第5話

 イェンジーは丁香魚につぎつぎ包丁を入れていた。

 涼しい季節になると丁香魚は太り、脂がのるので、網引きでかかるようになる。だから刺身で食うのが旨い。しかしこんなに丁寧に捌いたことはない。中指ほどの目方しかない小さな魚だ。それでもできるだけ美しい見栄えになるよう、父が大切にしていた白磁の皿へと、光尸猫の明かりをたよりに盛りつけていった。

「お待たせ、ファイレィさん」

 食卓にはふたつの飯籠と、竹の湯飲み、老酒の瓶が並んでいる。そして座って待っている、すでに寝間着の襦袢に着替えた、ついこの間出会ったばかりの男。

「おや、お刺身をつくっていたんですね。城市の料理人よりもきれいに切れていて、凄いですよ」

「ファイレィさんもいっしょに食べようよ」

 イェンジーは食卓の中央に皿を置く。ひとりで平らげられない量ではないが、こればかり食べていても飽きてしまう。

「お気持ちは嬉しいんですが、私は……」

「魚の良しあしくらいは俺にもわかる。これは大丈夫だよ。とてもいい丁香魚だ」

「で、でも」

「じゃあ、食べるのを手伝ってくれよ。俺ひとりでこんなに食べたら、腹を冷やしてしまう。前に貝汁を捨てたときも、もったいないと思ったんだ。な」

「……でもこの魚は、あのお嬢さんから、イェンジーさんへの厚意じゃないでしょうか。きっとあの子は……」

「親切にしてくれたという意味ならそうかもしれない。あの子のことは、小さいころから面倒を見ていたから、兄妹みたいなもんさ。そういう意味でないのなら……あの子には、もう決まった相手がいるみたいだよ」

「そうでしょうか。……ねえ、ずっと聞きたかったんですけど、イェンジーさんって好きな人とか……いないんですか?」

「うーん、わかんないなあ。好きと言えば、俺は村のみんなが好きだよ」

 本心だった。イェンジーは集落のみんなを、わけ隔てなく親愛していた。……だが、どうにも伝えきれない何か、もどかしい気持ちが他にあるような気がした。

「では、あなたのことを好きな人は?」

「それもわからない。ただ、たまに年寄りは言ってるよ。イェンジーを夫にはするな、あいつは貧乏くじを引きたがる、って」

「あらあら……」

「な、なんでそんな嬉しそうに笑うの」

「ええ? 私、嬉しそうでした?」

 にたりと笑ったファイレィは、イェンジーには思いつかないようなことを考えていそうな、妖しい、含みのある目をしていた。イェンジーはやましいことや、疑わしいことが嫌いだが、……こんな気持ちになったことはない。この人になら、だまされても、陥れられても許してしまいそうだ。たとえすべてを奪われたって……いやそもそも、そんな悪人だとは微塵も思えないのに。

 ファイレィの白い手が、瓶をかたむけ、ふたつの湯飲みに老酒をそそぐ。強い酒のにおいが、イェンジーをはっと気づかせる。

「と、とにかくさ。ファイレィさんも刺身、食べようよ」

「そうですね。あなたがそこまで言うのなら……内緒ですよ」

「ああ、ああ。もちろんだ」

 台所では光尸猫が丸まり、眠っている。父母の部屋では、ギヤマンの電池が灯っている。明かりがふたつあると、影もふたつできるんだな。と、ファイレィの白い手が食卓に落とす影を見ながら、自分を落ち着かせるようにイェンジーは余計なことを考えようとした。そうしながら飯籠に入っている缶詰を手に取る。酒のにおいに、香辛料と、肉の脂のにおいが混ざる。今日の缶詰は馬肉のぱすとらみですね、とファイレィは言っていた。なんだ、ぱすとらみって。頭の中がいっぱいいっぱいで、こんなの、酒を飲んだらもっと阿呆になってしまう。そう危ぶんだが、馳走で誘惑する悪霊のように、妖しい笑みでファイレィが酒をついだ湯飲みを差し出してくるものだから……いただくよ、と言ったかどうかもあやふやなまま、イェンジーは琥珀色の酒を飲み下した。

