第十話 Over easy/とても簡単な③

 エンブリオ、第七区画。

 『人間の居ない街』──その何処か。

 薄暗く、殺風景な場所だった。ろくな話し相手の一人も居らず、ノエル・"ノイズィ"・トランペットは一人部屋の隅で膝を抱えていた。

 彼女の今居る施設は、かつては死体安置所だったものだ。施設には死体が満載されているはずだったが、死臭はしなかった。それどころか、なんの匂いも感じられない。

 清潔な場所には清潔な匂いがあるはずだったが、ここにはただ虚無的な漂白された空気が満ちていた。

 いけすかない場所だ──ノエルは膝を抱く腕に力を込めた。


「不安か」


 ノエルと同じ部屋で、彼女を監視するように眺めていた女が言った。

 全身に包帯を巻いて、顔まで覆い尽くされている──典型的な生ける屍リビング・デッドの転生者の特徴。

 生ける屍リビング・デッドの転生者は自らを腐敗してゆく死体だと認知している。そのため、腐れた自らの肌を晒さぬために、常に包帯でその身を覆い隠そうとする。臭いを消すのもそのためだ。彼らは可能な限り死臭を隠す。その肉体は健全に生きているからにはそもそも死臭など発しようもないが、それでも生きた屍として社会に紛れる為に、病的に自らの体臭に敏感である者は少なくない。

 "棺屋"のザキもその手合いだった。まさしく、虚無の匂いを纏う女だった。


「食われたくはないか。あの男に」


 死体性愛者──生ある全てを厭悪する現代の死霊使いネクロマンサーは、それでも時たま、生者であるノエルに話しかけた。

 そうされる度に、ノエルは却って自らが死に近づくような錯覚を覚えた。


「別に」


 問われれば答えねばならない。例え相手が死体を愛する死体のような女であっても、ノエルの意識は未だ人間としての頸木を逸脱してはいなかった。


「私は何も怖くない」

「恐怖しないのは、死体だけだ。死せる者はもはや死なぬからだ。お前はまだ、死体ではない」


 ザキの言葉は独り言めいていた。ノエルはその虚無の瞳から目を逸らした。


「もっとも、もう一人の女は違うようだが」


 ザキはノエルの隣で粗末なソファに座らされた少女に視線を向けた。

 少女の名は、要という。『エデン』で育った転生者だ。特殊で珍しい転生を患っており、彼女の意識は一日のほとんどの時間、肉体を離れて過ごす。今は、彼女は眠っている。


「要に手を出したら、お前達みんな殺してやる……!」

「それは無理だな。私を殺すことができるならお前はとっくにそうしている筈だし、なによりそんなことをしてもお前達二人が逃げ出す事はできないとお前自身が理解している」


 この死体安置所所は、"棺屋"のセーフハウスの一つだった。こういった場所が都市に無数に設けられており、彼女はそこに"恋人"を保管し、ビジネスに利用する。

 そして今ここでは、仕入れられた人魚の肉の解体が行われている。当初は人魚を攫ったオーク等にやらせていたが、品質面の問題から彼女が担当することになった。死体の扱いにかけて、彼女はこの都市の誰よりも長じている。


「……死体が恋人なんだって?」

「そうだ」

「自分の恋人を切り刻んで料理にするっての? ……心が痛まないのか?」


 棺屋の悪徳を口にするだけで自分の中の何か大切な場所がひどく傷つけられたような気がしたが、ノエルは歯を食いしばって嫌悪感に耐えた。


「彼女達は物言わぬ故に美しい」


 死体を愛する女は言った。暗く抑揚のないその言葉に微かに熱がこもった。


「私の恋人モノだ。どうしようと、私の勝手だ」


 顔を覆う包帯の口元に皺が寄った。それが彼女の笑みの形なのだと理解するのに、ノエルはかなりの想像力を必要とした。


(落ち着け……落ち着け。考えろ)


 ノエルは恐怖と異常な状況に挫けそうになる心を奮い立たせようとした。

 そのために施設を出たのだ。


(こんな時、カブト兄なら──)


