第四話 Turn over/ひっくり返す④

 エンブリオ市第七地区。

 エンブリオ市は同心円状の多重積層都市である。それ自体が企業複合体によって一から形成された都市であり、収容される転生病者の増加に併せて歪な伸長を繰り返し、その度に外周を継ぎ足して来たからだ。

 ここに暮らす人々の多くは病人であり、彼らの生活のためには適切な分断が必要だった。

 転生病を発症した者が、誰しも人間離れした義体を必要とするわけではない。薬で症状を抑えたり、体感映像で認知的不協和を緩和しながら普通の人間とそう変わらない生活をしている者も多い。

 そんな彼らが、侮辱されたら火を吹いて相手を丸焼きにする完全義体のドラゴンや、人工筋肉と人工脂肪で異常巨体になった人攫いのオークなんかと、果たして一緒に生活できるだろうか。

 答えはノーだ。どうしようもない断絶がこの街を切り分けている。

 神様がノーと呟くたびに、エンブリオは新たな殻を纏ってきた。その度に街は大きくなったが、都市を切り分ける断絶もまた永遠に癒えることのない傷口のように広がっていった。


 第七地区。世界樹じみて巨大な企業複合体の本社ビルを中心に同心円状に広がったこの都市の、七枚目の壁の内側──『人間の居ない街シャッタード・シティ』と呼ぶ者も居る。

 この壁より向こう側には、自分を正しく人間だと認識する者は生活していない。

 その壁の内側を、癒えることのない断絶の傷口をなぞるように、俺たちは走っていた。

 ほとんど私物同然の社有車であるピックアップトレーラーの荷台では、ギギがばかでかい猫みたいに丸くなっている。


「嫌だなあ」

 

 もうすぐ目的地に着く。俺は憂鬱で仕方なくて、誰にともなく呟く。


「俺、あいつら嫌いなんだよ。陰気でさ」


 助手席に座る少女──要は、一言も発さない。

 俺たちがオークのダンジョンを探索している間も、要は助手席に居た。常に一定の距離で彼女の世話をするのが俺の仕事の一つであり、同時にそうして同行するのが要の仕事でもあった。彼女の特殊な転生は、この上なく有用で、同時に危険なものだ。


『奴らモ、お前の事は嫌いダロう』


 車内のスピーカーから、荷台にうずくまるギギの声が聞こえた。

 無機質なノイズ混じりの機械音声は、どういうわけかいつでも不機嫌そうに聞こえる。


『棺屋は死者を愛し、生ある者を等シく厭悪している。人モ、それ以外も』


 世にも名高きエンブリオ屈指の異常性癖集団の名を、【深き眠りの同胞団スリーピー・ナッツ】という。

 同胞団は重篤な生ける屍リビング・デッドの転生者にして死体性愛者である"棺屋"のザキとその配下達によって運営される非合法の清掃業者である。

 彼らは都市中の犯罪組織と強いパイプを持ち、各地で勃発した抗争や殺人の現場に赴いて速やかに現場を清掃する。

 彼らは都市の一角に打ち捨てられた死体処理場を根城にしており、現場から回収した死体を保管している。

 この街で事件が起きて、死体が見つかっていないなら、そこにある可能性が高い。

 そうでなくても、死体を集めたくてウズウズしている"棺屋"は都市中の血なまぐさい事件に精通している。今回の事件について、何か情報を握っているかもしれなかった。


『……ノエルの死体ガ見つかったら、『エデン』が回収しに来ルか?』


 義体と接続された車内のスピーカーから、ギギの躊躇いがちな声が聞こえた。自分の口にした言葉に怯えているようでもあった。

 友達の話をすると、ギギの中にある人間らしい感情の残滓が浮き彫りになる。どれだけ自分を不滅のドラゴンだと思い込んでいても、その精神の根底は人間として生まれたという事実に縛られている。心までドラゴンにはなりきれない。それは同時に、ギギを苛む『人間であるという事実とドラゴンであるはずだという認識の齟齬』という苦痛が、本質的には永遠に解消されることの無いものだということを示してもいる。


