第八話 Over easy/とても簡単な①

 薄れゆく意識の中で、彼女は思考している。

 あるいは、夢を見ているのかもしれない。

 それらの境目は、彼女にとってはひどく曖昧で、区別をつけるのには努力が必要だった。

 彼女にとっては、起きて見ている世界も、眠って見る世界も、薄皮一枚を隔てた向こうで起こる出来事のように不鮮明だった。

 身体が動かなかった。

 元から、身体を動かすのは彼女にとっては恐ろしく難儀なことではある。

 だが、今は指一つ動かなかった。眼球すらも、彼女の意思では動かなかった。

 だから、夢を見ているのだとわかった。過去に起こった記憶映像が、脳内で再生されているのだと。


 火の手が上がっていた。

 視界は倒れていて、目に映る何もかもが壊れていた。

 獣の咆哮のような音が鳴る。

 また、何かが一つ壊れた。


 獣のような物体オブジェクトだった。似たものが周囲に幾つもあったが、同じ形のものは二つとなかった。

 鉄と生体部品のつぎはぎで出来たそれは、砕けると血を流した。それを死体だと認識する事は可能だったが、グロテスクだと思う事は困難だった。それは、全身を襲う鈍い痛みと同様に、薄皮一枚を隔てた遥か遠い宇宙の彼方にある事で、彼女の思考に届く事のない感覚だった。


 獣の咆哮。

 悲鳴。

 また、何かが壊れる。

 血が流れる。

 血が、横たわった彼女の頬を濡らした。


 幾度も、幾度も、獣が吠えた。

 その度に悲鳴が上がって、何かが壊れた。辺りに血が満ちていった。


「無事か?」


 やがて音が止むと、男が彼女の身を起こした。

 彼女は、その男を知っていた。


「怪我はないか? 生きてるよな?」


 彼女が答えるまでもなく、男はそれを確かめるように、彼女に触れた。

 男が彼女を労わろうとしている事すらも、彼女にとっては理解さえ難しい事だった。

 ただ、男の手にした銃が煙を吐くのが見えた。

 だから、これが獣の正体なのだということは理解できた。

 咆哮に思えたのは、銃声だったのか。

 幾度も引き金を引いて、壊したのか。

 ここへ来るために。

 彼女に触れるために。


「アンジュが……あいつが、やっぱり知ってたんだよ。あいつのあの、まるで未来が見えるみたいなインチキで……けど、黙ってやがった。だから来るのが遅れた。ごめんな、本当に……ごめんな」


 彼女自身の痛みは、彼女にはうまく認識できなかった。

 彼女にとって、自分の身体は、自分であって自分ではないものだった。

 現実感はひどく希薄だった。


 だから、目の前の男の方がよほど痛そうだな、と思った。

 目に見える限りには致命傷となるような大きな外傷はなかった。

 頬が濡れていた。

 涙を流しているのだと知れた。

 その理由は、やはり彼女にはわからなかった。

 理解しようとする事は、彼女には難し過ぎた。


「おかげで……全部殺すことになっちまった。全部、全部……キメラの転生者は、これで多分、この世に一人も居なくなった。絶滅した……俺がそうさせた」


 壊れたものが、たくさん転がっている。

 これがそうなのだろうか。

 彼が壊したものが全てで、それはこの世から何一つ無くなってしまったのだろうか。

 その事が悲しいのだろうか。


「笑ってくれ」


 男が、口角を歪めた。

 奇妙な表情だと思った。

 泣いているのに、笑っていた。

 彼女には理由がわからなかった。


「頼むよ」


 きっと、意味がある事なのだろうと思った。

 そうしようと思った。

 けれど、彼女の身体は、彼女の意識から切り離されたかのようにひどく鈍重で、少しも動かなかった。

 笑顔を作ることさえ、出来なかった。


「笑ってくれよ、要」


 その時の記憶を、彼女は時折夢に見た。

 夢の中で自分が笑ったのなら、男はなんと言うのだろう。

 ありがとうと口にしたなら、男は……カブトは、どんな顔をするのだろう。

 そんな風に考える。

 意味もないのに、何故か。





***





 懐かしい心地がした。

 いつか、随分前にもこんな事があった気がした。多分、父親を殺した直後だったと思う。

 その時に横たわっていたベッドの感触。清潔で、けれどどこか作り物じみた匂いのする空気。暑くも寒くもない、完璧に快適な環境。

 思い出される記憶は泡のように浮かんでは弾け、意味のある思考を生み出す事はなかった。そこにはなんでもあった。安全があった。暖かい寝床があって、食事があった。俺を殴る父親も、それを止められずに啜り泣く母親も居なかった。飢えも貧困も無かった。

