第五話 Turn over/ひっくり返す⑤

 占い処『千里眼』は、仙舟がこの都市に流れ着いてから、もう十年以上営業している。様々な組織が台頭しては消え去り、同業者もまた、泡のように現れては消えていくなかで、常に彼女だけがこの悪徳の都の情報を商品にする売人ハスラーとして生き延びてきた。


 時には、都市で行くあてを失った子供の面倒を見て、生きる術を仕込んでやることもあった。

 カブトはその一人だった。父親を殺してこの都市へ流れ着き、企業複合体の養育施設を出たころには、もう自分の本当の名前も名乗っていなかった。その頃から、彼は人狼殺しの『トリカブト』を名乗っていた。

 ひどいあだ名だと言ってやると、事実だからいい、とだけ答えた。

 自分の運命を襲った悪運をバッジにする。悪運を自らと等しくする事によって、自らの過去に影を落とす悲惨を踏破するという、悪童のならわし──少年だった彼の心を曲がりなりにも救ったのが、彼に与えられたその名前だったのだろう。

 カブトはそれから仙舟のもとを離れ、結局はエデンに戻って事件屋になった。


 仙舟に子供は居なかった。

 自らも少なからぬ悪徳にその身を浸してきたが故の報いであったか、仙舟に自らの子を成し、家庭を得るという幸福は訪れなかった。

 もっとも、そういった"人並み"の幸福はこのエンブリオでは途方もない高級品であることを彼女はとうに知っていたし、だからこそそれを求めようともしなかった。

 ただ、未練はあったのかもしれない。だから、時たまそうして行く宛のない子供に彼女なりのやり方で生き方を仕込んでやっていたのだろう。

 だが、そんな子供達も、彼女のように長生きはできなかった。

 転生者同士のつまらぬ諍いに巻き込まれて死んだ子供が居た。転生氏族の構成員となり、換えの効く駒として使い捨てられた子供が居た。あるいは、企業複合体のなんらかの遠大な……あるいは、ひどく些末な……計画の中で、自らでさえその全貌を知らぬまま死んだ子供もいた。


 カブトだけが、まだ生きている。

 だからなのかもしれない。かつて彼が引き合わせた幼い人魚の少女にも、同じように情を抱いてしまうのは。


『仙舟先生。私を"棺屋"に合わせてほしい』


 と、彼女は……ノエルは言った。

 ゆるい巻き髪は美しい金髪ブロンドで、蒼い瞳は決然とした闘志に燃えていた。

 仙舟の目には、彼女の心は赤く燃えているように見える。海のような瞳の青さは、彼女の心に燃える真っ赤な怒りによって塗りつぶされるかのようだった。


『よくない事が起こってる。見過ごせないんだ。私は、そうしなきゃいけない』


 ノエルは仙舟より遥かに重く人魚の転生が発症しているはずだったが、その両足を人魚のそれに成形してはいなかった。エデンが彼女に施した拡張義体は、両脚のそれではない。

 本来あるべきという自身の認識上の肉体の姿が、ただ生きているだけで別のものに歪められている。己が歪な生き物だと絶えず突きつけられる──重症化した転生者が拡張義体を用いた外科手術を拒否するというのは、そういうことだ。自らの命を否定されるような苦痛に襲われることになる。

 彼女は、魚の形をした自らの下半身が二つに引き裂かれるような違和感と苦痛を常に感じ続けているはずだ。


『声が聞こえるんだよ。ずっと……空耳が』


 仙舟はノエルの過去を知っている。その運命に暗い影を落とす悪運がいかなるものであったのかを、彼女がこの世の全てに向ける燃えるような怒りの由縁が何であるか知っていた。

