第4話

 行水を終えてまた脱衣所に戻ってきたが、その時にはファイレィの裸を見るのが気恥ずかしかった。

 光尸猫の明かりだけでは薄暗いはずなのに、今日だけはなぜかもう少し、辺りが見えにくい方が楽なのに、という思いが頭によぎった。

 ……さっきも見たはずのファイレィの肌が、視界の端に映るのが苦しい。嫌じゃないのに、見たいような、見たくないような、奇妙な感覚だ。来た時よりもやや距離を置いて、ふたりは体を拭き、着物を纏った。暖かくて気持ちよかったですね、なんてファイレィが話しかけてくれたが、そうだな、とイェンジーは簡単な返事をするばかりだった。それくらいしか言葉が出なかった。

 月と、真夜中の散歩をする野良光尸猫の明かりをたよりに、ふたりは帰路につく。この季節は帰るまでに湯冷めしがちだが、今日はそんなことはなく、ぽかぽかと体が温まったままで家に入ることができた。

 帰ってからも、ファイレィにはまだ仕事があるらしく、煌々とした電池の光のもと、書き物を続けていた。イェンジーは葦の歯磨楊枝で口をすすいで万年床に入り、彼の後ろ姿を見つめていた。母の形見の机で、いくつもの書や冊子を広げているファイレィ。遠い波の音の他には、彼が硬筆を走らせる音だけが聞こえている。心地いい静寂だった。まるでずいぶん前から、この人はこの家にいて、こうして仕事をしてきたんだ、というような気さえした。

「まだ起きていますか、イェンジーさん」

 ふとファイレィが背を向けたままそう言ったので、ああ、と答えた。仕事の手を止めてこちらを気にかけてくれたのが嬉しかった。

「……眩しいですか?」

「いいや、それならこの戸を閉めているよ。……なあ、ファイレィさん」

「どうされました」

「ファイレィさんのことについて聞いてもいいか?」

「もちろん構いませんよ」

 イェンジーは布団からはい出て、書き物をするファイレィの後ろに座る。彼からは墨水と、ほのかな異国の香水の香りがする。許されるのなら子どものように抱きついて、その着物のにおいを確かめてみたかった。

「ファイレィさんには家族はいるの」

「いるといえば、そうなのですが……両親とはあまり仲がよくありませんね。城市ではひとりで暮らしています」

「そ、そうか」

 明るくはない話を聞いたはずなのに、なぜかイェンジーは胸をなで下ろしていた。そんな自分が浅ましくて、少し胸が痛む。

「私は先生に憧れて……両親と喧嘩して家を飛び出し、先生の雑用をしながら、研究を教わっていたんです。その先生も、何年も前に死んでしまった」

「そうだったんだ。その君が言うなら……先生は素晴らしい人だったんだろうね」

「はい。私は先生が好きでした」

 ぞく、と心臓が縮みあがる心地がした。イェンジーはどうしてか、胸を絞めつけられているような息苦しさを感じる。そうしてしばらく、ふたりは黙っていた。ファイレィは相変わらず書物と向きあっている。悲しいことを思い出してしまったのか、それとも優しい記憶に微笑んでいるのか、それを想像する余地もイェンジーにはなく、気がつくと震える声でつぶやいていた。

「君は、賢い人が、好きなんだね」

 イェンジー自身は軽く、ちょっぴりからかうくらいの調子で言うつもりでいた。どうしてこんな、泣き出しそうな声をしているんだろう。おかしな空気になってしまった、どうしよう、とイェンジーは頭を抱える。

 硬筆を走らせる音がぴたりと止む。ファイレィはこちらに体を向け、イェンジーの顔を覗きこんだ。眠り海月のような瞳を細めて、ゆっくり口角をあげる様子を、イェンジーによくよく見せる。

「あなたもとても、聡い方ですよ」

 そしてすぐに目を伏せ、また机の方に向かって……背中を丸めて、硬筆を握り、何やら考え込んでしまった。イェンジーは自分の頭が良いなんて、思ったことは少しもない。でも否定も、謙遜もできず、熱に浮かされたかのようにぼんやり、ファイレィの後ろ姿を眺めることしかできなかった。

