第3話
「海辺につれて行ってくれませんか」
外がすっかり暗くなったころ、ファイレィは言った。
「カン島がよく見える場所だと助かります。お願いできますか」
ファイレィは電池で光るギヤマンの球も持ち、白い風呂敷包みを背おっている。こんな中途半端な夜更けに出歩く住民なんていない。イェンジーもそうだ。幽鬼、特に眠り海月が邪魔をするので、舟を出すのも難しい時間……だからこそ、幽鬼を見に来たファイレィにとっては重要な時間なのだろう。
「もちろん。いっしょに行こう」
「助かります。少しでも早く情報を得て、滞在期間を短くしたいと思いますので……」
そんなこと気にしなくてもいいのに、とイェンジーは思った。しかし住民たちの態度や、ファイレィの居心地を考えると、とてもそう言うことはできなかった。
「誰にも会わないといいですね」
家を出るとき、ファイレィの小さな声が聞こえた。
「大丈夫だよ。幽鬼の研究に来たんだから、君は少しも怪しくない。俺が守るよ」
イェンジーは戸口を閉め、白い光源を手にするファイレィの方を見る。薄布の頭巾が影をつくる彼の顔は、何となくうかないように見えた。
「こっちだよ。少し道がでこぼこしているからさ、気をつけて」
そして、良かれと思ってファイレィの手を取って歩こうとする。
「あ、あの……」
「どうしたんだい」
心配ごとでもあるのか、ファイレィは戸惑っているようだった。けれども少し立ちどまってから、イェンジーが手を引く方へついて来てくれる。
「イェンジーさんは、皆さんにそんな……親切に接しているんですか?」
「みんなで助け合うようにって、父さんと母さんが教えてくれたからね」
「……そうですよね、それはとても……素晴らしいことだと思います」
「そうだろう。さ、海が近づくと、足元が滑りやすくなるよ」
そんな話をしながら、ふたりは手を繋ぎあって、舟小屋の建つ、カン島のよく見える海辺まで歩いてきた。
ゆるやかな波間に、黒々とした眠り海月が、月明かりを映しながらただよっている。
「……いい音色ですね、眠り海月の鳴き声は。こんなに優しい、鐘のような響きがするなんて」
「子守歌みたいに落ち着くから、眠り海月って呼んでるんだ。ファイレィさんは見たことがないのかい」
「師匠と見に行ったことはあるんですが……これほど大きい眠り海月がたくさん見れるのは、おそらく海士砦だけだと思います」
闇に浮かぶ水平線の上には、尖ったカン島の影が見える。ファイレィは舟小屋のそばの、踏み固められた平らな地べたに座りこみ、持ってきた風呂敷を広げた。中には紙束と、丸いギヤマンが埋め込まれた小さな箱、青い液体が入った小瓶、複雑な針金細工など……細ごまな、見たことのない道具がいくつも入っていた。
「イェンジーさんは退屈でしょう。申し訳ありません」
「いやいや。俺は海辺でぼんやりするのも好きだ」
「あなたは本当に優しい方なんですね」
本音をそのまま言っただけなのに、なぜか褒められて変な気分だった。ファイレィの隣に座って、眠り海月の音を聞く。でも、気づいたらファイレィの手元を眺めていた。針金細工に青い液体を一滴垂らすと、その青が針金を光ながら伝っていく。その光は規則性があるような、不思議な点滅もしている。ファイレィは集中して、それを観察しながら紙束に何やら書きこみ始めた。ギヤマン球の光に照らされながら……。真剣な眼差しとは、こんなに生き生きとして、きれいなものなんだ。白い指が硬筆を走らせるたび、海風のにおいに混ざってかすかなインクのにおいが感じられる。先ほどはイェンジーの手を握っていたその指。暖かくて、柔らかかった。漁夫たちのようにごつごつと鍛えられた指でこそないが、硬筆を握り続けて特徴的なたこのできた、集落の者では想像できない、全く違う苦労をしてきた学者の指。イェンジーは思ったことを愚直に伝える方だけど、きれいだなあ、とつい言いかけたのは、どうにも恥ずかしくて飲みこんだ。