「ああ。仕事だからな」

『……棺屋が回収する方ガ、幾らかマシかも知れンな。奴らは死を愛すルが、辱めはしなイ』

「ノエルの事は俺も知ってるが、そう簡単に死ぬようなタマじゃないだろ。案外本当にただ家出してるだけで、今ごろもう『エデン』に帰ってるかもしれないぜ」


 気休めだったが、同時にそれは俺自身が欲している言葉でもあった。俺たちの知る"泣き虫"ノエルは跳ねっ返りの不良娘でどうしようもないクソガキだが、それでもギギにとっては友達だったし、俺にとっても死んでほしくない奴だ。

 どれだけ死の匂いを嗅ぎ慣れてしまったとしても、見知った人間の死にまで慣れきってしまったら終わりだ。そうなってしまったら、そいつは本当の意味での人でなしに成り下がってしまう。


「戻ったら心配かけさせやがった罰としてノエルに飯でも奢らせようぜ。要も行くよな?」


 助手席の少女に語りかける。その目はフロントガラスの遥か彼方の虚空を見つめていて、やはりどこにも焦点を結んでいない。それでも、俺は彼女に話しかけるのをやめなかった。それが仕事だし、そうすべきだと思うからだ。


『そいつニいくら話しかけてモ無駄だ』

「そんな事ないさ、きっといつか俺の真摯な心が通じて、にっこり笑ってお礼を言ってくれるだろうぜ」

『恩着せがましい介護士ナド、私ならバ御免だがな』


 ギギの減らず口も、運転中の眠気覚ましくらいにはなる。

 車は狭い通りを抜けて、大通りに差し掛かろうとしていた。半分開いた窓から、街の喧騒が流れ込んでくる。

 人間の居ない街シャッタード・シティは、その名に反して極めて雑多で人間的な営みが繰り広げられている。大通りにはバラック屋根の屋台が無数に軒を連ね、そこでは日夜ありとあらゆる物が売り買いされている。

 今朝の朝刊から、元が何のものかもわからない肉を大量の香辛料で味付けした何かの料理、電脳麻薬や、企業複合体の療養施設で服用される射倖剤アンチ・ドートの横流し品、果ては出所のわからない各種の拡張義肢サイバネに至るまで。

 質を問わなければ、およそ望む限りの全てが手に入る。

 正しい人間の居ないこの隔離された街シャッタード・シティの大通りは、皮肉にもエンブリオで最も盛んな市場マーケットだった。


「じゃ、行ってくるわ」


 棺屋は都市に無数存在するセーフハウスに身を潜めている。死体の匂いを嗅ぎつければどこへでも現れるのが奴らの習性だったが、こちらから会いに行くにはそれなりに手順が必要になる。現在の奴らの潜伏先を知る人間から、その情報を聞き出さなくてはならない。

 俺は適当に車を路肩に止めて、運転席のドアを開いた。この先の通りは道が混みすぎていて車じゃ通れない。ギギは人ごみを歩くには目立ちすぎるし、余計なトラブルの元だ。だから、俺が一人で歩いていく必要がある。


「要のことちゃんと見とけよ、ギギ」

『知ったことデハない』


 荷台ですげなく答えたギギは、けだるげに尻尾を振ってみせた。

 なにもやる気がないわけではない。現に親友の命がかかったギギは、普段より焦ったそぶりを見せているくらいだ。

 ただ、ドラゴンの義体を操るのにはそれなりの集中力が必要になる。だからギギは、自らの力が必要とされるその瞬間以外には自分の力を蓄えているのだろう。不真面目なようでいて、ギギはその実誰よりも自分自身の力の持つ価値を知っている。