「……もうそろそろ私もきり上げます。遅くまで付き添いさせてしまって、すみません」

「いや、俺も……眠れないから。いつまででもつきあうよ」

「それは……ありがとうございます」

 飴色の、ギヤマンと獣毛でできた歯磨楊枝を手にして、ファイレィは裏口にある水桶の方へむかった。彼の足元にすり寄った光尸猫の頭を、歯を磨きながら撫でる姿もイェンジーは見ていた。それからファイレィは、裏口のそばの棚へ、イェンジーの歯磨楊枝とそろえるように、自身が持ってきたギヤマンのそれを置く。今までもずっとそうしてきたかのように……。

そのうちに部屋へ戻ったファイレィが、寝間着の襦袢に着替えるのを見ながら、イェンジーは言う。

「……ファイレィさんが来てくれてよかったなあ」

「ふふ、なぜですか?」

「多分、寂しかったんだよね、俺」

「あなたになら、いい人がきっといるでしょう?」

「ううん、いないんだ。……もう眠るのか」

「ええ。おやすみなさい。明日もよろしくお願いしますね」

「あ、ああ。おやすみ……」

 ファイレィは電池の光を切る。台所の方でぼうっとかがやく、光尸猫の遠い明かりだけではもう何も見えない。

 自分の万年床に潜りながら、イェンジーは……ありえないことだけど、ずっとこの人がいてくれたらいいのに、と一瞬だけ思ってしまった。それは願うだけ虚しいとわかっていた。だから考えないようにした。彼の都合だってあるし、何より集落のみんなの気が休まらない。考えてはいけない。俺はこの人が滞在している間だけ、せいいっぱいもてなせば良いのだ。イェンジーはそう強く思い、硬く目を閉じる。その日も寝つくまで時間がかかった。すぐ隣の部屋で眠るファイレィのことを考えると落ちつかなかった。けれども、その心のざわめきは、うるさいだけじゃない、どこか暖かいものだった。


 翌日も、昼過ぎになってからファイレィに起こされた。昨日は部屋の外から声をかけられただけだったが、今日は布団のそばまで来て、イェンジーの体を揺すってきた。こんな風に起こされたのは、子どものころ以来だった。

 ファイレィは今日もいっしょに、行商人のところへ行きたいと言った。

 食事は昨日まとめて受け取ったが、城市との文書のやり取りなど、行商人ヘの用事は毎日あるらしい。

 もちろんイェンジーは快諾した。それにお酒も注文したいですからね、と楽しそうにほほ笑むファイレィを見て、イェンジーもつい表情がゆるんだ。

 外に出ても、住民たちの視線は相変わらず冷たかった。でも、イェンジーは気にならなかった。ファイレィは大切な使命を持って来たのだ。やましいことなど何もない。目が合った住民に、イェンジーはいつものように挨拶した。若い者や子どもには、返事を返してくれる者もいた。みんなきっと、いつかわかってくれる。イェンジーはそう確信していた。

「やっぱり私、歓迎されてませんね」

 いくつかの封書と冊子を受け取り、停留所から帰ってから、ファイレィは寂しそうに笑う。

「そんなことない。大丈夫だよ。今日は声をかけてくれる人もいたじゃないか」

 戸口を閉めながら、イェンジーは少しの胸騒ぎを覚えながら言う。ファイレィはうなずいてくれたけど、彼の不安はぬぐえていないようで、イェンジーは自分が情けなかった。

 今日の飯籠には、魚の油漬けの缶詰が入っていた。イェンジーの食べたことがない魚だった。ファイレィいわく、ここよりもずっと北の、もっと深い海に住む、大きな肉食魚の赤身とのことだった。食事中、光尸猫が机に飛び乗って、その缶詰を気にしていた。試しに油を少し与えてみると、うっとりと旨そうに舐めはじめた。かわいいですね、とファイレィは光尸猫をなでる。光尸猫もファイレィのことを気に入ってるように見えた。