 刺激と、苔桃のような甘味が体いっぱいに駆け巡り、喉と胃袋が熱くなる。とてもたくさんは飲めなさそうだが、ファイレィは顔色ひとつ変えずに喉を鳴らしている。

「おいしいですか?」

「すごくうまい、けど、ああ、目の前がくらくらしそうだ」

「合わないなら、無理はいけませんよ」

「違うんだ。とてもうまいし、気分がいい。ただ、このまままじゃ、裸で歌いだしたりしそうな、そんな心地だ」

「いいじゃないですか。私も、内緒にしておきますよ」

 嫌だ。この人の前で阿呆になるのは恥ずかしい。けど、なんだかこの人は、それを望んでいるようじゃないか? どうして……。

 老酒の香りを鼻から消したくて、イェンジーは大口で缶詰を頬ばる。塩辛く、ぴりりと痺れるような刺激がある。ああ、これもうまいなあ、なんて大きな声で言ってしまったかもしれない。

「じゃあ、私もいただきます。丁香魚って、お刺身で食べれるんですね」

「そうだよ。城市では違うんだ」

「ええ、捌かずに揚げ物にして出している場所が多いですね」

 ファイレィはそう言って刺身を一枚口にする。そういえば、しばらく共に過ごしていたけれど、イェンジーが手を加えた料理を食べさせるのは初めてだ。なんだか緊張する。

「……おいしいです。とても」

 もう二口、三口。優しい声を、理知的な言葉をいつもは話す、彼の唇が子どものように、無邪気に皿の上の刺身を食べていく。そしてまた老酒がその唇を濡らす。

「おいしいなあ。生の丁香魚って。知りませんでした」

「そうか、この魚はすぐに傷んでしまうから、城市じゃ生で食べられないんだね」

「長いこと冷やすと身が崩れてしまうと聞きます。だから城市まで届くころには、衣をつけて揚げるしかできないんでしょう」

「でも、そんな旨そうに食べてくれるなんて思わなかった。君はもっとおいしいものをたくさん知っているんじゃないのか。俺はこの魚が、この肉よりおいしいとは別に思わないよ?」

「私、新鮮な海の魚が好きなんです。でも滅多に食べられるものじゃないから……ああ、おいしいなあ」

 ファイレィがあんまり嬉しそうに食べるので、もしかすると今年の丁香魚はとんでもなく旨いのか、と思いながらイェンジーも刺身に手をつけたが、それは舌になじんだ、この海で獲れた魚の味しかしなかった。……イェンジーには、特別に好きな食べ物はない。日々の食事は、ただ生きるため、淡々と繰り返していただけだ。

「……俺もいろんなものを食べてみたいな」

「行商人さんに頼めば、だいたいのものは取りよせられるでしょう?」

「そうだけどさ。知らないんだよ。例えば、この馬肉の……なに? この缶なんて、名前もわからないから、頼みようがない。城市に行ってみたいな。そこには君が旅したような、たくさんの土地から商品が集まっているんだろ」

「……そっか。そうですね。では、もしあなたが城市に来ることがあれば、私に案内させてくれませんか」

「もちろんだ。君といろんなものが見たい」

 そう言葉にした途端、ちょうど酒が回ってきたのか、心地良い眩暈に似た、浮ついた気分になってくる。

「ああ、わかったぞ。さっき、君には好きな人を聞かれたけど……俺は君が好きなんだ」

 その浮かびあがった心の上澄みが、口を介して溢れてくる。頭の中に溶けていた靄が、たった一言の吐露になった。

 ファイレィから何と言われようと、イェンジーは怖くなかった。どんなに手ひどく振られようと、ここまでの時間だけでもう思い出は充分だった。

「イェンジーさん」

 差し向かいで酒を飲んでいたファイレィは、湯飲みを持ったままイェンジーの隣に来て座った。そして肩をよせてくる。どういうつもりだろう。

「もう一度言って」

 酒のものだけではない、甘い香りが感じられる。幽霊のように冷たそうな白とは裏腹な、暖かい手、吐息、それらがすぐそばに迫っている。

「君が好きだ」

 イェンジーは頼まれたままに、繰り返した。何もごまかすことなどない。

「もっと聞きたい」

 ファイレィはイェンジーにもたれかかった。

「君が好きだ。ファイレィさん。……おかしいな。何度言っても足りないよ」

「私も、あなたからたくさん、もっと聞きたい」

 酒が沁みているのか、溶けそうな、潤んだ瞳をしている。頬がわずかに赤らんでいる。思わずそっと触れてみた。

「ふふ、イェンジーさんの手、冷たくて気持ちいいですね」

 日焼けしたイェンジーの手に、白い指が重ねられる。

「君は暖かくて柔らかいな……」

「そうですか、それならもっと触ってほしいです」

「……い、いいのかな」

 ふたりはゆっくり向かい合う。そしてイェンジーはおずおずと手を伸ばし、ファイレィの顔を両手で包みこんだ。ファイレィは少しも嫌そうな素振りをしないどころか、喉をなでられた光尸猫を思わせる、うっとりと安らいだ様子で目を細める。

