第6話
幽鬼サ良きもん、寄せつけド、舟幽霊は逆のもん。
舟幽鬼は門番じャ。カン島守る、漁夫の鬼じャ。
(海士砦老婆より口伝・書記)
次の季節が訪れる。イェンジーはもうずっと漁に出ていない。
漠然と貯めていた今までの銭子で、行商人から城市の食べ物を買って食いつなぎ、たまに夜の海辺に散歩に行っては、父母の部屋に敷いた布団で眠るばかりの日々を送っていた。
集落では、イェンジーは学者に何か吹き込まれ、自堕落になってしまったのだと噂されていた。
一時は行商人に詰めよる者もいたせいか、海士砦を出入りする車の乗り手は、いつの間にか別の人物に代わっていた。新しい行商人は、南の村で生まれた体格のいい大女だった。
多くの若い住民は、あのおじさんは引退したんだね、と話題にするくらいで、新しい行商人とはすぐに打ち解けた。しかし中には、以前の行商人の失脚を邪推したり、あるいは新しい行商人の態度を悪く言ったりする者もいた。
「新しい人は、言葉も変だし、物分かりがよくないね。それに金にならない頼みは聞いてくれないや」
烏賊釣士の家族がそんな話をしていたこともある。……新しい行商人の顔を見た時、彼女は少しも悪くないのに、イェンジーは暗い海へ突き落とされたような失望を感じた。ファイレィとの細い縁を繋いでいた、馴染みの人物との音沙汰が絶えてしまったのだから。もちろんイェンジーは、以前の行商人や、それからファイレィについて知らないか、新しい行商人に訪ねた。しかし、知らない、と言われ……その上、取引以外でのお話は控えるようにしていますので、とまで忠告されてしまった。
いっそ城市に旅立とうか、と思うこともあった。しかし集落で力のある、年長の者たちはもうイェンジーを白眼視している。一度外に出てしまえば、もう帰る場所はなくなってしまうだろう。イェンジーにとって、それ自体は重要ではない。ただ、もしもファイレィがまた海士砦に来た時に、この家がなくなっていたらと思うと悲しくて、家を捨てる勇気が持てずにいた。
……漁に出なくなり、だんだんと白くなっていくイェンジーの肌を見て、病人か、そうでなければ怠け者の肌だと揶揄する者もいる。まるであの学者のようだ。あいつも肌を焼かずに、ぬくぬくと、何の苦労もしないまま生きていたんだろうな。そう聞こえたこともある。イェンジーには言い返す気力がなかった。何を言ってももう、城市の悪知恵を吹き込まれた落伍者の戯言としか思われない。家憑きの光尸猫だけが、相変わらずイェンジーのそばにいた。
白波の立つ、竹麦魚の季節が訪れるころ、缶詰と酒を買って帰ろうとしたイェンジーを、行商人の大女は呼び止める。
「あなた、腑抜けのイェンジーね。みなから聞いてる」
一切の悪気のない顔でそう言ってくるものだから、イェンジーは苦笑した。しかし、彼女の差し出してきた封筒を見て、イェンジーは血相を変える。
「これ、手紙ね。めずらしよ、この村に手紙なんて」
「あ、あ」
イェンジーはひったくるように受け取る。……家の布団にわずかに残った墨水と同じにおいがする。それからかすかな、異国の香のかおりが……。
「でもどうせ、あんた、字、読めないね。だから、言伝、あるて。聞いていけ」
封筒に書かれた文字は、確かにイェンジー、それから……ファイレィの名だ。イェンジーにはそのふたつしか読むことができない。あせる気持ちでいっぱいだったが、行商人が手紙とは別に、もう一枚の綴りを懐から出し、イェンジーの様子を特に鑑みることなく、つらつらと読み進めた。
「え、と。お世話になりました、イェンジーさん。突然失礼して申し訳ありません。私の不注意による体調不良で、急遽帰らせていただきました。今は元気にしています」
「うん、うん」
女行商人の、妙な訛りのある口調を聞きながらではあるけども、イェンジーの心にはファイレィの姿が思いだされていく。
「城市を案内する約束をしたかと思いますが、それはなかったことにしてください」
「……えっ」
「あなたのことだから、漁師の生活を捨ててでも城市に来るつもりだたのでしょう。それは迷惑です。あなたの頭じゃ、城市では人足にもなれません」
「どうして、そんな」
「私はあなたなんか忘れて、楽しくやてます。だからあなたも私のことは忘れて、いい漁師になてください。……だてさ。なあに、これ。あんた、こいつとケンカしてるの?」