 それからファイレィは、城市には幽鬼が滅多に住み着かないという話を聞かせてくれた。幽鬼は蒸気と磁気を嫌うのだという。

「ここの家憑き光尸猫は、城市から来た私がいても平気みたいですね。よほどこの家が好きなんでしょう」

「ううん、多分ファイレィさんに懐いているんだよ」

「おとつい来たばかりの私に?」

「君が優しい人だってわかるんだと思う。幽鬼はきれいな心がわかるんだ」

 イェンジーは極めて真面目に言ったのに、それは迷信ですね、なんて首をかしげるファイレィ。けれども続けて、

「でもそういった経験則があるのなら、あながち嘘ではないかもしれません。調べてみる価値はありそうですね」

 と、真剣な目になって考えこむ。イェンジーは、そのきりりとした瞳に見入った。ああ、この人とは住む世界が違うのだな、と思うと同時に、こんな人が自分を聡いと褒めてくれたことが誇らしくなった。

 食事が終わると、ファイレィはまた部屋で書と向き合い始めた。そうしている間、イェンジーはまた暇になった。そういえば、と思い台所に立ち、傷んだ貝汁を処分した。裏口から出て厠の穴に捨てたのだが、もったいないことをした、と残念だった。

「……お暇にさせてしまって申し訳ありませんね」

 居間に戻ってくると、そうファイレィの言う声が聞こえた。

「そんなことないけど……」

 イェンジーは彼のそばに座る。床にはいくつもの冊子や本が重ねられている。

「俺も字が読めたら、君といっしょに研究できたかもしれないなあ」

「それは……素敵ですね。もしよかったら空いた時間に、私なりにですが文字を教えましょうか?」

「え、いいのかい」

「ええ。もしくは、私の訪ねた色々な土地や、珍しい食べ物や……出会った人々のお話でも聞いてくれますか」

「わあ、それもいいなあ。でも……」

 そんな話を聞いたら、俺も外に行きたくなってしまいそうだよ。そう続けようとすると、

「……話したいんですよ。あなたと」

 なんて……ファイレィが言うものだから、暗くなるまで、その日は銀の砂に覆われた異国の話を聞いた。

 城市からはるか西に進んだ先にある、黒い影の幽鬼を使役し、貿易で日々の糧を得ながら生きる砂漠の民と過ごした日々を。魚の獲れない土地というだけで、イェンジーにはもう暮らしの想像がつかない。呪われた髑髏型の宝玉の話が、幽鬼の寵愛を得る香の話が、燃える水を飲む絡繰り荷車の話が、イェンジーの胸を躍らせる。

 ふたりはそうして日が暮れるのを待ってから、また海辺に行った。奇妙な金属の秤を見つめ、幽鬼の何かを測っているファイレィは、今日も時おり難しい顔をして硬筆を走らせていた。良くない結果が出ているのは、イェンジーにも想像できた。何が悪いのか尋ねたかったが、集中しているファイレィの邪魔はできなかった。

 それからまた家に帰った。その日は行水はしなかった。汗はかいていないし、海に入ってもいないし、何より別の夫婦が大浴屋に入るのを見かけたので、どちらからともなく今日は遠慮する雰囲気になっていた。

 ……これからあとどれくらい、この生活が続くのだろう。すっかり昼夜の逆転した一日を終え、イェンジーは考える。ファイレィがいずれ帰ってしまうことが、もう寂しかった。布団に入って目を閉じれば、また朝、いや、昼が来る……。

 と思ったが、その翌日は明け方に目が覚めた。誰かが戸口を叩いていたのだ。ファイレィも起こされたようで、布団から起きあがり、光尸猫を抱えながら気まずそうに玄関の方を見ている。

「ああ、ウェイ爺さんか。おはよう」

 寝不足の目をこすりながら、イェンジーは戸口を開ける。明らかに不機嫌そうなウェイ老人がそこにいた。

「どうしたんだい」

「……うちの甘尸酒の瓶が、ひとつ残らず腐っておった」

「それは気の毒に」

「他に言うことはないのか」

「ええ、何を……」

 ウェイ老人は詰めよってくるが、イェンジーには本当に心当たりがない。甘尸酒が腐る原因といえば、置いた場所が暑すぎたか、稗の質が悪かったか、甘尸虫が死んだか逃げたか、くらいしかないからだ。