「そんなにじっと見つめるだけで、いいんですか」

「き、君は……俺の考えてることがわかるのか」

「いいえ。ただ……」

 そっと言葉を飲み込んで、ファイレィは体をよせてくる。そしてイェンジーの鼻先に、軽く唇を触れさせた。その瞬間、冷たかった指の先まで、火がついたように熱くなる。

「私がこうしたら……あなたも良い気分になってくれたらいいなって、……そんな驕慢な下心であなたに接しているだけなんです。ねえ、あなたは、……私とこうしていて、どうですか」

「ど、どう、なんて、俺は……」

「もっとこうしたい?」

「……したい!」

 くすっ、と微笑む声がして、柔らかい腕がイェンジーの体を抱きしめる。かすかに染みついた異国の香、墨水、そして……何とも例えがたい穏やかな、ファイレィのにおいが甘くイェンジーを包み込んでいく。

「お食事のあと、あなたさえ良ければ……」

「……き、君を抱きしめたまま眠りたい。いいかな」

「ええ。私も、あなたといっしょの布団に入りたいと、言いたいところだったんです」

 ファイレィは名残惜しそうに体を離す。その瞳は気のせいではなく確かに涙をたたえていて、イェンジーはその姿に言い知れない衝動を覚える。彼を頭から食べてしまいたくなるような、未知の欲望だ。……これもきっとファイレィは見透かして、許して、受け入れてくれるのだろう。言葉にはしていないのに、心が通い合うとはこういうことなのか。

 それからふたりは肩を寄せあい、酒を飲み、腹を満たした。これまでの食事の中で間違いなく一番旨かったのに、なぜか味が思い出せない。酒がよほど回っていたのだろうか。歯磨楊枝で口をすすぐ時には、意識せずともいつもより丁寧に手を動かしていた。

 ……ギヤマンの電池は消えている。台所で眠る光尸猫の毛並みは、とても家中を灯すほどではない。くしゃくしゃの万年床に招くのは気恥ずかしかったので、ファイレィには彼に用意した布団の方で待っているよう伝えていた。布団の上で、背中を丸めて座っているファイレィの白い肌が、暗闇に浮かびあがって見える。どう声をかけようか迷っているうちに、潤んだ眠り海月の瞳が見上げてくる。

 その姿を見るとたまらなくなって、抱きしめて布団に押し倒した。ここからどうすればいいのかわからないイェンジーは、さっきファイレィがしてくれたように、白い頬や鼻に口をつける。くすぐったそうに笑う彼が愛おしくて、その唇もいつの間にかふさいでいた。濡れた、柔らかい唇同士を夢中になってくっつけ合っていると、ファイレィの方からイェンジーの頭に手を添えて、より深く、舌を突きさしてくる。こんなことまでしていいのか、と驚いたが、戸惑うことはなかった。ほのかに酒のにおいが残る口腔を互いの舌でなぞっていく。触れあっている部分、繋がっている粘膜よりも、頭の中の方が焼けつくように熱い。もっと熱が欲しくて、全身を擦りよせながら求める。

「ファイレィさん、好き、好きだ……」

「うん、嬉しいです……イェンジーさん」

 酔いのせいか、稚拙な言葉しか伝えられない。それも真剣に受け止めてくれている。嬉しくて、甘えるように抱きしめてしまう。身を寄せあって、このままでも信じられないくらい幸せなのに、もっとこの人が欲しくなって、耳や首筋に軽く歯を立てる。そのたびにファイレィは甘い声をつく。

「どうしよう、ファイレィさん、俺……このままだと君を食べてしまいそうだ」

「いいですよ、と言ったら?」

「よくないよ……なあ、知ってるんだろう。ここから、どうすればいいのか……」

 こんなに必死で切ない声をあげたことはない。そのイェンジーの姿を楽しんでいるみたいに、ファイレィは妖しく……しかし、ほんの少しだけ寂しそうに笑って、耳元でつぶやく。