「要、すぐ戻るからな」


 去り際に、俺は助手席の要に声をかけた。要は相変わらずここではないどこかを見ていた。その目が正しく俺の見ている世界と同じ場所に焦点を結ぶことはない。

 要は答えず、ギギがうっとうしそうに唸る声だけが聞こえた。


『気は済んダか?』

「ああ、行ってくる」


 ギギは俺が要に声をかけるのが気に食わないらしい。

 ギギは自分自身をドラゴンだと思い込んでいるが、同時にこの世のどこでもない場所に意識を飛ばした夢想家の要をひどく見下して、嫌悪してもいた。自分の世界だけが真実で、その目には自分以外の異形者は全て異常者に見えている。ギギがそうであるように、転生者の中にはそういう手合いはそれなりに居る。

 転生者の排斥と企業複合体の打倒をその理念とする反企業複合体テロ組織ブレイブ・リーグにも、転生者の構成員は少なくないと聞く。

 それをなにか皮肉めいた事柄だと捉えることもできたかもしれないが、少なくとも俺にはそうは思えなかった。

 その程度の冗談は、この街ではあまりにありきたりすぎる。




***





 目抜通りから少し逸れた路地の一角。ビルの屋上にピンクの宗教的偶像ダイブツが突っ立った冒涜的な雑居ビル。入り口では毒々しいネオン看板が商いの盛況を過剰に喧伝している。

 ビルの中は特定の転生者や極度の拡張義肢サイバネを抱えた人間達のキャバクラや、風俗店が営業されている。こうして"人間の居ない街"で売買される退廃に満ちた娯楽の多様ぶりを見るたびに、俺はかえって人間という生き物の抱えた業の深さを思わずにはいられなくなる。