「ごめんよ、うちに甘尸酒はないんだ。もちろん甘尸虫の瓶も……」

「そんなことは知っている」

「じゃあ俺にできることはないよ」

「……うちの孫が言っていたが、臭い臭い香のにおいが、あんたが入れた学者からするそうじゃないか」

「え?」

「それに怪しげな明かりも持ち歩いているそうだな。カン島の方にむけて、変な機械もいじっているとも聞いた」

「そりゃあ研究に来たのだから……当たり前だろ?」

「馬鹿言え!」

 突然、ウェイ老人は叫んだ。どんないたずらをした子どもにも、ここまで怒った姿は見たことがない。

「あんな奴を呼んだから、うちの甘尸虫が嫌がって逃げたんじゃないか?」

「……は?」

「臭い香か、明かりの悪影響か、それとも幽鬼にちょっかいをかけて弱らせたのか。間違いない。あいつが来てから腐ったんだから」

「いや、ファイレィさんはちっとも臭くないし……たぶん影響なんてないと思うよ、うちの光尸猫も元気だし……」

「あいつの肩を持つのか。……イェンジーは人がいいからな。馬鹿なんだよ、君は」

「いや、俺は馬鹿でいいけどさ。甘尸酒が腐るなんて、珍しくないことじゃないか……」

「じゃあイェンジーは、あいつが悪くないというのか」

「そうだよ。……あの人のこと、誤解してるよ。ウェイ爺さん」

「……どっちが勘違いしているんだか。じきにわかる」

 ウェイ老人はそう言って引き返したので、イェンジーは戸口を閉めた。居間ではファイレィが申し訳なさそうに背中を丸めて座っていた。

「あ、あの、イェンジーさん。私……」

「びっくりさせてごめん。ああいう人も確かにいるけど……君は何も悪いことをしてないだろ?」

「はい、私には心当たりがなくて。でも、甘尸酒って繊細ですから、全く関係がないとも言い切れませんし……どうしようかと……」

「大丈夫。俺がちゃんとそばにいて、君をずっと見ていたじゃないか。あとは俺がしっかりしていればいいんだ」

「……ご迷惑をおかけします」

「君のせいじゃない。胸をはって研究をしてくれよ」

 ふたりきりになると安心してきて、ついあくびが出る。

「はは、もう少し寝たいなあ。ファイレィさんも、しっかり寝ないと。今夜も海辺に行くんだろ」

「はい、そのつもりですが」

「俺は君を守るよ」

「……ありがとうございます」

 イェンジーは落ち込んだファイレィを励まそうと、つとめて明るくふるまった。そうするしかなかった。今、彼がそばにいてくれなければ、世話になった親しい老人の変わりように動転していただろう。そうなったとき自分は泣くのか、はたまた怒るのか、イェンジー自身にも想像ができなかった。……ファイレィのそばから離れたくない。何より自分のために。イェンジーはとうとうはっきりそう思ってしまった。


「こんにちは、イェンジーさん。学者さん」

 翌々日、ふたりはすっかりいつも通りに、行商人の停留所へと歩いていた時だった。すれ違いざまに挨拶してくれたのは、網引き漁師の末娘だった。どうも、とイェンジーは何の気もなく返事したが、思えば、彼女が初めてむこうから声をかけてくれた住民である。

「こんにちは。いつもお疲れ様です」

 ファイレィも丁寧にそう頭を下げた。末娘も笑顔で手を振ってから、網引き漁師の家へと帰って行った。イェンジーは嬉しかった。みんながファイレィを歓迎してくれたら、もしかしたら海士砦で、これからもずっと……なんて思ってしまう。

 さて、今日は行商人から食料と、それから注文した老酒を受け取る日だ。

「イェンジーさん、こちらを持ってくれませんか」

 停留所で行商人から受け取った瓶を、ファイレィは手渡してくる。イェンジーがその瓶を持ってみると、内側に満たされた老酒の波打つ手ごたえと、ほんのりとした香ばしいにおいが感じられた。