イェンジーは呆けたままだった。そういえば、あの人の口からは一度も……聞いていないじゃないか。あなたが好きです、と。様々な場所を渡り歩くあの人にとって、俺はもしかしてすれ違った過去の一人にすぎないのかったのか。そうだ、あの人は賢い人が好きなんだ。勘違いするな、と……この手紙だって、読めるものなら読んでみろ、という嘲りのために送ってきたのだろうか。
「それは、本当に、ファイレィさんが……」
「筆跡おなじね。本人よ」
「ひ、筆跡」
「じゃ、あんたへの用事はこれだけね。どいたどいた」
女行商人に肩を押されて、イェンジーは魂が抜けたまま、のっそりと家まで歩いた。
暗くなってから、酒をあおり、光尸猫の明かりでもう一度封筒を見る。……なぜか最近、よその光尸猫も一匹、暖でも取りたいのかイェンジーの家に迷い込んでくるようになったが、だから何というものだ。
封書を広げる。長い文章だ。ときおり入る、イェンジー、という言葉しか読むことができない。ひとつひとつ、綴られたイェンジーという名前を追う。書の中で、何度もこの名を呼んでくれている。何度も、何度も。イェンジーはその字を数え、探し、……涙で汚さないように、彼の筆跡と一晩中向き合い続けた。
ある晩、イェンジーはまた海辺を歩いていた。
何の用もなく、ただ眠り海月の音色を聞いて、家に帰るだけの徘徊だ。
その日はやや波が高かった。そして珍しく……舟小屋の近くに人影があった。
「なんだ、イェンジーか。気味が悪い。すっかり幽霊みたいな肌になりおって」
「……ウェイ爺さんか」
「ほら、こんな日は舟小屋を戸締りせんといかん。前まで君がやってくれていたのに、今はやるもんがおらんよ」
そういえば、嵐呼びの波が見えた夜には、誰かが舟小屋の大扉を閉めないといけなかった。イェンジーは申し訳なくも思わなかった。もうなんだか、自分には関係がないような気がしていた。
「やはりあの学者を呼ぶんじゃなかった。腕前のいい若者が、こうやってひとり駄目になってしまったんだからな」
「そう……」
「あいつが来てから、うちでは良くないことばかりが起こっていた。あれから、うちでは甘尸酒が一切作れんくなってしまったよ」
イェンジーはウェイ老人の方を見ることもなく、海面で揺れる眠り海月を眺めていた。……ゆるやかに寄せる波の狭間に、ぼろぼろにすり切れた……しかし、かつては美しかったのだろうと思わせる、花の彫り物のほどこされた木片が見えたような気がした。
「光尸猫もあれ以来、人を見たら怯えるようになって、最近はしょっちゅう家から逃げ出す。あいつは村の幽鬼全部に障る、余計なことをしてたんだと思うとる。……イェンジー。君は人が良すぎたんだ。あいつが怪しいことをしようと、言いくるめられて見逃していたんだろう。村のもんはな、みんな君を悪くは思っていない。ただ、哀れに感じている。君は優しすぎた。そして運が悪かった」
何も言い返す気分ではなかった。聞いている素振りを見せるためだけに、生返事を繰り返した。子どものころ、漁をウェイ老人から教わっていた時にだって、こんな不真面目な態度はとらなかった。やはり自分は人が変わってしまったのだろうか、とイェンジーはぼんやり思う。
「イェンジー。君はもしかして、学者が噛みつき河豚に刺されたことを不憫に思っているのか。確かに君には学者の監視を言いつけたが、気に病むことはない。みんな早く、君に元気になってほしいと思っているよ」
「誰が言い出したのか知らないけど、あの人は、噛みつき河豚なんかに近づきさえしなかったよ」
「そんなの言い切れないじゃないか。まさか、あの男から片時も目を離さなかったわけじゃあるまい」
「そうだ。俺はずっとあの人を見ていた」
イェンジーは頭をかきむしって、ふと顔を上げ、ウェイ老人を見た。それは忌々しいものを見る顔だった。
「……ああ、ウェイ爺さん。俺はわかったぞ」
「なんだ、今さら」
「俺はこんなことをしている場合じゃないって。ウェイ爺さん、さよなら」
くらくらとする頭を抱え、イェンジーは自宅へと戻りだす。月明かりが水平線と、カン島の切っ先を照らしている。
「わかってくれたのか、イェンジー」
「そうだよ、わかったんだ。ああ、どうして忘れていたんだろう。父さんと母さんが教えてくれたじゃないか……」
