫を排除する。
両者は拮抗した利害関係にあるように見えるが、実態は異なる。
アリアカシアの樹液を食料として生活するアリ達は、実のところその樹液を摂食することによって糖を分解する酵素の働きを阻害され、アカシアの体から漏れ出る分解酵素を含んだ樹液以外を摂取できないようになる。
両者の関係は利益提供による共生ではなく、実のところ依存と隷属に過ぎない。
つまり俺たちは、樹の中で起きた問題を解決するための、仕事熱心な働き蟻というわけだ。
だからこうしてこの最悪の都市の最低の場所を必死こいて駆けずり回っている。
そうして、今ようやく事件の核心に触れた。
「まさか、そいつらを担いで俺を倒して逃げ切れると思っちゃいないよな? "棺屋"」
「どうしてこの場所がわかった?」
質問に質問で返す。生者の作法よりも死者の道理で会話する"棺屋"の流儀──自らの納得のみに忠実な者の自閉的コミュニケーション=
俺がこの場所を把握できたのはノエルの声が手掛かりになったからだ。ノエルの発した可聴域の外にある声をギギの義体が察知し、それを解析して場所を割り出しただけに過ぎない。
だが、そんな事を教えてやる義理は無い。代わりに鼻で笑ってやる。
「お前が本社のあるこの区画を出なかったのは、そう出来ない理由があったからだ」
ザキの無感情な目がじっと俺を見返す。さざなみの一つも起こることのない、永遠に凪いだ夜の湖面のような暗い目。
「ミハエル・岩動・オーランドは、遠からず死ぬ。余命幾許も無い老人を連れてはそう遠くへは行けない。後は、足がものを言う」
そう、これは時間との勝負だった。
ミハエル=ロゾロ・ラジーンは遠からず死ぬ。そうなれば棺屋はドラゴンの義体を持って行方を眩ませるだろう。ノエルと要を追う手がかりは失われる。故に、俺たちはロゾロが生きている間に……棺屋がそのそばを離れられない制約を課されている間に……彼らを見つけ出す必要があった。そして、間に合った。要もノエルも、まだ生きている。
「そうか」
「そうだよ。だから要とノエルを置いてとっとと消えろ。そうしたら、見逃してやってもいい」
「見逃す?」
「お前は生き物の死体にしか興味がない死体性愛者だろ」
"棺屋"の性癖はこの街では周知の事実だ。彼女は生き物の死骸にしか欲情しない。それが彼女が患った転生とは全く別の、彼女自身の魂に備わった業の形だった。
「お前からドラゴンの義体を買い取ろうとしてる奴が居るはずだ。『エデン』の技術を故意に外部へ流出させようとしてるなら、企業複合体もお前の話を聞きたがるだろ。奴らが転生者とどんなやり方で話をするか、俺はよく知ってる」
「……昔は仙舟の犬だったお前が、今はアカシアの犬か。世知辛い事だな、"トリカブト"」
「死人の分際でせこせこ金稼ぎしてる奴の言えた義理かよ」
「地獄の沙汰も金次第でな。亡者こそ金が入り用だ」
冷たい死人の温度の、笑えない冗談だった。死人との会話を続けるほどに、心がささくれ立つのがわかる。
「バックについてるのは反企業複合体組織か?」
ザキは、ただ首を傾げて沈黙を返した。
死人に口無し──自らの転生の発展的応用。
『モう、いい。カブト』
不意に、空気の軋むような感覚があった。
それは現実に巨大な質量が首をあげる気配だった。ギギが目覚めていた。
『そイツと話していても無駄だ』
要との距離が近づいた事で、ギギの義体が復活したのだ。普通なら頼もしい相棒の復活に喜ぶところだが、この状況は実は大分まずい。
「ギギ、お前……」
ギギは、うめくように声を上げたノエルを一瞥した。
ノエルは棺屋の手下の、その片割れに拘束されている。『双子』と呼ばれている奴らだ。それなりに厄介な相手ではあるが、ギギにとってはものの数でもない。
ドラゴンの鉄色の瞳に、怒りが満ちるのがわかった。