「……もう、戻れなくなりますよ?」

「かまわない。君が欲しい」

 暗闇の中、まっすぐに見つめたファイレィの瞳に残る寂しさが、イェンジーには耐えがたかった。何としてでも塗りかえて、満たしてやりたかった。そう願いながら強く抱きしめるほど、寂しさが色濃く浮き彫りになってくるのはなぜだ。もっともっと、好きだと伝えればいいのだろうか。

「いい夢を……見せてくださいね」

 淡く、甘く、消え入りそうなささやきに導かれて……

 イェンジーはファイレィを抱いた。瞳からとうとう涙をあふれさせて、艶めく吐息をもらす彼を腕の中に捕まえ、夜を明かした。……この人のそばにいるためなら、何だってできる。彼が望むなら家と船を捨て、城市に行くことだって、ためらわない。

 戻れないとは、こういうことか。ならば、それは素晴らしいことだ。この一夜だけで、イェンジーはすべてを許してもいいくらいの至福を得たのだ。


 ふたりで身を寄せあい、目覚める朝は暖かかった。

 ここ最近はどうしても寝すぎてしまう。その日も昼過ぎ、ファイレィに起こされた。しかし揺り起こされたのではなく、添い寝してイェンジーのまつ毛をくすぐってきたのだ。悪夢を見ていたわけでもないのに、胸が高鳴って、がばりと体を起こしてしまう。その様子を見てファイレィは笑っていた。

 また停留所まで歩き、行商人と文書のやりとりをして帰る。住民は若い者から少しずつ、声を掛ければ挨拶を返してくれるようになった。網引き漁師の末娘にも会ったので、イェンジーは礼を言った。末娘も喜んでいた。そして、今度は学者さんにも食べてほしいです、なんて言ってくれた。……少しずつ、みんなわかってくれているのだ。だってファイレィは何も悪いことをしていないのだから。ここがもっと過ごしやすい場所になれば、また遊びに来てもらったり、……共に暮らしたりできるんじゃないか。

 その日は暗くなるまでの間、ファイレィから字を習った。イェンジーの方から、教えてくれと頼んだのだ。文字がわかれば、書物が読める。そうすればこの集落にはない、さまざまな世界を知ることができる。

 今日はイェンジー自身と、それからファイレィの名前を書けるようになった。字の形を覚えてみれば、確かに重ねられた書や冊子の表紙には、ファイレィの名前が印刷されているものが多いとわかる。ぶ厚い、拍の押された立派な書物にもその字はある。この人は自分の想像よりも、はるかに高名で権威ある人なのではないか。ファイレィに直接聞いてみても、私なんて大したことないですよ、と謙遜されてしまったが……。

「この本を読めるようになれば、君の見えている世界に近づけるのかな」

「それは城市でもなかなか読める者はいませんよ。もっと生活で使う文字から覚えていきましょう」

「そうかな。でもいつかは、と思うよ。……やっぱり子どもの頃から学んでいないと無理なのかな」

「人によりますねえ。もし勉強してみたいのなら、文字の教本を取りよせましょうか。私から教えられる時間は限られていますし……」

「そうだなあ。君の研究の時間を使わせてしまって、今日はすまない」

「いえ、そんな。私だって、許されるならあなたに付きっきりで教えてあげたいですから」

「じゃあ、いつか金をためて、俺の方から城市に行こう。そして俺に字を教えてくれ。……ああ、俺も少しくらい、城市からの謝礼をもらっておくんだったな」

「本当ですよ。あなたはそんな、冗談ぽく笑っていますけど。私はあなたにこそお礼を受け取ってほしかった」

 そう言ってうつむくファイレィを見て、イェンジーは今になっていろいろなものが惜しくなってきた。あの花飴も、もし受け取ったのが今なら、自分以外の誰にだって、ひとつも分け与えたくはない。これは浅ましい感情なのだろうか。

「イェンジーさん。私って、わがままな性格なんですよ」

「え、そうなの。俺にはそう見えないけど」

「それに欲張りなんです。……あなたの優しさを、ほかの人よりたくさん欲しいな。少なくとも、あなたを利用するような人にそそぐ分は……私に全部、ちょうだい?」

「わ、わかんないよ。利用とか、そんなの。でも、君が望むことはなんでもしたいから、遠慮なく言って……」

 強い自信を持って言うことはできなかった。それが良くなかったのか、ファイレィは笑ってくれたけれど、やはりどこか寂しそうだった。イェンジーは思う。この人にふさわしい相手になりたい、と。己が今抱えている感情が、どういう名前をしているのかは知らない。けれどもこの人の隣に立つ、唯一無二の存在になりたい。……ファイレィが帰るまでに、少しはそこに近づけるだろうか。