 俺の目当てはそのビルの三階……『千里眼』という、冴えない名前の占い屋だ。


「嫌な客が来たね」


 ドアを開けた俺の顔を見るなり、その老婆は顔をしかめて言った。


「けったいな接客だな。茶は出ないのか? 喉が乾いた」


 俺は明らかな非歓迎ムードをあえて無視して、来客用のソファにどっかと腰を下ろした。

 老婆は深い苛立ちを込めてため息を吐いた。


「なんだいカブト。いよいよ進退窮まってアタシに手相でも見てもらう気になったのかい」

「もしそうなったら、俺もいよいよ終わりだな。当然別件だよ」


 老婆はもう一度ため息をついた。腹の底から吐き出すように、深く。


「ウチは占い処だよ、表の看板が読めなかったのかい?」

「どうせインチキだろ? 仙舟先生よ」


 俺に言わせてもらえば、占いなんて全部インチキだ。手のひらのしわで人間性を測ることなんて出来ないし、まして未来など解るはずもない。

 彼女……仙舟もまた俺にとってはその手合いだったが、どうやら彼女自身にとってはそうではないらしい。


「自分が何を信じたいのかわからないやつなんてのはこの世にごまんといるのさ、こんな街なら尚更ね。それを見つける手伝いをしてやるのにインチキもクソもあるかい」

「詐欺師って奴は、自分の嘘を隠す方便だけは用意がいい」

「あんたみたいな心に余裕のない男には、どのみち理解しようのない話さね」


 仙舟が頭痛をこらえるようにこめかみを押さえると、机の下で彼女の足が……否、生体拡張義肢によって魚のそれに作り変えられたヒレがパタパタ揺れるのが解った。

 彼女は人魚であり、同時に自分を霊視能力のある占い師だと思い込んでいる。

 この都市でも類を見ない、極めて珍妙な精神構造を持った二重の呪われ人だ。


「それで、何の用だい。カブト」

「棺屋に渡りをつけてほしい」


 俺は単刀直入に本題を切り出した。

 仙舟は苦虫を噛み潰したような顔になる。知ったことじゃない。


「企業複合体からの調査依頼で、ある事件に関する死体の情報を洗う必要がある。奴らの今の居場所がわかるか?」

「ある事件ってのは?」

「若い人魚の女の、連続失踪事件だ」

「人魚の?……ふむ……」


 仙舟は顎に手を当てて、しばし考え込んだ。

 棺屋は都市のあらゆる場所に点在する自らのセーフハウスを定期的に移動している。

 噂じゃあ都市の地下には奴らが今まで集めた山のような死体を保管しておくバカでかい死体安置所モルグがあるらしいが、その実在も含めて、棺屋の所在は常に謎の中にある。

 その所在を知るのは、彼女たちと同等以上にこの都市の裏の事情に精通し、その情報を売り買いすることを生業にする類の人間だけだ。

 つまり、この仙舟のように。


「棺屋の情報は火薬庫同然さ。安かないよ」

「昔のよしみだろ。まけてくれよ」

「冗談じゃないよ。あんたエデンの使いで来てんだろ? この街で金払いを渋った奴がどうなるか、誰が教えてやったと思ってんだい」


 仙舟は占い師としてはインチキだが、情報屋としては指折りだ。だから、わざわざこんなところにまで来ている。

 仙舟は少し考えるように視線を逸らして、やがて低い声で呟くように言った。


「……あいつらはそこに死体があればどこからでも現れるんだ。滅多な事がなけりゃ自分から手をつけるもんじゃない。触らぬ神になんとやらさ」

「この都市の神は企業複合体アカシアだろ。ばっちいから触りたくねえってのは同感だがな」

「どのみち、今奴らに近づくのは難しいね。完全に潜っちまってる」


 仙舟は立ち上がり、棚の湯呑を二人分取って茶を入れ始めた。

 症状の進行した人魚の転生者は下半身を魚のそれに成形するため、地上での日常生活がひどく困難になる。仙舟もその例に漏れず、日常生活にはエデンの開発した特殊な歩行補助具を使っている。要するに電動車いすのようなもので、俺が仕事に使っているスーツと同様のものだ。この手の義装は、拡張義肢サイバネティクスの発展に伴って補助的に成長している分野だ。


「実際珍しい話さ。奴らが姿をくらますのはね。アンタがここに来てやつらの情報を探っているのも、どうやら無関係ではなさそうだね」

「だろうな」


 仙舟は茶を淹れた湯呑みをテーブルに置いた。

 エンブリオには世界中から多種多様な人種が集まる。国家は形骸化したが、この都市を支配する企業複合体アカシア起源ルーツが日系企業であるために、都市には日本式の社会様式が幾らか残っている。


「まあひとまず落ち着いて、茶菓子でも食いな。鼻息荒くしたって物事が好転するでもなし」

「俺はいつだって落ち着いてるよ」

「そうかい。いいから食いな。気分が良くなるよ」


 俺は仕方なく仙舟の供した茶菓子を口に詰め込んだ。あんこのぎっしり詰まったモナカだ。甘いものは好きじゃ無い。仙舟もそれを知っているはずだったが嫌がらせのためか、時折こういうことをする。

 俺は口の中のモナカをお茶で飲み下して、少し息をついて改めて仙舟を見た。気分が良くなったかは、わからない。

 仙舟はまた小さくため息をつく。


「しかし、相変わらず面倒ごとに首を突っ込むのが好きだね、カブト」


 ひどく心外だし、俺は昔からこの手の面倒ごとが大嫌いだったが、いちいち訂正するのも面倒だった。思えばそういう怠惰が今の俺の現状を形成している気もするが、かといって改める気もない。

 都市から消えた人魚の死体。死体を愛し、収集する棺屋ならばそこにたどり着く情報を知っているかもしれないと考えたが、どうやらもっと直接的にあたりを引いた可能性が高い。