「そんなにじっと見ても、面白いことは起こりませんよ」
ファイレィは微笑む。あまり見ない方が良かっただろうか。
「ご、ごめん。さすが、学者さんはすらすらと文字を書けて凄いな、って思って見ていたんだ」
「それはもちろん、城市の研究員ですから。もし何か書に関するご用があれば、私がお手伝いしますよ」
「頼もしいなあ、ファイレィさんは」
「でも海士砦の暮らしでは、私なんて役に立たないでしょ? 今の私にとっては、イェンジーさんはとても頼もしい恩人なんです」
ギヤマンの埋め込まれた箱についていた、ゼンマイのようなつまみをファイレィは回す。その箱をカン島の方へ向けて、何かを測っているかのようだ。
「城市の人間にはですね、中には勘違いして、外の皆さんを蔑ろにしている者もいます。けれども多くの人は、自然や幽鬼を相手に山の幸、海の幸を獲ってくれる皆さんに、とても感謝しているんです。なにせ外の皆さんがいなければ、食べることさえできませんから。私たちはイェンジーさんたちを、いつも頼りにしているんです」
「わあ、嬉しいなあ。そう言ってもらえると、漁夫としてやってきて良かったって思うよ。……ここの年長の人たちは、城市の人間はみんな村の者を馬鹿にしている、と言って腹を立てていた。そうじゃないんだね」
イェンジーは嬉しくなって、ファイレィの顔をのぞきこむ。だが、さっきまで穏やかに話し合っていたはずの彼の顔は、嫌そう、というか難しそうな表情になっていた。
「……ごめん、何か変なこと言ったかな」
「いえ、イェンジーさんのせいじゃありません。少し、カン島と中心にした幽鬼の反応に……何と言いましょうか、難解なものがあっただけです」
「なんだって。……それはまた、誰かがカン島に隠されてしまう予兆だったりするのか?」
「それはまだわかりません。でも安心してください。幽鬼の特性を解明していって、犠牲者が出ないようにするのが、私たち研究員の仕事ですから」
「立派だなあ、ファイレィさんは」
「あなたもですよ」
感心しながらも、イェンジーの気分は重かった。こんなに真面目な人が、どうして城市の研究員というだけで、住民たちに嫌われなければならないんだ。そして多分、イェンジーがいくら誤解を解こうとしても、ウェイ老人が言っていたように……城市の者に言いくるめられただけだ、と一蹴されるだけだろう。
それからは、月がカン島の上を通り越すころまで、ファイレィは見たことのない器具で何かを測り、記録し続けていた。どこかの家の光尸猫や、渡り骨蝶がふたりに近づくこともあったが、それらはこちらに興味を持つことも、警戒することもなく、ふわりと近づいては通り過ぎて行った。
「光尸猫も、ファイレィさんを怖がらないね。こういう小さな幽鬼って、心の醜い人を嫌うんだ。あと、幽鬼の血を浴びた人とかも……」
「そうなんですね。私は幽鬼の解剖もするんですが……でも、むやみにに幽鬼を殺したりなんかはしませんよ」
「いや、気を悪くしないでくれ。ごめん。村の者の中には、よそ者が幽鬼を傷つけるんじゃないかと心配している人もいたんだ。そんな誤解も、これならいずれ解けそうで……良かったなって思ったんだよ」
「……ああ、どうしてそんな風に思われてしまうんでしょう」
器具を風呂敷に包みながら、がっくり肩を落とすファイレィの姿に心が痛む。イェンジーは思わず、
「でも俺は絶対、君の味方だから」
そう伝えた。元気のない人がそばに居れば、励ますのがイェンジーの性格だ。自身もそれは自覚している。だけど、本当にそれだけのつもりで出た言葉だったのか、イェンジーにもよくわからなかった。
家に帰るころには、眠り海月も静まるほどの真夜中になっていた。
ファイレィが何を考え、どんな風に硬筆を走らせていたのか、イェンジーには欠片もわからない。それでも傍で彼を見ている時間に、飽きたりなんかしなかった。