 彼女を苛むのは、どんな時も変わらず彼女自身の命だった。

 自らがそのように産まれ落ち、そのように生きるということが、どんな時も彼女の心を苦しめてきた。


『私が、なんとかしなきゃ』


 そんな事はない、と言った。

 そんなものはお前の思い込みで、そのためにお前が危険を冒す必要などないのだと。

 だが、仙舟のその言葉が聞き届けられる事はなかった。

 この都市においては、"思い込む"ということこそが最も恐ろしく、普遍的な不治の病だということを、仙舟は誰よりも知っていた。

 知っていたのに……あるいは、知っていたからこそ、仙舟はノエルを止めることができなかった。


 後悔が消えることはなかった。無理矢理にでもエデンに連れ戻すべきだったのだと。

 棺屋が姿をくらますのは良くない兆候だ。この都市で大きな事件が起きるのは、決まってそんな時だ。

 加えて、カブトの持ち込んだ情報──人魚の連続失踪。

 通常ならば、仙舟もとっくに店を閉めて安全な隠れ家へ籠る所だ。

 だが、ノエルがまたここへ来るかもしれないと思った。カブトが、まだ自分を頼るかもしれないと。

 だから、仙舟は今なおここを動けないでいた。後悔が、彼女をこの場に留めた。


 そして結果的に、その後悔が致命的な遅れとなった。


「お邪魔しま〜す、っと」


 来客用のドアの開く鈴の音で、仙舟は思索から浮上した。

 室内に踏み込んできた客は、見慣れない女だった。それも、二人。


「いらっしゃい。占いなら十分二千円からだよ。手相を見るなら追加で三千円。前世の──」

「悪いんだけど、別の用なんだわ。ウチら占いとか全然興味ねーし」


 答えた女の髪は、毒々しいほど鮮やかな桃色だった。

 身に纏った黄色い雨合羽と相まって、目に痛い色彩であった。

 浮かべた笑みは浮薄そのものだったが、片方の唇の端から耳元まで裂けるように伸びた傷跡が、その印象をどうしようもなく獣じみて見せていた。


「無礼な客の多い日だね、用はなんだい?」

「婆さん、人魚でしょ?」


 仙舟は、これまで逃れ続けてきた悪運がついに自らの尾鰭を掴んだことを悟った。


「……狙いは若い女の人魚だって聞いてたがね。アタシも自分で思ってるよりまだまだイケるってわけかい?」

「ハハ! この婆さんおもろいよ、海月お姉ちゃん。どうする?」


 桃色髪の女は振り向いてもう一人に笑いかけた。

 もう一人の女……『海月』は、桃色髪の女とは対照的な、優美とさえ言える所作で口元を抑え、微笑した。


「どうする、と言っても仕事はしなくてはいけませんわね、蜜蜂」


 黒い髪に、黒い目の女だった。

 淑女じみた装いは『蜜蜂』と対照的ではあったが、共通するある種の不吉さを纏っていた。


「人魚の事件について、既にご存知のようですわね。随分耳の早いこと。噂通りですわ、仙舟先生?」

「フン、手相の一つも見せないで『先生』かね。そちらこそ随分じゃないか、一体どこの使いだい?」

「見当がつきませんか?」


 『海月』は不気味な微笑を崩さない。仙舟は自分が背筋に冷たい汗をかいているのを感じた。


「……人魚を狙うのは何故だい?」

「おい、疑問文に疑問文で返してんじゃねーぞババア。お勉強は0点かてめえ、あ?」

「およしなさい、蜜蜂。……そうですね、ではヒントを」


 『海月』の言葉に耳を傾けながら、仙舟の手は、テーブルの下で自らの下肢義装に伸びている。

 人魚のそれとなった下肢での陸上生活を補助するための歩行補助義装には、非常時のために拳銃が隠されている。

 暴力と悪徳の都で生業を持つ者の消せない習慣──仙舟自身は荒事に特段の適正を持つ事はないが、この距離でなら狙いを外す事はない。

 即座に狙い、撃つ。

 自分にそれができるのか。

 仙舟は表情を変えずに、ゆっくりと拳銃に手を伸ばす。


「人魚を狙うのは、実のところ目的ではなく手段なのですよ。あるお方にご助力を願うための」


 ひどく複雑に絡み合った、悪趣味ななぞなぞリドル

 ヒントを口にするのは、それを解く事は誰にもできないと勝ち誇るのと同義であるのかもしれない。


「あるお方……?」

「比類なきお方ですわ。そう、まさしく──」


 『海月』の口角が歪んだ。

 被造物のような、どこまでも不吉な笑みだった。


「──真の"勇者"、というべきですわね」


 女の言葉に、仙舟は彼女の纏う不吉の正体──その一端を垣間見た。


「アンタたち、反企業複合体──」


 仙舟は何かを言おうとした。

 拳銃を構えて、引き金を引いた。

 生き残ろうとした。

 だが、その全ては失敗した。彼女の言おうとした言葉が声になるより前に、その喉に釘が突き立った。


「グッ、カハッ──」

「ハハ! 残念でした〜」


 嘲笑する蜜蜂が手にしているのは、釘を弾丸以上の速度で打ち出す改造を施されたネイルガンだった。

 仙舟の放った弾丸は、蜜蜂の頬を僅かに掠めるのみだった。

 この場において圧倒的な弱者の立場にある仙舟には、謎かけの答えを口にすることすら許されなかった。


「そう。私たちの目的は若い女の人魚……その肉体ですわ。あの方は少々好みにうるさくて。あなたのもとへ来たのは、単に厄介な情報屋の口封じ」


 仙舟は、薄れゆく意識のなかで何かを考えようとした。何か、少なくとも価値あるものと思えることを。

 釘を打ち込まれた喉からとめどなくせりあがってくる血液が口の中を苦い後悔の味で満たした。


(ノエル……)


 少女の事を思った。

 痛む足で荊の道を歩く、少女を。


(頼んだよ……カブト……)