……うわごとのようにつぶやいて、イェンジーは帰った。
それからの日々も、イェンジーが漁に出ることはなかった。それどころか余計に飲んだくれ、挨拶もしなくなり……また、城市から読めもしない本なんかを買いつけるようになった。あの若者はかわいそうに、本当におかしくなってしまったんだ、と住民たちは哀れみ、避けた。
やがて丁香魚の季節がふたたび訪れた。そのころには誰もがイェンジーの存在に触れなくなっていた。女行商人だけがふと、あの腑抜けはどうしたのか、と気にかけ、住人のひとりに問いかけたある日……
彼の家には、もう誰も住んでいないことに、住民たちはようやく気づいた。光尸猫さえ消えた家は、酒の瓶や、缶詰の空き缶が床を埋め尽くしているばかりだった。
住民たちにとって何より異質だったのは、布団の隣の、古いが上等な机の上に……何冊もの本が広げられていることだった。
本は城市の子どもが読むような、文字の教本がほとんどだった。あとはいくつかの辞書、そして若い学者が書いた、ぶ厚い専門書が一冊だけ。
それから特に綴じられていない、手書きの、何度も書き直した後のある、手紙らしき文章の書かれた紙も何枚か床に落ちていた。ぼろぼろになるまで読み込んだり、文字に注釈を書き入れたり、……その文章をどうにかして読もうとする苦心が見て取れるものだ。
でもそれは、海士砦の誰にとっても不必要なものだった。
本も手紙も、焼いて処分された。椴松の机と、白磁の皿だけは持ち出され、欲しがった住民の家に運ばれた。残った空き家はしばらくの後、烏賊釣士の三男一家が住みついた。
海士砦の人々の暮らしは、また続いていった。
今までよりも、穏やかに。
――イェンジーさんへ。
この手紙を読んでくれてありがとう。
それとも、城市で誰かに読んでもらっているのでしょうか。行商人さんには、これを読まないよう伝えていますからね。どちらにせよ、あなたが私を深く愛してくださったのがわかります。
では、まずはあなたにお伝えするべきだったことを、ここに記しておきます。
カン島と、イェンジーさんのご両親についてです。
人の魂を食う、あの世への門がカン島にありますね。私と先生は、その門を閉める方法を確かめに来たのです。先生とあなたのお父さんが、カン島の水を持ち帰ってくれたおかげで、城市での研究が進みました。
それからあなたのお父さんは、カン島の門をひとりで閉めようとしていたらしい、と先生からは聞いています。霧の出る日、この世とあの世が繋がるときには、舟を出そうとしていたそうですね。
お母さんもいなくなってしまった理由については、私の憶測になりますが、一人前になったイェンジーさんはもう心配ないと思い、ついて行かれたのではないでしょうか。カン島の門は、未来永劫、誰かが番をしなければなりませんから。愛した人をひとりきりにするのは、忍びなかったのではないかと私は思います。
しかし、その後も変わらずカン島は、沖を渡る舟や、時には海士砦の方を犠牲にし続けていました。そのため門を閉めるだけでは足りないものがあると私は考え、このたびあなたの助けを借りて調査した次第です。海士砦のみなさんには、内緒にしておいてくださいね。みなさんには静かに、平穏に暮らしていてほしいと願っていますので。
さて、私はあなたの育った、海士砦を大切にしようと思いました。
ご存知の通り、私は噛みつき河豚の毒に刺され、早くに血清を打つこともできませんでした。あの時、戸口を開けたのが私で良かった。しかし、こうなってしまった体では、今までのように旅をしながら研究をすることができません。だから私は一足先に、あなたのご両親に挨拶でもさせていただきましょう。
私は幽鬼の研究者です。あなたのお父さんが用意できなかった、西の果ての聖なる金属や、北東の凍土に眠る神木の根だって、そろっています。きっとうまくできるでしょう。なにせ先生の弟子にして、あなたが尊敬してくれた学者なのですから。
イェンジーさん、あなたを愛しています。ずっとずっと。あなたが私を忘れても。
霧のかかるカン島から見える海士砦は、海と陸の境があいまいで、眠り海月のかがやきも伴い、幻の中に消えていくようだった。
朧月を思わせる肌は、今や本当に月のように、青白くほのかに輝いている。
岩場と、カン島の潮だまりを隔てる、光の扉の向こう側にその人はいた。