「棺屋どもがまたぞろ薄気味悪い真似をしてやがるらしい。趣味じゃなくても首を突っ込むのが商売だろ」


 この都市の頂点が神にも等しい企業複合体アカシアであるならば、棺屋は彼らの形成する食物連鎖の最下層にあたる存在だ。

 あらゆる生者の下にあって、死したものを都市の利益構造に還元する分解者。奴らは常に事件の現場にただ「居合わせるだけ」だ。

 だが、奴ら自身がその「死体を愛し、収集する」という習性に自ら反して事件に対して積極的に介入すると、ほとんど最悪と言っていい事態になる。

 奴らが自らの習性に反した行動を取るのは、必ず、より大量の死体が生まれる時だからだ。


「……アンタは全く、相変わらずいつも怒ってるんだねえ」

「怒ってない。知った風な事抜かすないんちき占い師」

「いんちきじゃないさ。オーラが見えるんだよ。燃えるみたいに真っ赤なオーラがね」


 俺の目を見て、仙舟は独り言のように言った。

 当然オーラなんてものはこの世に存在しないし、仙舟が言っているのは嘘か、自分をそういうものだと思い込んだ病人が口にする類の妄言だ。この都市では、特に珍しいものでもない。

 無視することもできた。実際、いつもはそうしている。まともに聞いても無駄だからだ。


「アンタと同じ色をした子が、同じことを私に聞きにきたよ。あんたもよく知っている子さ」


 俺は猛烈に嫌な予感がした。仙舟の目は、影がさしたように暗い。


「……ノエルか?」


 行方不明になった人魚の一人──事件の発生と前後して外界から隔離されたエデンの研究所を自ら抜け出し、それ以降姿をくらましている少女。

 目下のところ、俺たちが最優先で探し出すべき対象だ。

 仙舟は、頷くともうなだれるともつかない調子で目を逸らした。


「いつだ?」

「三日ほど前さ」


 ノエルが姿を消したのが一週間ほど前だ。どうやらノエルは、独自にこの事件を捜査しようとしていたらしい。

 ノエルには、以前俺から研究所の外の歩き方を教えてやった事がある。仙舟の婆さんともその時に引き合わせた。同じ人魚の転生者同士、何か役に立つかもしれないと考えて。


「何を伝えた?」

「何も。私は奴らに関わるなとだけ。だが、そう言って聞く子じゃないのはお前も知っているだろう?」


 仙舟の表情に隠しようのない苦渋が満ちるのがわかった。

 自分と同じ人魚の転生者となった少女にいつかの自分を重ねて、その在り方にかつての自身の苦痛を見ているのだろうか。

 この退廃と俗悪に満ちた都市で自らも少なからぬ悪徳に身を浸して来た仙舟のような者の心にさえ、そんなひどく人間的な柔らかさが残されているのが不思議に思えた。


「あの子の心はいつも燃えるように真っ赤だよ。いつ焦げ付いてもおかしくないほど。この世の不実と残酷の全てが、あの子の怒りの対象なのさ」

「社会の全てに怒って、革命家にでもなるつもりかよ」

「純粋なのさ、あの子は。今のアンタよりずっとね」


 人間の心を色として知覚するなんて、インチキもいいところだ。

 ただ自分がその人間に感じている印象を、もっともらしくて抽象的なモチーフに当てはめているだけに過ぎない。

 だが、仙舟の言うことは俺にも理解できた。

 "泣き虫"ノエルは、いつだって怒っている。

 だからこういう危険に自ら首を突っ込んで取り返しのつかない事になる。


「どうして私は、あの時、あの子をエデンに帰してやらなかったんだろうね」


 他人の未来を占う事ができるのに、自分は後悔しているのか、とは言わなかった。

 誰もがそうだからだ。この世に生きる誰もが、いつだって自分の過ちを悔いている。

 未来なんて誰にもわからない。仮に分かったとしても、きっとこの世から後悔が消えることはない。

 どれだけ救いようのないほど人間から乖離してしまったとしても、その心から生じる苦痛から逃れることはできない。

 

