第5話 見栄
天下無双のエマ・ヴァールハイトが事務仕事をもう終えてそろそろ帰ろう、という時だった。
「エマ、貴女、大丈夫なの?」
隣のデスクから同僚のオリヴィア・ウェービルが声を掛けてきた。
同僚、と言えば対等な関係に聞こえるかもしれないが、その実は全く違っている。オリヴィアは公爵であり、エマは侯爵だ。オリヴィアの方が爵位が一段階高く、気を楽にして話せる相手ではなかった。
「大丈夫、というのは……?」エマが聞き返す。脈絡なく大丈夫か、と問われたが何のことを言っているのか、エマには心当たりがなかった。
「今度の宮廷舞踏会のことよ」
「舞踏会……ですか」それでもまだ、ぴんと来ない。
「貴女、踊ってくれる男いるの?」
ここまで言われてようやく自分が心配——いや、愚弄されているのだ、と理解した。
踊ってくれる男。いないことはない。エマだって侯爵だ。使用人に男性の1人や2人はいる。いたはずだ。
だが、オリヴィアがそういうことを言っているのではない、ということは流石に魔術一筋に生きてきたエマでも分かった。
「男の1人も手玉に取れないようじゃ、いくら強くても魔術師として失格よ?」オリヴィアが顎を上げて横目で意味深な視線をエマに送る。
(男と魔術、何の関係があるって言うのよ)
エマは苛立ちを抑えるように目を閉じると、代わりに頬が膨らんでいることに気が付き、慌てて萎ませた。カエルかよ、と心の中で自分にツッコんだ。
せっかく耐えたのに、オリヴィアの嫌がらせはまだ続く。デスクが隣だから逃げることも叶わない。何の拷問、とまた頬が膨らみかける。
「どうせ、貴女に寄ってくる男なんてゴミみたいなのしかいないんだから、早めにお金払って見てくれが良い男を雇った方が良いわよ?」オリヴィアは片眉を上げて嘲笑した。
エマは頬を膨らまさない代わりに眉間に皺を寄せ、口をへの字にして「ご心配なく。男ならいますから」と返答する。もちろん嘘だった。
「あら、そうなの? どこのスラムから拾ってきたの?」
「ち、違います! 貴族の子です! ちゃんとカッコよくて、優しくて、賢い男です!」
ふーん、とオリヴィアが片方の口角を僅かに上げる。嘘は完全に見抜かれていそうだったが、一度口にした以上つき通さねばならない。エマにもプライドがあった。
「本当かしら。まずカッコ良い男、っていうところから怪しいわね。王都でさえ、へにょへにょで、卑屈で、もやしみたいな男ばかりだと言うのに」
「な、何をカッコ良いと思うかは人それぞれです」
「賢いっていうのは人それぞれではないわね? 王都の男の就職率知ってる? 10パーセントよ。それも殆どが男娼館の職員。水商売を除けば、王都で知的労働をしている男はほぼ0でしょうね」
「し、仕事についていなくても賢い男はいます!」
反論が苦しくなるにつれてエマの語気も荒ぶる。見栄を張って空想のパートナーを語った、なんて知られる訳にはいかない。この目の前の性悪女には特に。
「いい加減薄情しなさい。貴女にそんな立派な男が寄ってくるはずないでしょ。現実を見なさい?」
(この女……殴り飛ばしてやろうか)
自分の栗色の髪が細かく揺れているのを見て、自分が今震えている、ということに気が付いた。それが怒りによるものなのか、羞恥によるものなのか、エマ自身でさえ分かっていない。
「それとも本当にそんな男がいるのかしら?」オリヴィアは尚も挑発する。「で、あれば一度お会いしたいわね。そのカッコよくて、優しくて、賢い殿方に」
エマの顔が引き攣る。
なんで、こんなに簡単にバレる嘘をついてしまったのか。数分前の自分を引っ叩きたい、とエマは早くも後悔していた。
この性格が破綻している公爵は、ここでエマがテキトーに誤魔化しても許してくれないだろう。
詰んだ、とエマが静かに目を閉じて、苦悶の表情を浮かべた時だった。
「エマ・ヴァールハイト殿」
1人の男——いや、男子生徒がエマの前に立っていた。がっしりとした体躯に、綺麗な黒髪を垂らし、切れ長の目は獰猛な虎のように鋭く、危うい。エマの目にはその抜き身の刃のような彼が、この世に
エマの脳裏に何かがスパークした。
これだ。これしかない。エマは閃いた名案をよく再考することもなく、口を開いた。
「や、やぁ、時間ぴったりだね、だ、だ、ダーリン」エマは立ち上がり、その男子生徒の腕に抱きついた。
男子生徒は「は?」と訝しげに顔を
「ダーリンとはどう——」
「——紹介しますオリヴィア様! あたしの婚約者のジローです」
男子生徒——もといジローは、目を細め、首を傾げていた。それもそのはず。彼の名はおそらくジローではない。今たまたまエマを訪ねてきた男子生徒を、エマが強引に
「婚約者って……うちの生徒じゃない」オリヴィアが指摘する。意地悪で、というよりかは心の底から浮かび上がった疑問のようだった。
「愛に歳は関係ありません」エマは力強く言い切る。愛のことなど、ろくに知らないが、まぁ多分そうだろう、という大雑把で偏見じみた考えで突き進む。
「いや俺はジローでは——」とジローが正体を暴露しそうになったので、エマは慌ててジローの口を塞いだ。
「んぅんんんぅ?!」と暴れるジローをがっちりとホールドして、両腕で締め上げ、ジローが気絶したのを見計らって、エマはジローを正面に抱え直した。
「では、オリヴィア様。あたしはジローとデートがあるので、これで失礼します」
返事も聞かずに、エマはジローを抱えたまま、逃げるように職員室を後にした。
♦︎
どうしよう、とエマは途方に暮れた。
ベッドにはジロー(仮)が横たわっている。未だ気を失ったままだ。
正直、家に運ぶのに躊躇いはあった。だが、意識のない男子生徒を抱える女職員——というのは、どこからどう見ても性犯罪者である。人目を避けるためには、とりあえず自室に彼を運ぶしかなかったのだ。
ベッドに眠る少年に目を落とした。
今時の男子には珍しく、ゆったりめの
エマは、ハッ、と我に返って顔を上げる。
(つい成り行きで連れて来ちゃったけど……やっぱり犯罪くさい気がする。いや事情があるからギリセーフ……? 大丈夫! 決してやましい気持ちは——)
ない、とやや間をおいてから心の中で宣言した。
横を向くと姿見の鏡に髪の毛が乱れている自分が写っていた。素早く手ぐしで整えて、ニコッと笑顔の練習をしてみる。「や、やぁ。キミ、カッコ良いね。お茶でもどう?」と発声の練習をしてすぐに、これじゃない、とエマは首を振る。まるで
そんなことを考えていると、少年がゆっくりと目を開けた。全く知らない場所に連れてこられたというのに、取り乱したり、慌てたり、といった様子はない。記憶を辿っているのか、彼は静かに天井を見つめている。
(やばい! まだ説明の準備ができてないのに、どうしよ、どうしよ、いや落ち着いて! 練習を思い出して! 笑顔笑顔!)
彼はベッドに横たわったまま、綺麗なグレーの瞳をエマに向けた。どきり、と心臓が跳ねる。
覚悟を決めて、エマは口を開いた。
「や、やぁ! キミ、昨日は激しかったね! お茶でもどう?」
2人の間に訪れた静寂がエマに、それじゃない、と言っていた。
エマは両手で顔を覆い、それからそっと俯いて静かに絶望した。
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