戸口を開けると玄関で光尸猫が座って待っていた。しかし漁に出ていないイェンジーは、新鮮な魚を持っていない。
「ごめんよ、今日は魚はないんだ」
「にゃん」
それでも足元に冷たい頬をすりつけてくる光尸猫の頭をなでてやる。
「俺は明かりに困らないから、他の家に行ったらいいのに」
「その子、イェンジーさんのことが好きなんですよ」
「でも食べさせるものがないよ。行商人から魚を買わないと」
「おや、私の知る限り光尸猫は雑食なんですけどね。保存食を分けてあげましょうよ」
「そうなんだ。魚か貝しか食べないと思っていた。でもそういえば、海草を食べる姿も見たこともあるな」
「別の地域では栗が好物だと言われてるんですよ。人間の食べる物なら何でも食べると思います。気に入ってくれるかどうかはわかりませんけど……」
「まあ試しにあげてみよう」
「にゃ?」
ふたりは居間に戻って、行商人から受け取った荷物からまた飯籠をひとつずつ手にする。ファイレィはすぐにふたを開けて、雑穀の素揚げを光尸猫の鼻先にさし出した。光尸猫は一旦香りをかいでから、白い舌を伸ばしてそれを舐めた。
「食べるみたいですね。お利口で、かわいいなあ」
かりかりと牙をたてながら、光尸猫はファイレィの手から素揚げを食べていく。冷たい光尸猫のかがやきが、ファイレィの白い頬を暗い部屋に浮かび上がらせている。
「……イェンジーさん?」
「ん、どうしたんだ」
「いえ、私の顔をじっと見てたから」
「ああ、ごめん」
「謝らなくていいですよ。白い顔が珍しいんでしょう?」
「え、うーん。そうなのかな。みんな日焼けはしてるけどさ」
きれいだから見ていた。そう言ってしまったなら、彼はどんな顔をするのだろう。
「って、ファイレィさん、自分の食事をこの子にあげてよかったの。腹が減るだろ?」
「これくらいなら大したことないですよ」
「ただでさえ俺の方がたくさん食べてるのに。ほら、あげるよ」
イェンジーは自分の飯籠から、雑穀の素揚げを一枚取ってファイレィの飯籠に入れた。
「ありがとう。じゃあ遠慮なくいただきます。研究って結構、お腹がすくんですよね」
「やっぱり足りなかったんじゃないか」
「……ふふ。そうかも」
光尸猫はごろごろ喉を鳴らしながら、ファイレィの膝に座る。幽鬼は心のきれいな人がわかるんだよ、と昔に父が教えてくれた覚えがある。
「ファイレィさんはいい人だなあ。前の学者さんと違って」
だから何の気もなしに、イェンジーはそうつぶやいた。するとファイレィはふいに表情を曇らせる。イェンジーの心がざわつく。
「……私の先生のこと、皆さんどのように聞いているんですか?」
「前の学者さんは君の先生だったんだ。……ファイレィさんにとっては、悪い人じゃなかったのかい?」
「少し変わった人ではありましたけどね」
……イェンジーは少しだけ考えてから、前の学者のふるまいについて、集落の噂で聞いた通りに話した。ファイレィがどんどん落ち込んでいくのがわかって辛かったが、嘘をつくわけにもいかないので、すべて素直に伝えた。イェンジーの父母が消えた話ももちろん……。
「あなたは……先生をカン島に連れて行ってくれた方の、ご子息様だったのですね」
「そうだ。だからこそ君を支えたいんだ。もうカン島に隠されてしまう人を出さないように」
「その目的は、私たち城市の研究員も同じです。先生も同じでした。……崖を隔てた北の村に、船着き場があるのはご存知ですか」
「ああ、それは知っている。ときどき大きな船が沖を通るのを見るよ」
「そうでしょう。しかし、村を目指して海の向こうから来た船が、ここの沖で消えてしまう事件が稀に起きるんです。異国からの使者や、城市の貿易商などを乗せた船が……。その事件に海士砦の幽鬼、特にカン島のそれらが関わっているかもしれないことを突きとめて、先生は調査に行ったんです」
「そうだったのか。じゃあ、先生もみんなを助けたくて研究していたんだ」