 完璧な場所──楽園のようだろう、と誰かが言った。そいつは笑っていた。

 そんなものは知らなかった。生まれてから、一度も。この世のどこかにそんな物があるなんて、俺にはタチの悪いペテンだとしか思えなかった。

 いけすかない場所だと思った。だから、目を覚ました。


「ああ、目が覚めましたか」


 ベッドサイドに座っていたのは、『エデン』職員の真島だった。真島は気味の悪い笑みを浮かべてこっちを見ている。

 周囲を見渡す。見覚えのある景色──企業複合体アカシアに管理された研究施設。『エデン』の有様は、俺が居た頃から時間が止まっているように変わっていない。

 楽園エデンで目を覚ましたというのに、幸せとは程遠い気分だった。


「さっきまでバックス局長もいらしてたんですよ。入れ違いになりましたね」

「そうか」

「いつも通り、激昂してらっしゃいました。『こんな仕事も満足にこなせないのか』と。ついでに私もお叱りを受けました。相変わらず恐ろしい方ですね」

「そうか」


 俺たちバックス福祉局の局長は、端的に言って頭がおかしい。他のところもおかしいが、頭の方に比べれば些細な問題だ。それに下品だし、野蛮だ。それからいつも怒っている。こんな状態で会っていたら、本当に殺されかねない所だ。


「どのくらい寝てた」

「丸一日といったところですかね。その間に、少し状況が変わりました」

「何があった?」

「新しい被害者です。データを」


 手渡された端末には、殺害現場と、現場から回収された遺体の画像が表示されていた。

 被害者は年老いた人魚だった。その額と喉笛には錆びた釘がつき立てられていて、その表情は末期の苦痛に歪んでいた。

 甘いお菓子を食わせてやれば、その苦痛の表情が和らぐのだろうか、と思った。

 浮かんでは消える無意味な思考は、他人事のようだった。


「第七地区で占いを生業にしていた人魚の女性です。仙舟院天眼久遠大姉と名乗っていたそうで。戒名かなにかですかね?」

「……そんな名だったのか」

「お知り合いですか?」

「いいや」


 仙舟は知りすぎていた。だから、この事件を裏で糸引く何者かに始末されることになった。

 すぐに姿を消せばよかったのに。当の本人が、俺にそう教えたはずだったのに。なのに彼女は、そうしなかった。

 その理由が、俺には少しわかった。

 仙舟は、決して善人ではなかった。そう呼ばれるに値しない悪行の数々を行ってきた。死んでも仕方なかったのかもしれない。

 だが、仮にそうだったとしても、殺されてよかったとは思わない。

 この事件の裏に居る何者かを、見つけ出さなくてはならない。

 必ずツケを払わせてやる。


「幸いにも、あなたの怪我はそれほど酷くはないようですよ。我が社の介護用スーツと、何よりギギさんの耐久性のおかげですね」

「そのギギはどうした」

「義体のオーバーホールを終えて静養中です。くつろいでいますよ。ここは彼女にとってはホームですから」

「なら、要も無事か」

「それが……」


 真島が言い淀んだ。その顔は相変わらず仮面じみた微笑の形に固まったままだ。


「どこへ行くんです?」

「もっとマシな話をする奴のところだ」

「それほど酷くないと言いましたが、しばらくは絶対安静だそうですよ」

「そうか」

「要さんは無事ですよ。ギギさんの義体を通してバイタルが確認できています。ただ、身柄はこちらにはありません。意図は不明ですが恐らく襲撃後に実行犯が連れ帰ったかと」

「そうかい、ありがとよ」


 俺は無理矢理立ち上がり、ベッド脇の機械から体のあちこちにつながっていたチューブを引き剥がして立ち上がった。点滴台を引きずって、廊下に出る。


「やあ、随分なザマじゃあないか」


 廊下の向こうから、声がかけられた。知った声だった。俺は露骨に顔をしかめた自覚があった。


「それにその顔。まるで狂犬だな。今すぐ誰でもいいから噛み殺さなきゃ気が済まないかい?」

「何の用だ」


 美術品じみて風に靡くプラチナブロンドの髪。その身体をすっぽり覆う事ができそうな、真っ白な翼。作り物みたいに整った顔には、いたずらを思いついたような幼なげな笑み。吊り上がった唇の端には、火のついたタバコ。