 そうして、この街で最も長く生き永らえた情報屋はその後悔に満ちた生涯を閉じた。


「どーする? お姉ちゃん。これ、持って帰る?」


 急速に命の痕跡を失っていく仙舟の亡骸を、『蜜蜂』は既に人間として見てはいなかった。そこにあるのは、ただ命の失せた肉の袋に過ぎない。

 死の匂いをあまりに嗅ぎ慣れてしまったせいで、そこに何の意味も見出せなくなった、尋常の人間とはあまりにかけ離れた価値観。

 だが、彼女は人間だった。少なくとも、病に侵されたこの街においては、極めて正しく『人間』と呼ぶべき存在だった。


「あのお方の好みからははずれますから、どうせ無駄でしょう。棺屋様はお喜びになるかもしれませんが、既に彼女には前金の報酬を払っていますからね。不要ですわ」

「よかった~婆さんの死体担いでいって要らねえとか言われたらさ、マジでキレちゃうよ。あの病人、殺したくなっちゃうもんね」

「蜜蜂、あまり滅多なことをいうものではありませんわよ。あのお方は既に我々の同志。真に勇者となるべきお方なのですから」


 『海月』は淀みなく言った。

 彼女の口にする言葉の端々にはある種の崇拝のニュアンスが含まれていたが、それは余りにも自然に彼女の精神になじんでいた。


「じゃあ、これでお仕事完了? 楽ちんだったねお姉ちゃん」

「……いいえ」


 『海月』は、来客用のテーブルに、まだ片付けられていない湯呑が残されているのを見とがめた。

 まだ温かい。客が帰ってからは、まだそう時間も経っていない。


「手遅れだったかもしれませんわね」


 『海月』は微笑を崩さない。


「先ほど、仕入れと解体を委託していたオークの巣がつぶされたと報告がありましたわね」

「ああ、聞いたよ」

「用心すべきですわね。すでに情報は外部に漏れている可能性があります。棺屋の潜伏先が万一挙げられれば、計画は水の泡」

「そんな警戒することかな? ケーサツがそんなに手早く捜査できるなんて思えないよ。ただの占いの客だったんじゃないの?」

「オークの巣をつぶしたのは、福祉局ですわ」


 『海月』は現場から上がってきた情報を思い返し、その内容を吟味する。

 複数のオークが生活するダンジョン化した構造物に乗り込んで、短時間で制圧する戦闘力を有した存在──俗に『迷宮局』、と呼ばれることもある。荒事専門の事件屋だ。


「彼らは企業複合体からの密命で、あらゆる事件を『無かったことにする』……警察とは真逆の、事件を迷宮入りにしてもみ消すための存在──だからこの街では、彼らは『迷宮局』と呼ばれているのですわ」

「ふーん、その迷宮局ってのがそんなにやばいの?」


 『海月』は笑みを深めた。

 それは、彼女を姉と呼ぶ『蜜蜂』のそれとよく似た、獣じみた笑いになった。


「棺屋様から聞いたお話によれば、『絶滅者スローター』、と呼ばれる方が居ますわ」

「『絶滅者スローター』?」

「そう」


 その不吉な言葉の響きを楽しむように、『海月』は呟く。


「この事件に関わっているのが彼ならば、状況は予断を許しませんわ」

「向こうには蠍お姉ちゃんが残ってる。……それでもまずいの? そいつは」


 『蜜蜂』は何かを楽しむように言う。

 母親の読み聞かせる物語を楽しみにする子供のような、屈託のない調子で。

 

「あの方は、一つの転生者の種族をこの世界から丸ごと絶滅させた──だから、『絶滅者スローター』と呼ばれているの。どう? 素敵だと思わない?」


 『海月』は、いっそ恍惚としたように言った。

 少なくとも彼女たち姉妹にとって、それは祝福すべき物語だった。この世界の誰もがその凄惨さに顔をしかめたとしても、彼女たちにとってだけは違った。

 転生者が人間社会における価値観と意識の差異者であるように、彼女たちもまた人間でありながら人間の社会における価値観の差異者であり、意識の差異者であった。


反企業複合体われわれの考えに耳を傾けて……もしかしたら友人になっていただけると思いませんか?」


 企業複合体アカシアという組織がある。

 彼らは我が物顔で世界に君臨し、支配を行う。一つの都市ですら、彼らにとっては広大な実験場に過ぎない。

 そんな彼らに反感を抱く人間が存在し、徒党を組むのは、ある種の必然だったかもしれない。

 『海月』たちもその中の一人であり、とりわけて危険な集団に所属している。


「そんなことより蜜蜂、血が出ていますわよ」

「ん? ……ああ、ほんとだ。ちぇっ、あのババアムカつくな〜。もうちょっと痛めつけてやればよかった」

「見せてごらんなさい」


 海月は、蜜蜂の桃色の髪に愛おしげに指を絡ませると、頬に舌を這わせた。

 滴る血の一滴までもを愛おしむように、傷口を愛撫する。

 ひどく歪で、ぞっとするほどに淫靡な光景だった。


「わたくし達の血は、水よりも濃い絆の証……無駄に流してはだめよ、蜜蜂」

「わかってるったら」


 死に満ちた空間で、姉妹は囁き合うように笑った。

 彼女達の歪を受け入れられるのは、同様に歪んだ組織だけだった。

 その組織の根底にあるのは富を独占する企業複合体への怒りであり、転生して人間ではないものになり果てた存在への差別意識であった。

 故に、それらの異形たる転生者と企業複合体に対する存在として、彼らは自らをそう自称する。


「──きっと素晴らしい『勇者』となってくださいますわ。お会いできたら。是非お話してみたいものですわね。『絶滅者スローター』様」



 組織の名は、『勇者同盟ブレイブ・リーグ』という。

 


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