『ノエル、お前は自分が死にやすイ生き物だともう少シ自覚しろ。お前達は、いずれ死すべきその時を待たずとも、容易ク死ぬ』
それはあるいは、ギギなりに友人への気遣いを込めた言葉だったのかも知れない。ドラゴンにはドラゴンの優しさの尺度が存在するらしい。
『死人、貴様が何ヲ企み、何を為そうと知らヌ』
ギギは竜の目でザキを睨みつけた。ギギは怒っている。それは、要を攫われたせいで自分が行動不能の無様を晒すハメになったからであり、友達であるノエルを攫われたからだ。
怒ったドラゴンを止める術はこの世に存在しない。そういうふうに作られたからだ。それがドラゴンという存在が認知する世界だからだ。ギギには、正しくその為の力がある。
『貴様ハ、ここで死ね』
「その前に、私はお前の大事な大事な小娘共を殺せるぞ」
ザキはノエルを拘束する『双子』の片割れを一瞥し、自身も手術用のメスを取り出して要の首筋に突きつけた。『双子』のもう一方は、気配を消して潜伏している。いつでも不意をつけるようにしているのだろう。
ギギの怒りが、さらに沸騰寸前に高まるのがわかった。非常にまずい。
この状況、ノエルはともかく、ギギは要の被害を勘定に含まない。
「一瞬だ。お前が一呼吸するよりも早い」
『ほざケ。屍肉漁リの、蛆虫風情に何が出来ル』
「ならば、試すか?」
ギギが牙を剥く──口を開く。その内奥に秘められた殺戮の機構が顕になる。
『ドラゴンは躊躇しなイ』
ザキの顔を覆う包帯に、微かに皺が寄った。死人は笑った。
「
壊れた壁から、ぬるい風が吹いた。全てが崩壊するまでには瞬きほどの時間もかからない。やってられるか、と思った。
『……邪魔ヲするな、カブト』
俺は睨み合う二人の間に立った。最悪な気分だ。自分をドラゴンだと思い込んだ全身兵器と、自分を歩く死体だと思い込んでるせいで危機感が致命的に欠如したアホが居て、その間に立つなんて、まともな人間ならとてもやるべきじゃないと考えるまでもなくわかる事だ。
もちろん俺はまともなので当然わかっているが、同時に、この世には嫌でもなんでもどうしてもやるべきことはやらなくてはならない極限の状況というものが存在することも知っている。
「そいつを返せ、ザキ」
「そんなにこいつが大事か? "絶滅者"。存外いじらしいな」
「そうだ」
腹立たしい冗談にも耐える。どうしたって、そうしなくてはならない時がある。
「大切なんだ。返してくれ」
人間が言葉を獲得したからには、それはどんな時でも嘘をつける権利を獲得したことに他ならない。
でもだからといってどんな時だって嘘で切り抜けられるわけじゃない。大抵の嘘はバレるものだし、両手に余るほど大きなものは隠し通せた試しがない。
だから、本当の事を言う。その方がよっぽど話が早い。
「ふっ」
何がおかしいのか、ザキは笑った。そして指先で『双子』に指示を出して、ノエルの拘束を解いた。
「やめだ。"絶滅者"と事を構えるのは割に合わん」
「そうか」
俺とザキとの関係はそれなりに古い。職務上の必然という奴だ。だから、俺たちは互いに互いの危険性を承知している。ここから先に踏み込めば、互いに無視できない損耗を負う事になる。その分水嶺を、ザキは見誤らなかった。
「"絶滅者"、それにドラゴン。ああそれと、人魚の少女」
ザキは俺たちを順に指差した。それから、呪わしいほどに恍惚に蕩けた目を向けた。
「実に良い目をしている。きっとお前達は、これからも山ほど死体を作るだろう──どうぞ今後とも我が社をご贔屓に」
恭しく一礼し、棺屋のザキは部下を伴ってその場を後にした。
後に残されたのは、俺とギギと要、そして泣き虫ノエルだけだ。
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