 同じ施設で育った人の事を思った。

 兄のような存在だった。

 いろいろな事を彼に教わった。

 彼が施設を出てからは、外の歩き方も教わった。悪徳に満ちたこの街で仮に一人放逐されたとしても、せめて自分の命だけは守れるようにと。

 銃の撃ち方も、その時に習った。

 施設を出る時に持ち出した銃の重みを、上着の内側に感じる。


「お前は奇妙だな、人魚の少女」


 棺屋の言葉に、銃を抜く機会を図っていたノエルはびくりと肩を震わせた。

 棺屋の死人の目がノエルを見た。棺屋が生きたものに興味を示すのは、珍しいことだった。


「その域にまで転生が進行しているにも関わらず、お前の肉体は人間のそれのままだ。足が痛くはないのか?」


 棺屋は値踏みをするように言った。

 ノエルは、ほどなくして死にかけたドラゴンに捧げる贄とされる。

 無論のこと、人魚の転生者の血肉に人間を不死にする力などない。

 だが、ある種のプラシーボ効果によって一時的に症状が緩和する可能性はあった。

 その効果を患者自身が心から信じているのなら、肉体までもがそれに対する薬効を誤認する。

 そんな起こるかどうかさえも不確かな、奇跡のような確率で余命を僅かにでも伸ばそうという、ただそれだけのために、彼女たちは多くの人魚を殺していた。


 ──思い込むということが、この街では最も救い難い病だ。


 カブトに教わった事だ。

 人狼になった父親を殺して、天涯孤独の身の上になった男。


「ああ、クソ痛いね。あんたに代わりに味わってもらいたいくらい」

「なぜ義体化しない?」

「歩ける方が便利だからな」


 カブトの教え──ヤバい時はとにかく喋って時間を稼げ。

 相手の興味をひいて時間を稼いで、隙をついて逃げる。

 その事だけを考えろと教わった。絶えず危険が潜むこの街で自らの命を守るためのルール。

 だが、今回に限っては逃げるわけにはいかない。

 要が居るからだ。要を置いて逃げることはできない。


(そんな事したら、アンジュに馬鹿にされる)


 同じ施設で育った天使の少女──アンジュ・キャロル。

 彼女に侮られる事だけは許せなかった。その理由があった。

 ようやく普段通りの思考に追いついて、ノエルは冷静さを取り戻しつつあった。


「それに、生体義肢バイオサイバネを使った人魚化は危険なんだ。聞いた事ないか? 例えば私の知り合いで、占い師をやってる人魚が言うには──」


 棺屋のザキは、ノエルの言葉にほとんど反応を示さなかった。

 その目はただ、ノエルだけを見ていた。品定めをするように。やがて死体になるものの価値を、値踏みしようとするような、温度の無い視線。

 喉が渇く。


「──定期的に甘いものを食わないと、気分が悪くなるんだと」


 会話を続けながら、ノエルは懐の拳銃を抜いた。

 同時に、棺屋ではなく天井に向けて発砲する。

 棺屋の視線が天井に向く。

 その一瞬のうちに、ノエルは立ち上がって壁のパネルを操作して部屋の照明を落とした。

 窓ひとつない地下室は、照明を落とせば日中でも闇に包まれる。

 一度天井の光を見せてから部屋を暗くすれば、一時的に棺屋の視界を奪える。

 その間に、ノエルの腕でも確実に銃弾を命中させられる距離まで詰める。


(いける)


 ノエルは既に駆け出している。

 認知的不協和によって痛む足では早く走る事はできない。本来ならば、歩く事さえも。

 だからノエルは、歩行補助用の義装を着用している。エデン謹製の最新式──脛から下を覆う機械のブーツは、靴底に仕込まれた仮想重力場発生装置によって、音もなく移動できる。

 照明を落とす前に、ノエルは目を閉じていた。暗闇に目が慣れるのは、ノエルの方が早い。


(もらっ──)