 見知った顔だ。そいつは笑いながら言った。


「お見舞いに決まってるじゃないか。なあ、"絶滅者スローター"。古き友よ」

「お前が言うと、俺は何でも皮肉に聞こえちまうよ、"出題者クエスチョナー"」


 その少女、アンジュ・"クエスチョナー"・キャロルは、俺の言葉を聞いて悪戯がバレた子供のようにケラケラと笑った。冗談を言ったつもりはこれっぽっちもなかったのに。


***






 『エデン』施設内には庭園がある。多種多様な"生態"を持つ転生者の発展的治療の為に設けられたものだ。

 珍獣のためにしつらえられた珍奇な檻か、動物の環境展示のようなものといった類のものだ。恐らくは、当の『エデン』という組織自身がそうとしか考えていない。


「それで? カブト」


 咥えたタバコに火をつけながら、アンジュは歌うように切り出した。

 施設内は全面禁煙だが、アンジュは気にした素振りもないし、注意する職員も居ない。この施設における彼女の立ち位置の特殊性故にだ。


「今度はどんな面倒に首を突っ込んだんだい?」


 アンジュはにやりと笑った。その目は好奇心に爛々と輝いている。


「人聞きの悪い。俺はこの人でなし施設の人でなし共に無理矢理付き合わされてるんだよ」

「そうかい?」


 アンジュは喉の奥でくつくつと笑った。どんな時でも意味なくもったいつけたがるのが奴の性分だった。うんざりだが、いつものことだ。


「何が言いたい?」

「別に。変わらないなって思ったのさ」

「……本題に入ろう」


 こいつと話していると、俺は著しく調子を崩す。もしかしたら、こいつが俺以上に他人を怒らせるのが上手いせいかもしれない。

 俺は何もかもが面倒になって、事のあらましをアンジュに説明した。


「人魚の失踪事件、ね」


 飴玉を口の中で転がすような調子で、アンジュは言った。思案に耽っているようでもあった。


「初耳か?」

「まさかだろ」


 アンジュはこの『エデン』から一歩も外に出られないが、それでも異様に耳が早い。アンジュはせせら笑うように言った。


「何せ、私の恋しい"泣き虫ノイズィ"ちゃんまで行方不明なんだ。当然私も情報を集めていたさ」

「ノエルか」


 ギギとノエルが友達であるように、楽園暮らしの彼女達の結束は固い。特に、ノエルとアンジュの関係は……姉妹のような友達のような……とにかく繋がりが強い。


「どうせまたお前が怒らせて、そのせいで家出したんだろ」

「人聞きが悪いな。私はただ彼女に発展的な人生を送るためのアドバイスをしただけさ」

「お前は他人を怒らせる癖があるって事にもう少し自覚的になったほうがいいな」


 大方予想通りのようだったので、俺もアンジュに発展的な人生を送るアドバイスとやらをしてやった。なるほど、気分が良い。

 アンジュは大袈裟に肩をすくめて見せた。


「お前ら、昔はすげー仲良かったのにな。ノエルなんかいつもお前の後ろついて回って……いつからか喧嘩してる所しか見ねえぞ。昔みたいにとは言わないけどもう少し仲良くしろよ」

「君にだけは言われたくないね」

「なんでだよ」

「わからないのか?」


 アンジュ何故か非難がましい目で俺を見ていた。甚だ心外だ。俺は他人の人間関係に口を挟むと頭痛がしてくるタチだからだ。

 今もそうだ。だから、こいつらの仲違いの原因に俺が関わってるなんて事はありえない。


「ノエルはいずれここを出る事になるんだ。そのための準備が必要なんだよ。……あの娘は私とは違う」


 ギギや要がそうであるように、ここで育った転生者達も、希望すればさまざまな制約を被る事にはなるが、この箱庭の外で生活する事ができる。『エデン』にとっても彼女らの特殊な義体が外の生活で運用されるデータが必要だからだ。

 ここで研究対象として一生を過ごすか、ここよりも多少は広いが悪徳に満ちた街でその一部となって過ごすか、少なくとも選ぶ権利がある。

 アンジュにはそれがない。彼女だけが、その権利を持っていない。


 アンジュは天使の転生を患っている。白い翼を持っていて、賢くて、美しい。

 天使の転生者は他にほとんど例がなくて、どうやったら彼女の認知と現実の肉体の乖離を埋められるかは誰にもわかっていない。彼女はここで認知的不協和による発作に怯えながら、症状を抑える薬を飲んで、『エデン』の冗談みたいな科学力が彼女の抱える問題を解決する奇跡のような確率に期待し続ける以外の未来を持たない。