 夜の足音は、昨日と同じように近づいてくる。ふたりはまた海辺へ行って、今日は、その後は……。こんな毎日が、あとどれくらい続いてくれるのだろう。夜は長く、一日は短い。


 調査の内容が芳しいものではないと、イェンジーにもなんとなく察していた。しかし、それについて尋ねたところで、イェンジーには理解できないだろう。だからあえて聞くことはないまま、数日が過ぎた。だんだん風が冷たくなっていく季節だ。ふたりは毎晩、どちらから誘うともなく、同じ布団で寄り添い眠った。もちろん、抱き合うことも何度もあった。深まっていく愛情は、明日が来るのを楽しみにさせる。だが時の流れることは同時に、一旦の別れが近づくことでもある。それが愛おしく、そして悲しい。こんな気持ちは、集落の誰も抱えた試しがないだろう。イェンジーだけのものだ。

 太陽の陰る、少々肌寒い昼だった。

「イェンジーさん、まるでまだ夢の中のようですよ。しっかり、起きて」

 ファイレィに急かされて、イェンジーは着がえる。すでにファイレィは玄関にいて、戸口に手をかけようとしていた。

「……ひっ」

「どうした?」

 しかし、ファイレィが小さく声をあげたのが聞こえる。彼の後姿を見る限り、変わった様子は特にない。

「いえ、何か……尖ったものに触れてしまった気がして」

「どれ、見せてみろ」

 ファイレィはイェンジーに右手を見せる。……赤い小さな血の玉が、白い指先に光っている。それと何か、小さな魚の骨らしきものが刺さっているのもわかる。

「なんだこれは。ほら、抜いてやるよ」

 イェンジーはその手を取り、刺さっている棘に触れようとする。その直前に……何かを思い出したかのように、一瞬で青ざめたファイレィが手を引っこめる。

「だめです、触らないで!」

 そしてそのまま、イェンジーの足元にうずくまる。突然のことにどうしていいかわからず、イェンジーは彼の体を起こそうとする。

「おい、どうしたんだ」

「……大丈夫です、少し気分が悪いだけ、……ごめんなさい、ちょっとここに……行商人さんを呼んできて、くれませんか」

「わ、わかったけど、本当に大丈夫なのか」

「はい、お願いします」

 イェンジーは、ファイレィがただただ心配だったが、言われるままに行商人のもとへ走った。

 ……その後のことはあまりに目まぐるしく、イェンジーにはよく覚えていられなかった。

 普段は停留所から他所へは滅多に歩かない行商人が、知らせを聞いて車を空け、イェンジーの家まで訪ねてきた。

 そして居間で横になっていたファイレィと何やら話し込み……彼に肩を貸し、停留所まで連れていてしまった。イェンジーがわけを聞いても、

「ファイレィさんは少し体調を崩したようです。今回は切り上げて城市で休養させます」

 としか答えてくれなかった。明らかに何かがおかしいと、イェンジーにもわかっていたのに、それ以上は尋ねられなかった。行商人は見たことのないくらい、厳しい顔をしていた。

 ファイレィを乗せた行商人の蒸気自動車は、あっと言う間に去ってしまった。その日の夕方には、城市からの役人を名乗る人々がイェンジーの家を訪ねてきて、ファイレィの荷物を回収し、何も語ることなく帰って行った。

 研究が終わるころには、しばしの別れを告げる決心をイェンジーはしていた。

 しかしこんなに突然、あまりにあっけなく、もう会えなくなってしまうのか。この件は、当分海士砦をざわつかせた。噂話はたくさん出回った。だが、どれもこれもイェンジーの納得するものではなかった。結局、集落の誰が言い出したのか……噛みつき河豚のいる潮だまりに入り、その毒腺に刺されて倒れたのだ、という説が住民には根付いた。そんなはずはないとイェンジーは知っていたが、その否定もさして相手にされなかった。やがて丁香魚の季節も過ぎたが、ファイレィがふたたびイェンジーの前に現れることはなかった。

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