「……棺屋の居所を……その可能性が高い場所を、教えてもいい。ただし条件がある」


 仙舟はルーズリーフに何かを書きつけて、俺の目の前に差し出した。

 その目の奥に焦げつきそうな感情の揺らぎがあるのが、俺にも分かった。


「ノエルを助けてやっとくれ、カブト」

「ああ」


 俺はメモを受け取って、席を立った。


「元からそのつもりだ。それが仕事だしな」

「あんたもあの子と同じさ。あの子と同じで、いつだって怒ってる」


 やっぱりこいつの占いはインチキだ。

 俺は、どんな時も氷を呑んだように冷静だ。


「怒りは使い方を間違えばすぐに真っ黒に焦げついちまう。そうならないために、正しく怒るんだ。正しい怒りは、きっとアンタらを正しい方向に歩ませる推進力になる」

「ババァ、占いは要らねぇって言ったろ」


 年寄りは話が長い。

 俺は仙舟の妄言を鼻で笑い飛ばしてやった。


「相変わらず、アンタは昔から可愛げのないガキだよ、カブト。死ぬんじゃないよ」

「チッ」


 この婆さんにかかれば、俺はいつまで経ってもガキのままだ。調子が狂って仕方がない。

 この街に来て、企業複合体からの援助を打ち切られた俺は、自分で自分の生きる道を探さなくちゃならなくなった。伝手もなければあてもない。周りは自分を怪物だと思い込んだ異形者だらけで、突発的な死の危険は影のようにまとわりついて消える事がない。

 いつ死んでもおかしくなかったし、実際そうやって死んでいくやつはこの街にはいくらでも居る。そんな時に、最初に俺の仕事の面倒を見てくれたのが仙舟だった。

 仙舟は俺に比較的安全な仕事を斡旋し、この街を死なずに歩ききるための最低限のルールとマナーを教えた。

 一度、何故そんなことをするのかと聞いた事がある。すると鬱陶しそうに「袖触れ合うも他生の縁」だとか言っていた。年寄りの言うことは意味がわからないし、それが占い師で人魚なのだから、俺にとっては迷宮入りのなぞなぞリドルと同義だ。


「自分の心配しろよ。どうせ老い先短えだろうけど、人魚が狙われてるって話したろ」

「アンタ、"若い女の"って言ったじゃないか。驚きだね、アタシのことそんな目で見てたのかい」

「クソババアめ」


 聞いてられない。俺はさっさと店を出る事にした。


「せいぜい長生きしろよ」

「アンタこそ、風邪ひくんじゃないよ」


 ドアを開いてから一度だけ振り向いて、仙舟の顔を見た。

 老婆はしわくちゃの顔で、微かに笑っていた。

 俺は外へ出て、ドアを閉めた。




***




『収穫はあったカ?』


 俺が戻ると、ギギはうっとうしそうに言った。

 俺は仙舟から預かったメモを見せびらかすようにギギの目の前で振って見せた。


「棺屋の潜伏先として可能性の高い場所だ。今から向かうぞ」

『無駄足ニならなけば、良いガな』

「仙舟のところには、ノエルも来ていた。三日前だ。少なくとも、その時には無事だった」

『ナニ?』

「ノエルも棺屋を洗ってたらしい。どうやら、ノエルもノエルでこの事件を追ってたようだな」

『自殺行為だ』

「同感だな」


 だが、これで話はシンプルになった。棺屋を追えば、恐らくノエルの足取りの手がかりも掴める。


「行くぞギギ。ここからスピード勝負になるぞ」

『フン』


 俺はトレーラーのエンジンをかけてアクセルを踏み込んだ。

 仙舟のメモが示す先は、この第七地区シャッタード・シティの中だった。

 エンブリオで最も猥雑で混沌としたこの一角は、確かに奴らのような異形者が潜伏する先としてはうってつけだ。

 暴力と死に満ちたここ以上に、棺屋の身体にしみついた死の匂いを隠すのに適した場所はない。


「さて、無事だといいが」


 独り言が口をついた。

 仙舟の老婆心が移ったのかもしれない。

 忌まわしいことだ。

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