『……私自ら、幽鬼になってみてわかる。あなたの魂は本当にきれいで、透きとおっていて……』
イェンジーの財産と言えるものは、いまやたったひとつ、ここまで乗りつけてきた小舟だけだ。それすらもそのうち、どこかへ流されてしまうだろう。
『今ならまだ、帰れますよ。もうあなたなら、城市に行ったって、私の案内もいらないでしょう。どこでだって不自由なく、あなたなら……』
そういえば城市に行く約束もしたな。果たすことはできなかったけど、でもそれは少しも重要じゃない。最初から、君がいるならどこでも良かったんだ。
恋人の声は、すでに人の肉声ではなかった。それは眠り海月の音色と同じように、暗闇に澄んで響く。
「きれいな声だなあ」
久しぶりに会う恋人に、まず何と切りだそうかずっと迷っていたのに。思わずそう零してしまったものだから台無しだ。イェンジーは照れくさくなって笑った。それに気づいて、悲しげに微笑みを返したその姿は、夢なんかじゃない。ここにいる。
そう実感したと同時に、ぬけがらだった心の中へ、感情がどっと沸きだしてくる。その先頭にあったものは、かつては思い浮かぶことさえなかった……怒りだった。
この人を守れなかった自分へ。この人と自分を引きはがした、海士砦の陰鬱な悪意へ。それはもしかするとイェンジーにとって、かぼそい唯一の未練だったのかもしれない。
「許さない……」
そうイェンジーが誰にともなく言った途端、ファイレィの瞳から前触れなく、星のような涙があふれていった。
イェンジーは弾かれたように走りだす。
怖かったかな、寂しかったのかな、なんて思いながら、イェンジーは迷いなくあの世への門へ飛び込んだ。
「ごめん」
ずいぶんと待たせてしまった恋人の手をつかむ。透きとおる肌は、イェンジーの手をすり抜けることはなかった。
『……なんで、あなたが謝るんですか。私なんて、たった今……あなたを殺したんですよ』
「いいよ。それより結局、俺は君を守れなかったんだ。ごめん」
『……私、賢い人が好きなつもりだったんですが、……そうじゃなかった。だってあなたは、本当に馬鹿なんですから』
「そうだよ。だから手紙読むだけで、すっごく時間を使ってしまって、悪かった」
ファイレィの体を引きよせ、強く抱きしめる。温度もにおいも、感触さえもわからない。それでも間違いなく、懐かしい恋人の肌だ。
「許してくれ」
『……私の方こそ。あなたを巻き込んでしまって。あなたのこんなにきれいな心が、みすみす悪意に晒されていくのを、許してしまって。それに、……あなたの優しさを知りながら、それでも愛していると伝えてしまった』
「ああ、嬉しかった」
『ふ、ふふ。一度でもそう伝えてしまえば、あなたは自分のことなんてどうでもよくなって、私を慰めるためだけに命さえ投げ出してしまう、それくらい優しいと、知ってたんです。知ってて、記したんです。あなたが欲しくて、あなたが来ることを期待して、私は、私は……』
「あはは、凄いなあ。君はやっぱり、何でもわかるんだ。俺の自慢の恋人だよ」
「そ、そんなこと……」
イェンジーは腕の中で泣き崩れるファイレィを支えながら、彼の頭や背をなでた。でもだんだん、イェンジーも目の奥が熱くなる心地がしてきて、いつしかふたりでその場に崩れ、抱きあって泣いていた。異国の香や墨水のにおいは、冷たい幽霊となったファイレィからはもうしないが、別にどうでもいいことだ。
『ごめんなさい』
「いいよ。だって、愛してるんだろ」
『はい、愛しています』
「もっと言ってよ」
『愛してます、愛してます、イェンジーさん……』
そうしてふたつの魂は、溶けあうような口づけを交わしてから、月明かりを映すカン島の潮だまりへと、重なり合って沈んでいった。
切りたつカン島の天辺からは、海士砦の暮らし、そしてはるか遠い国の地平線が望める。静かに、けれども留まることのない時の中で、カン島は行き交う無数の魂を見送り続けていくのだ。
心良きもんと旅の船にャ、舟幽鬼ば見守りよる。
悪ぃ心で近づくナ、舟幽鬼ば心を見とる、眠り海月と心を見とる。
(海士砦老婆より口伝・書記)
口伝『舟幽鬼』における幻想 ファラ崎士元 @pharaohmi_aru
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