「そうそう、それからこれは網引き漁師の娘さんから差し入れだって」

「え、なんだろう」

「今朝獲れた丁香魚だそうだ」

 冷気を放つ仕掛け箱から、行商人は竹の皮の小さな包みを取り出し、見せてくれる。

「嬉しいなあ。新鮮な魚が食べたいところだったんだ。次あったら礼を言わなきゃ」

「……ところでふたりとも、長は最近この村で宴会をやるつもりでもあるのか、知らないか」

 行商人は藪から棒に、ファイレィへ持たせる水筒や食料、それから網引き漁師の娘がくれた差し入れを包みながら尋ねてくる。そんなことは聞いていない、とイェンジーは答える。行商人は眉間にしわを寄せ、声を小さくして続ける。

「そうか。……この前、長からたくさん酒の注文があったんです。それから着物や布団なんかね」

「へえ、いいじゃないか」

「……城市からの謝礼、本当に全部を長に渡してしまって良かったんですか」

「そういう約束だったからね」

「こっちはもう関係ないから、ふたりが納得してるなら何も言わない。けどさ、少しは考えた方がいいですよ。自分自身のことも」

 銭子に興味のないイェンジーは、長が謝礼で贅沢しようと、嫌な気持ちはしなかった。しかし行商人と……それから、少し覗きみたファイレィの表情から察するに、どうやら自分の判断や考え方は、城市の人間を心配にさせてしまうものらしい。

「大丈夫だよ。ありがとう」

 イェンジーはふたりにしっかり聞かせるように言う。その時、荷物を受け取りながらファイレィが、心なしか悲しそうな顔をした気がした。だからもう一度、大丈夫だよ、とイェンジーは笑った。

 そうしてふたりは家に帰りつく。老酒と、網引き漁師の末娘がくれた丁香魚は、台所の涼しい陰にいったん片づけた。それからまた暗くなるまで、ファイレィの話を聞いて……今日は南の、幽鬼と交信を行うシャーマンと呼ばれる人々についてだった……、また海辺へ調査に出かけた。その間も、イェンジーは落ちつかなかった。酒を飲むのが楽しみだったのだ。イェンジーはけして酒好きではない。祭りのつき合いで飲み、体がふわふわとして気分が高揚するような経験はしたことがある。それはそれで面白かったが、だからといって酒飲みになるほど、イェンジーにとっては執着するものではなかった。

 けれども、ファイレィと酒を酌み交わすとなると、話は違う。自分が飲みたいというより、ファイレィが酔ったところを見てみたい気持ちがあった。それからもっと心を許してもらえる関係になれるかも、という期待もある。イェンジーはファイレィと、可能な限り仲良くなりたかった。……この人なら、どこまで深く。その限界点がどんな世界にあるのか、イェンジーにはつかみきれないのに。

 その日はカン島に霧がかかっていた。海辺で調査をするファイレィは、これまでに増して集中して、機材の反応を確かめ、書きとめていた。眠り海月の音色を聞きながら、群青の空と、霧で曖昧になった水平線をイェンジーは黙って見ていた。その夜もまた更けて、今日は大浴屋に誰もいなかったので、行水をしてから帰った。そろそろファイレィの白い、異様な古傷の残る肌も見慣れていい頃合いなのに、どうしてだかまだ目のやり場に困る。ファイレィは気にしていないようで、背中を見せながら、どの傷が気になるんですか? なんていたずらっぽく聞いてくるものだから、イェンジーは目を伏せ、気にならないよ、なんて、本音なのかどうか自分でも曖昧な返事をするばかりだった。

 そうして冷えたような、ほてったような体で家に帰りつき、居間に座ったファイレィは飯籠を食卓に並べながら言う。

「さあ、楽しみにしていた時間ですね。私、実はお酒が大好きなんで……今日の老酒も、私の気に入ってるものなんです」

 イェンジーは……湯あがりの、何かの拍子にすぐはだけそうな、ファイレィの着物の隙間を凝視してしまう自分が恥ずかしかった。ファイレィの映るこの視界だけが、今のイェンジーにとっては鮮やかに色づいている。

「ふふ、先に一杯、引っかけたみたいじゃないですか?」

「え、いや、いや。まだ飲んでないよ」

「わかってますよ。ふふっ」

 うわの空なのがばれたか、顔が赤くなっていたか。イェンジーは目を泳がせつつ、少し待たせるよ、とことわってから台所に立った。



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