 一生を楽園に縛られた天使。

 それが、アンジュ・"クエスチョナー"・キャロルだ。


「それが原因なら、やっぱり俺関係ねえじゃねえか」

「人間と人間との間に生じる問題は、まるでなぞなぞリドルのようなものだよ。答えはいつだって、それを解く者の思いもよらないところに隠されているものさ」


 それが、彼女の決まり文句だった。同じ施設にやってきたばかりの同年代の俺に「人生はなぞなぞのようなものだ」なんて説教を始めた時には、頭のおかしな女だと思ったものだ。こいつはどんな気の毒な転生を患っているのだろうと。


「お前はそういうのが好きなんだろ、"なぞなぞ狂リドラー"?」

「返す言葉も無いな」


 アンジュは困ったように笑った。紫煙を吐く彼女に、俺は言った。話を前に進める必要がある。なぞなぞを解くには、それが必要だった。


「人魚の死体を欲しがってる奴がいる。そして俺たちは、恐らくその本人に襲われた。ドラゴンだった。あれは何者だ?」

「ドラゴンの転生者、それも完全義体を所有しているのなら、その時点で十中八九『エデン』の関係者だろう。君が寝ている間に、あらかたこっちで調べはついたよ」


 アンジュは『エデン』のシステムに無断で潜入し、無断で情報を抜き取ることを得意とする。天使の転生を患って得た特性に関わるものではなく、単に特技なのだと、前に言っていた。

 恐ろしい精度の情報は、まるで過去と未来の全てを見通すようでもある。

 こいつの前ではとても隠し事はできない。そら恐ろしい天使も居たものだ。


「人間としての名前はミハエル・岩動イスルギ・オーランド。ドラゴンとしての名前はロゾロ・ラジーン。ドラゴンの言葉で『黒い天蓋』という意味だそうだ」


 確かに大きなドラゴンだった。頭上を飛ばれると、落ちた影で夜が来たと錯覚するほど。

 俺はアンジュがプリントアウトしたミハエル……黒い天蓋のロゾロ・ラジーンという名の男の経歴に、簡単に目を通した。

 62歳。男性。獣型一類転生。ステージ5──救いようのない末期患者の烙印。

 従軍経験あり。某国の空軍で、戦争に出ている。その時点で既にドラゴンの転生を患っていたようだ。

 軍を除隊されて後、治療のためエンブリオへ。


「あれほど大規模の義体を所持するとなると、まあ軍絡みか」

「どんな兵器作りもこの街では治療の一環だからね」


この街の法は企業複合体アカシアそのものであり、彼らは「より富を生み、より繁栄する」という唯一の理念をどこまでも追求する。さもなくば滅びるという、ある種の強迫観念に取り憑かれているかのように。

 転生者の拡張義体は、他ならぬ企業複合体アカシアの手によって兵器への転用やその技術を応用した開発が盛んに行われている。

 ロゾロのそれは制作された時期的にもかなり初期型のドラゴン義体だろう。

 アカシアの木に実る、歪な禁断エデンの果実──ロゾロの存在は、企業複合体の求める理念に大いに貢献したことだろう。


「オークの巣で見つかった人魚の死体は、パック詰めされてた……まるで食肉みたいに。あれはなんだ?」

「君の連想は正しいよ。あれはまさしく食肉さ」

「本当に食ってるってのか? 人魚の死体ばかりを? なんのために?」

「それが今回の事件のキモだよ」


 アンジュは立ち上がると、芝居がかって俺に向き直り、白い羽を打ち振った。

 その見かけも相まって舞台のワンシーンのように様になっているが、天使というには、得意満面の笑みはまるで儚さに欠けていた。


「さあ、"なぞなぞリドル"だ。カブト」


 好奇の光を宿した瞳は、天使というよりは、さながら死ぬまで悪ふざけをやめることのない悪戯好きの妖精オイレン・シュピーゲルだ。

 俺は彼女の言葉を待った。"出題者クエスチョナー"による、なぞなぞの始まりを。


「『壊れていないと使えないものはなんだ?』」


 ひどく芝居がかった調子で、天使は言った。

 この街の悪徳と歪みを紐解く為には、そうすることが必要なのかもしれない。

 うんざりする。

 

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