第8話 恋慕

 エマ・ヴァールハイトは、勘違いするな、と必死に己に言い聞かせていた。


(彼は契約があるから優しい、彼は契約があるから優しい、彼は契約があるから——)


 呪文のように心で詠唱しながらも、エマの顔は耳まで真っ赤である。エマも心身ともに健康な一人の女なのだ。初めての刺激に身体が疼くのは致し方の無いことだった。


(だいたいそもそも、あたしだって別に望んでいたわけじゃないし? ディーくんは確かに顔が良いし、良い男ではあるけれど、だからといって別に別に別にあたしは別にディーくんのことは別にただのいち生徒としてしかみてないし? 別に?)


 エマは言い訳するように、別に、と心で連呼した。

 様々な料理の乗ったテーブル付近に着いた時だった。エマの進路を遮るように見知った顔が現れた。


「オリヴィア様!」とエマが眉を上げて言う。ディートリヒと一緒にいるときは見つからなかったのに、ディートリヒと別れた途端に現れたことに、エマは、もぉ! と腹の中で嘆く。


「ごきげんよう」とだけオリヴィアが言った。表情は冷たく、敵意を感じられる程だった。

 エマは自分が一人でいることを、あたふたと弁明し始める。「これは、その、違うんです! 別に一人で来たわけではなくてですね——」


 しかし、意外にもオリヴィアは「例の婚約者くんと来たんでしょう」とエマの言葉を遮って言った。エマは意表を突かれ、言葉に詰まる。


「踊っているのを見たわよ」とオリヴィアが言うと、エマがようやく返答した。

「あ、ああ。そ、そそそうなんです。ディートリヒくんと来たんです」


 オリヴィアは嘲笑するように鼻を鳴らした。「ラッキーだったわね」

「ぇ……っと、ラッキー?」

「あんな上質な男、いくらで雇ったの?」オリヴィアはニヤニヤとした笑みを維持したまま、上目遣いにエマを見た。

「ちょっとおっしゃってる意味が分かりません」とエマも愛想笑いで返すが、オリヴィアはそれでも許してはくれない。

「誰にも言わないから、教えなさいよ? 金でしょ? それとも脅したの? 一緒に舞踏会に来てくれないなら殺すわよ、って」


 あははは、と愉快そうに笑うオリヴィアにエマはむっとして「雇ってません。彼はあたしの婚約者ですから、舞踏会も快く引き受けてくれました」と反論した。当然嘘である。ディートリヒはエマとの決闘を餌に釣ったのだ。つまり、オリヴィアの言い分は当たっている。

 だが、エマにもプライドがあった。絶対に見返してやる、という思いで目上のオリヴィアに楯突いた。


 オリヴィアはエマの反抗に眉間にしわをよせて不愉快そうに顔を歪めた。「嘘おっしゃい!」甲高い声が会場に響く。「あなた如きにあんな上質な男が無償でついてくるはずないでしょう!」


 エマは黙り込んだ。流石にこれ以上、怒らせるのはまずい、と思ってのことだった。

 エマは口が動かせない分、無意識に目が動いた。手持ち無沙汰なエマの目はオリヴィアの後ろに控える貧相な身体付きの男に向いた。おそらくオリヴィアの今日のパートナーだと思われた。男は下を向き、びくびくと怯えた表情で佇んでいた。


 エマが男を見ていることをオリヴィアが察したのだろう。劣等感や嫉妬心を刺激したのか、オリヴィアの怒りに拍車がかかった。


「何見てるのよ! あなた私のことバカにしてるの?!」


 オリヴィアがエマの肩を右手で突くように押した。

 エマからすれば、スローモーションに見えるような、攻撃とも言えない攻撃である。避けようと思えば、簡単に避けられた。だが、エマは避けないことを選んだ。それが最もオリヴィアを刺激しないと瞬時に判断したのだ。

 エマはその一瞬で敢えて体を纏う魔力を消し、オリヴィアの肩押しを生身で受けた。バランスを崩して尻餅をついた。


「こんなのも避けられないなんて、大した天下無双ね」


 オリヴィアはエマを見下していった。エマにしてみればそんな言葉は痛くも痒くもなかった。エマにとっては『天下無双』など取るに足らないものであり、それを貶されても思うところはまるでない。