 確実に命中させられる距離で、棺屋を狙う。

 足を撃って無力化する。

 その間に要を連れてここを脱出する。

 それができる。

 何故なら──


「──カイ、クイ」


 棺屋がつぶやく声が聞こえるのと同時に、ノエルの視界が倒れた。

 何かに身体を押さえつけられたのだと、地面に額を擦り付けてから気づいた。


社長ボス、ご無事で」


 ノエルを取り押さえていたのとは別のもう一人が、再び部屋に照明をつけながら言った。

 明かりの下で見たその男は、顔を赤い包帯で隠していた。


「こいつ、どうします?」


 ノエルを押さえている方がそう言った。

 顔は白い包帯で隠されている。


商品だ。傷をつけるな」


 どこまでも温度の無い死人の言葉が、刃のように冷たく突きつけられる。

 ノエルは地面に押さえつけられながら、込み上げる苦渋を噛み締めた。


「うぅ……!」

「やめろ、傷がつく。お前はまだあの男への商品であり……事が終われば私のものだ。私に許可なく傷をつけるな」

「冗談じゃねえ……!」


 ノエルは尚ももがいたが、どうにもならなかった。

 急速に死の予感が迫るのを感じる。


夕べに赤ら顔、朝には白骨ホイテロート・モルゲントート


 棺屋のザキの呟きは、耳慣れない言葉だった。

 ノエルは、その言葉の意味を咄嗟には理解できなかった。


「死は誰しもに訪れるものだ。時に突然に、時に理不尽に。逃れる事は誰にもできない。何故足掻く?」


 ──声が聞こえるんだよ。空耳が。


 それが、問いへの答えだった。

 何処からか聞こえる、火の様に自らを責め立てる声。


 ある日、彼女とその家族を乗せた飛行機は墜落した。天候条件の著しい悪化によって救助作業は難航し、事故による唯一の生存者だったノエルは、三日間をその現場で過ごした。ノエルが人魚になったのは、まさにその時だった。

 飛行機が墜落する確率はおよそ0.0009%と言われている。宝くじが当たるよりも低い確率だ。なのに、何故自分たちは事故に巻き込まれ、自分だけが生き残った? 大好きだったパパもママも、みんな死んでしまったのに?

 それは、自分が人魚だからだ──なぞなぞリドルの答え。それはどんな時も残酷で、悪意に満ちて歪んでいて、そして馬鹿げているほど幼稚だった。

 ローレライの伝説──人魚はその歌で船乗りを誘惑し、座礁させる。

 彼女は歌うのが好きだった。父と母が、自分の歌を褒めてくれるのが好きだった。だから、いつも歌っていた。何も考えずに──彼女は人魚だったのに。

 自分の歌が全てを狂わせたのだ。自分の歌が飛行機を墜落させ、父と母を殺し、自分をここに追いやったのだ。

 ノエルは助けを求めて泣き叫んだ。父も母も、誰も、目を覚ます事はなかった。足が痛かった。引き裂かれるようだった。なぜお前は人魚なのにそれを認めようとしないのだ?──痛みは、絶えず彼女にそう問いかけるようだった。

 救助が来たのは、その三日後だった。その時には、ノエルの声帯は彼女自身の絶え間ない絶叫によって完全に破壊されていた。


 『エデン』に保護された彼女は、生体拡張義肢による肉体の人魚化を拒絶した。声帯も潰れたまま。歩く事も、声を出す事もできない。不具となった現実が、彼女の暗い迷妄を煽った。



