第16話 再生

 ディートリヒがリリーに敗北して数日。

 ディートリヒは起き上がることもままならない重傷を負っていた。ディートリヒの若さがあっても、傷が癒えるまではまだしばらくかかりそうだった。

 ケガで日常生活もまともにこなせないディートリヒの看病を献身的に行う者がいた。天下無双エマ・ヴァールハイトである。

 

 エマはベッドに横になるディートリヒの前に立つと、ディートリヒの患者服を掴み、ゆっくりとはだけさせて、ディートリヒの胸を露わにした。

 エマの脈動が速まる。エマがごくりと唾を飲みこんだ。そして、少し上気した顔でディートリヒの胸に手を伸ばす。

 エマの細くしなやかな指がディートリヒの厚い胸に触れ——。

 


 貼り薬をぺりっとはがした。

 そして新たな貼り薬を貼り付ける。「これでよし。ディーくん横向ける? 次背中貼るから」

 反応のないディートリヒの背中とベッドの間にエマが無理やり腕を差し込んで、よいしょ、とディートリヒを転がした。

 ディートリヒの声が聞こえたのは、エマが先ほどとおなじく、ぺりっと背中の貼り薬を剥がした時だった。


「何故、お前が俺の面倒をみようとする」


 その声には覇気がなく、以前のディートリヒのような勝気な気勢は見られなかった。

 エマはドキリとした。「キミが好きだから」と口走りそうになり、すんでで思いとどまった。


 エマは自分の気持ちをごまかすように、「なんて言ってほしいわけ?」と少し突き放したような言い方をした。口にしてから、なんか嫌な女だな、と少し後悔する。

 

 ディートリヒは答えなかった。無言で横たわるディートリヒは、息もあり、脈もあり、意識もあるのに、まるで屍のようだった。

 エマは小さく吐息をついてから「リリー・ヴァールハイト。それがあの子のフルネームだよ」と唐突に言った。ディートリヒは、目を少し見開いてエマに振り返った。

「そう。ヴァールハイト。強かったでしょ。あたしの妹は」


 ディートリヒは、思考を巡らせているのか、黙りこくって口を開かない。だから、必然的にエマが語り続ける形になった。


「あの子が小さい頃から、戦いごっことか、そういう遊びばっかり相手させられたんだけどさ。あの子、戦闘センスは、なかなかのものだったから、あたしも調子に乗っちゃってね。小さい頃から鍛えまくってたら、あの通り。見事な戦闘狂になっちゃったってわけ」


 エマは貼り薬を貼り終わると、再びディートリヒを仰向けに横にさせて、ディートリヒの髪を撫でた。いつもなら抵抗するディートリヒは、ケガでできなかったのか、あるいは精神的に参っていてできなかったのか、とにかくエマにされるがまま、撫でられていた。


「まぁ、まだまだ甘いところは多いんだけどさ、あの子も。だけど、弟子のやらかしたことは師の責任でもあるから。ごめんね、ディーくん」


 無論、エマがディートリヒを看病するのは、それだけではなく、むしろそれ以外の要因の方が大きかったのだが、今のエマに本心を話す勇気はなく、師弟関係を前面に押し出して誤魔化した。

 

 ディートリヒはエマには答えず静かに天井を見つめていた。

 感情のせめぎ合いの末か、ややあってからディートリヒの目の端を一筋の涙が伝い落ちた。

 ディートリヒは自分でも驚いたように目を丸くし、かろうじて動く右腕を額に乗せて、エマの視線を遮った。

 それでも尚、決壊したダムのように涙はあふれ、枕を濡らした。受け入れがたい事実を、歯を食いしばって呑み込むように、ディートリヒは嗚咽を漏らして泣いた。


 エマは黙ってそれを聞いていた。

 己の強さを疑わず、何が起きてもそれを支えに生きてきた人間が、たった一度の挫折で、心折れてしまうことはよくあることだった。

 だが、己の弱さを知ることはディートリヒが高みを目指す上で、絶対に必要なことだとエマは認識していた。そのために、今は簡単に甘い言葉を投げかけてはダメだということも。


(たとえ、ディーくんに憎まれたとしても……)


 ディートリヒに避けられる自分を想像して、手が震えた。涙が零れそうになった。もはやエマにとってディートリヒはなくてはならない存在になっていた。


(ディーくんに嫌われた未来…………無理無理無理無理! 絶対無理!)


 だが、心でそう叫ぶ自分を、エマは最後には振り払って消した。好きな人のこころざ大望たいもうを邪魔したくはない、という思いの方が強かった。たとえそれが原因で憎まれることになったとしても。たとえその大望が天下無双エマ・ヴァールハイトを殺すことだとしても。

 エマはディートリヒに必要な言葉をはっきりと口にした。


「キミは弱い」


 ディートリヒが一瞬、目を見開くのが腕の間から見えた。そしてエマの言葉を噛みしめるようにゆっくりと瞼を閉じる。

 長い沈黙があった。重い空気が病室に充満し、この部屋だけ時が止まってしまったのではないかと思える程だった。もう2度とディートリヒは目を開かないつもりではないか。エマはそんな心配をしていた。

 だが、ディートリヒは目を開いた。美しいグレーの瞳がゆっくりとエマに向く。そこには以前の獰猛な虎のような威圧感はなく、静かな水面を思わせる透き通った光があった。エマはその瞳に、決して折れない強い意志を見た。

 ディートリヒは腕を下ろし、傷だらけの上体を少しだけ起こして、エマに向き直って言った。


「エマ・ヴァールハイト殿。俺に…………稽古をつけてくれ」

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