「あはは……」とエマは笑ってごまかした。


 だが、オリヴィアは余程怒っているのか、エマを責める口が止まらない。それはエマに留まらず、そのパートナーであるディートリヒにまで波及した。


「あなたに、のこのこと付いて来るのを見るに、どうせあの男も金目当ての卑しい売春夫なんでしょうね」


 エマを打ち負かすことだけを願う悪意に満ちた言葉は、エマではなくディートリヒをターゲットに変えた。

 エマは心中穏やかではなく、怒りが湧き上がった。


 

「違います!」とエマが声を荒げた。「ディートリヒくんはそんな人じゃ——」

「お黙り!」


 オリヴィアがテーブルにあった酒の入ったグラスを掴み、エマに向けて酒を放った。

 エマは目を瞑って、酒に濡れるのに備えた。

 

 だが、水が打ち付けられる音は鳴ったものの、エマには水の冷たさは全く感じられない。ドレスが肌に張り付く不快感もない。

 エマがおそるおそる目を開くと、目の前に大きくて広い背中が見えた。黒い燕尾服の背中。


「ディーくん?!」


 ディートリヒの前髪に酒が滴っていた。エマを庇って酒をかぶったようだった。

 オリヴィアは突然のディートリヒの乱入に、目を見開き固まる。

 ディートリヒがゆっくりとエマに振り向いて、手を差し伸べた。「立てるか?」

「う、うん」


 エマは戸惑いながらも、ディートリヒの手を掴んで立ち上がる。


(なんだこれ、え、あたし、男の子に……庇われてる?)


 えも言えぬ高揚に顔が火照る。女は男を守るもの。その常識が翻ろうとしている現状に、エマは胸の奥がきゅっと圧縮されるような思いだった。


「オリヴィア殿」とディートリヒが呼び掛けた。次の瞬間、エマはディートリヒに肩を抱き寄せられる。いひぃぃいい、とエマは更に顔が上気し口を半開きにしたままカチンコチンに固まる。

 

「あまり俺の女を侮辱しないでいただきたい」


 ディートリヒは鋭い目でオリヴィアを真正面から見据える。

 ややあってからオリヴィアは無言のまま面白くなさそうに踵を返して去って行った。

 エマはと言えば、劇薬でも飲んだかのように心臓が暴れ回っていた。


(待って?! 何これ?! 待って! ヤバい!)


 ディートリヒの顔をまともに見られなかった。

 思考も回らない程の混乱の中で、きゅんきゅんと謎の脈動が心を震わせているのは確かに感じる。それはディートリヒの顔を見ると顕著に現れた。


(ズルいって! それはズルいってェ! ちょ待——ぇ、かっこよォ!)


 エマはディートリヒの顔をチラッと覗き見て、また悶える。もはや自傷行為じみていた。

 やがて沈黙に耐えられなくなったエマが「す、すごい演技力だったね」と顔を真っ赤にしてかろうじて口にした。

 だが、ディートリヒはゆっくりとエマの顔を見つめ返すと、「演技じゃない」と答えた。


 ぇ?

 演技じゃ…………ない?

 ぇえ?! それって……ぇえ?!

 エマはパニックに陥りながらディートリヒの言ったことを今一度思い返す。




 ——あまり俺の女を侮辱しないでいただきたい



 ——あまり俺の女を



 ——俺の女を



 

 ぼっ、と顔がさらに燃えた。

 聞き捨てならない言葉だった。


「それは……どういう——」


 ことなの、と聞こうとしてディートリヒに目を向けて、エマはぎょっとした。

 ディートリヒの方こそ、顔が真っ赤で、目は眠そうにとろけ、頭はふらふらと船を漕いでいた。

 

 あー……これ、まさか。


「キミ、酔っぱらってない?」


 エマの声に反応して、ディートリヒがゆっくりとぱちくりと何度か瞬きした。

 そして、糸繰り人形の糸が切れたかのように、ばたり、とエマにのしかかるように倒れた。


(ちょァァアア?! めっちゃ良い匂いィ! てかエッロォォアアア)


 エマは何とか理性を最大限に発揮させて、ディートリヒを会場の端に移動させて、横にさせた。

 ディートリヒはすーすーと寝息を立てて眠っていた。

 エマはその横に腰を下ろすと、じっとディートリヒの長いまつ毛を見つめる。

 しばらくそうしているうちに、いつの間にか動悸はおさまっており、ただディートリヒへの愛しさだけが後に残っていた。

 エマはディートリヒの前髪をそっと撫でるように触れる。


「ありがとう。ダーリン」

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