人にため息をつかせる、文章的な珈琲について

魔法少女空間

第1話 人にため息をつかせる、文章的な珈琲


 僕が珈琲をきちんと淹れる(豆を量って、フィルターを湿らせて、時間を計測して、というやつですね)ようになったのはここ、半年くらいの出来事です。それまで僕は墨汁のようなインスタントの珈琲をじゅるじゅる啜って生きてきました。友人に向かって「珈琲はとりあえず苦けれよい」と言っていたのを覚えています。今となってはまあ、それはそれで珈琲に対するひとつの愛し方なのかな、とは思いますが。


 転機となったのは昨年の十二月に実家に帰った際に寄った、ある喫茶店で飲んだ珈琲です。母親がそこの珈琲が美味しいとやたら褒めるので僕も行ってきました。丘の上の辺境にある喫茶店です。優しそうなお兄さんが一人で切り盛りしていました。ボードにはたくさんの種類の珈琲が並んでいますが、当時の僕にはよくわかりません。(今だって産地の特性やらブレンドの配合といったものはよくわかっていないのですが)とりあえずおすすめの珈琲はありますか、と僕は聞きました。お兄さんはそれほど時間をかけずに(不慣れなお客さんは多いのでしょう。それにお兄さん自身も珈琲が好きで誰かに自分の好きな珈琲を飲んでもらいたい、という意思を持っているように感じました)ボードの真ん中の珈琲を指しました。今日はこれがおすすめだと。僕はじゃあそれでお願いします、と言いました。残念なことにそのとき頼んだ珈琲を僕は覚えていません。覚えていれば、また飲むことができたのですが。


 注文を受けるとお兄さんは厨房に引っ込み、豆を計量し始めました。その間、僕は店内を見回し、無秩序に置かれた異なる性格の椅子を眺めていました。母は内装もかっこいいと言ってしましたが、僕にはあまりピンときませんでした。無秩序なのも無機質なのも構いませんが、この店には喫茶店特有の温かみがありませんでした。あのこじんまりとした、ほっとする空間のことです。今時、タリーズでも、ベローチェでも提供されている、あれ。強いて言えば、窓際に座っているおじさんに降りかかる白い日差しぐらいでしょうか。それは日曜の朝の光みたいで良かった。


 お兄さんが戻ってきて、目の前で珈琲を淹れてくれます。自分の席で飲み物を受け取ることもできますが、なんとなくレジ前のカウンター席に座ってしまったため、そうなるしかないのです。お兄さんの動きはとても洗練されていて、無駄な動きがないように見えました。無線も音楽もかかっていない、とても静かな空間です。ことっ、とカップがカウンターに置かれる音がしました。僕はまずは匂いを嗅いでみました。いい匂いがしますが、それがなにに例えられるのかわかりません。僕の様子を見たお兄さんが、通ですね、と言いました。まず、匂いを確認したからでしょう。しかし僕は物を味わって食べようとするときにまず匂いを確認してしまう性質なのです。今回に限りません。ときどき(家族の前では必ず)行儀が悪いと指摘されます。


 匂いを堪能したのちに、ようやくカップの縁を持ち上げました。熱い、と思いました。喫茶店では当たり前かもしれませんが、これまでの僕の常識では温かい飲み物を入れる前に容器を温めておく、なんて発想はありませんでした。何食わぬ顔で一度戻し、再度持ち上げます。その珈琲は僕が今まで飲んだ珈琲とはまったく別の飲み物でした。


 とても華やかで苦みがない。フルーティーで生のままの果実を想像させるような香り。それでいて後味は濃く、反芻をしているとしっかりとした旨味がやってきます。僕は度肝を抜かれました。これが本来の珈琲の味なのか、と思いました。


 僕はかろうじてお兄さんに、とても美味しいですね、と言いました。お兄さんは満足そうに頷いて、そうでしょう、と言いました。僕はもう少し自分の感動を伝えたいと思いましたが適切な言葉は見つからずお兄さんは次の注文を受けてどこかに行ってしまいました。


 僕は時間をかけて珈琲を飲み干し、ひとくち一口味わうごとため息をつきました。カポーティやサリンジャーの文章も人にため息をつかせますが、それに似たような満足感を味わいました。雑味が少なく、洗練されていて、シンプルなセンテンスながらも高次元で個性が滲み出ている。カップの底に残った月のような跡を見て、僕はまた、ため息をつきました。これは人にため息をつかせる珈琲なのです。


 そんな出来事により、僕はどっぷり珈琲にハマってしまいました。エペイオスの電気ケトルを買い、週に一回は(コーヒー豆は生鮮食品のため買い置きはご法度です)豆を買いに専門店に行くようになりました。まだまだ、お兄さんの珈琲を再現出来てはいませんが、それに近い味は見つけました。深煎りのマンデリンです。


 今日は素直に文章を書けたように思います。雨が降っていたからなのかもしれませんし、『ノッキングオンヘブンズドア』をリピートしながら書いたからかもしれません。好きなものについて、素直に文章を書けるのはとても楽しいです。次は自分が実際に行っている淹れ方を文章にできたらと思います。

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