『パパとママが死んだのは、お前のせいだ』



『お前が殺したのだ』



『お前が破滅を呼ぶ人魚だから、なにもかも台無しになったんだ』



 声が聞こえた。

 暗闇から、誰かが自分を責めていた。動かしようのない真実だけを口にして、誰かが自分を、その暗い場所に手招きしていた。

 地獄への誘惑──罪を苛む罰の炎への狂おしい憧れ。

 なぜ自分だけが生き残ったのかという、答えのない"なぞなぞリドル"を解き続ける事に、彼女は疲れ切っていた。

 そんな時だった、あの男が現れたのは。



「全部空耳だ。そんなものは」



 いつも何かに怒っているようだった。

 己の運命に訪れた悪運に、挫けることそれ自体に。



「声を上げろ。そんなものは知った事じゃないと言ってやれ。そんな空耳なんかより、もっと大きい声で怒れ」



 カブトという名前は、本当の名前ではないのだという。

 トリカブトは狼を狩るために用いられた毒草だった。彼の運命に訪れた人狼殺しの悪運を、自ら声高に名乗っているのだと思った。

 彼にも空耳が聞こえるのだろうか。だから、怒っているのだろうか。



『人魚姫のお話を知ってるかい?』



 天使は、とっておきの冗談を披露するように笑っていた。



『王子さまに恋をした人魚姫は、彼に会うために人間になった。自らの声を引き換えにして』



 タバコを吸っていた。自分とそう歳も違わないはずなのに──そんな天使が居てたまるか、と思った。ひどい冗談だと感じた。



『まるで、今の君みたいに』



 作り物みたいに、綺麗な顔をしていた。こんなに美しい人を、見たことがないと思った。

 彼女は、まさしく天使のようだった。



『君がありのままの君でいる事に耐えられないなら、君はむしろ大声で歌わなきゃならないんだ』



 ある種の残酷や凄惨すらも好奇の対象として愛するような──この世の全てにユーモアを見出すいたずら好きの妖精オイレン・シュピーゲル。



『歌ってごらんよ。そして、君の歌のせいで壊れてしまうものなんてこの世には何一つ無いんだって事を証明するんだ』



 程なくして、ノエルは声帯の拡張義体化手術を受けた。天使の導きに従って。

 そうして彼女は声を取り戻し、破滅を呼び寄せる悪運の歌を獲得した。



「私が、足掻くのは──」



 蘇るのは、あの人たちからもらった言葉だ。

 カブトとアンジュが、自分をどん底から掬い上げてくれた。

 足が痛むのは、自分がまだ人間だからだ。全てを破滅させる人魚ローレライなんかではないからだ。天使アンジュが、そう信じるためのリドルを与えてくれたからだ。

 拡張された声帯を移植したその夜に、ノエルは静かに、声を上げて泣いた。

 どれだけ声を上げても、破滅は訪れなかった。



「追いつきたいからだ」


 カブトは施設を出てしばらくして、『迷宮局』の生業を始めた。

 アンジュは相棒として、それをサポートした。


 自分もそうなりたいと思った。


 カブトが自分に怒りをくれたように。

 アンジュが自分に立ち上がる勇気をくれたように。

 その背中に追いつきたいと思ったからだ。


 彼の隣に立ちたいと思った。自分に生きるための最初の怒りをくれた、あの人の隣に。

 自分もあんなふうに──自分の悪運と戦いたいと思ったから。


 そのためには、足が必要だった。

 どれだけ痛んでも、歩くことのできる足が。


 ────人魚姫の童話の様に。


 『エデン』一の問題児、ノエル・"ノイズィ"・トランペット。

 彼女には、一般の人魚の転生者にはほとんど見られない特異な転生が見られる。

 自らの声を、なんらかの攻撃性を秘めた器官であると認知している。

 故にその治療のため、ノエルの喉の拡張義体には、特異な性能が付与されている。

 あらゆる音域の音波を発し、さらに指向性を与えてそれを発信することができる。

 ノエルは、ここに拉致されて来た時から、外部に向けてその音波を発信し続けて来た。

 破滅の歌声──それを歌うために作られた物。

 壊れていないと使えないもの──楽園に宿った禁断の果実。残酷な現実を克服するために与えられた力。悪問の"なぞなぞリドルを解き明かすためのヒント。



(諦めない為だ)



 彼女が『エデン』を抜け出したのは、都市で消息を絶つ人魚達を救おうとしたからだった。

 自らの手で、何かを為すことが出来ると証明したかったからだ。

 自分にも、誰かを救えると。



(私も、みんなみたいに──)



 彼女は声を上げていた。

 それは尋常の人間の耳には届かない音域の声。 それでもどこかに居る、この声を聞くはずの誰かに向けて。



(私にも……!)



 その時、再び轟音が響いた。

 それは、ロゾロ=ラジーンの咆哮とは別の、もっと近くて、暴力的な音だった。

 一台のピックアップトレーラーが、設備を破壊しながら建物の中に侵入し、タイヤ痕を刻みつけながら荒っぽく停車した。



 やがて運転席のドアが開き、男が降り立った。怒りに満ちた鋭い目つきと浮薄な笑みを浮かべた口元は不可解なコンフリクトを起こしていたが、その凶相こそが彼にとっての平常なのだろうと思わせるある種の自然さがあった。この世の理不尽に絶えず怒りながら、それを笑い飛ばしてしまおうという努力を続けているような。



「なんだ、やっぱ生きてたかノエル。心配損だな、ギギ?」



 男はトレーラーの荷台の、動かないドラゴンに言った。代わりに、ノエルが返事を返した。



「カブト兄……」



「お前はもう少し静かに生きるって事を覚えるべきだな。人並みの幸せって奴を」



 そんなものはこの街のどこにも無い。人間ではなくなってしまったものに、人並みの幸せなど望むべくもない。わかりきった事だった。ノエルにも、それを口にした男にも。だがそれでも、男はそれを探しているのかもしれなかった。



 ──だから怒っているのかもしれない。ノエルの目には、その野蛮な男はそんな風に見えていた。



「さて、役者は揃った」



 "棺屋"は男を振り向いて、冷淡な視線を向けた。生きているものには、一切の感興を示さないという態度。



「いい加減、事件を解決させるとしようか」



 再び、竜の咆哮が轟いた。

 それは、終末を思わせる音だった。




 

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