「海士砦の祭事を調べたのも、カン島に行こうとしたのも、……海士砦の方々に失礼な態度だったかどうかは、その場を知らないので何とも言えませんが……、けして悪気があったわけではないんです。今更こんな話をしても、誰も信じてくれないでしょうけど、私にとって先生は、尊敬する、素晴らしい研究者だったんです」
「俺は信じるよ。ごめん、先生のことを悪く言って」
「……ありがとうございます。あなたに話して良かった」
長い話が終わって、ファイレィがやっと笑ってくれた。光尸猫の毛並みしか明かりがないのに、ぱっと闇がひらけたような気がした。お礼を言われるとやはり嬉しい。
「ここのみんなは、城市の人を誤解しているよ……。君も、先生も、いい人じゃないか」
「そうでもないですけどね。意地悪な人はどこにも、城市にだってもちろんいます。……お茶をいれましょう。お食事がすんだら、お風呂に案内してくれますか」
ファイレィの膝の上で、光尸猫は気持ちよさそうに眠っている。どうしてみんな、わかってくれないんだろう。本当は今すぐにでも、今知ったことを大声で誰かに伝えたいくらいだ。
城市の茶の香りが、潮風のしみついた居間にふわりと立ちのぼる。じりじりとした、ひとりで生きているだけでは感じることのなかったもどかしさが、イェンジーの気持ちを飲みこもうとしていた。
水源が限られている海士砦では、みんな行水を共同の大浴屋で済ませている。
漁夫や海女は、仕事を終える時間がそれぞれ違う。だから大浴屋の湯沸かしは、いつも使えるように解放されているのだ。
「この時間は誰もいないな。誰かに会うと、面倒だからなあ」
「案内してくださってありがとうございます。……ああ、今さらですけど、お風呂もあなたといっしょに入るんですよね」
「嫌か?」
「そうではないんですけど、お手を煩わせてしまっているみたいで……」
「なんだ、何も気にすることないよ。君のために俺は長い休みをもらったんじゃないか」
脱衣場の中央の檻には、一匹の光尸猫が閉じ込められていて、その青白い毛並みで寒い室内を照らしている。餌入れには茹で貝のむき身が放り込まれていて、光尸猫は時おりそれに口をつけながら、檻の中でごろごろと転がっていた。
「水場は暗いから気をつけてくれ。目が慣れるまで、俺の手を握っていた方がいいかもなあ」
イェンジーはさっさと着物を脱いで、籠に入れていった。ファイレィも衣をするするとほどく。白い、しかし海士砦の若者に劣らないくらいには、けして華奢ではない肌が浮かびあがっていく。
「……やっぱり、ここでは白い肌って珍しいですか? 聞いたことがあります。ある土地では、白い肌は病人か怠け者の証だって」
「珍しいかと聞かれたら、そりゃ珍しいよ。でもきれいだ」
つい、思ったことをそのままこぼしてしまう。ファイレィは薄い襦袢を一枚まとっただけの姿で、気まずそうに下を向いた。変なことを言ってしまった、とイェンジーは自分が裸なのも忘れてあせった。けれどもそれは思い違いだったかもしれない。ファイレィは、視線だけをゆっくりイェンジーの方に上げて、困ったように微笑んだ。
「少しも、きれいじゃありませんよ」
そう言って、薄い襦袢をはだけさせる。イェンジーは寒さや恥ずかしさなんてすっかり忘れて、ファイレィの肌に見入った。
「……これは火吹き獏に焼かれた痕。これは砂豹鼬の爪の痕。こっちは……姑獲虫の毒で腐った肉を、腹を切ってえぐり出した痕です。気持ち悪いでしょう?」
イェンジーは何も考えずに、ただ首を横に振った。海士砦で生きている限り、イェンジーには想像のつかない人生を歩んでいるのはわかっていた。でもそれは便利さだったり、華やかさだったり、……それこそきれいな側面ばかりが、イェンジーに何とか考え及ぶものだった。
言葉を失ったままのイェンジーの手を、ファイレィが握る。まるで別世界から来たような、美しく、傷だらけのその人は、暖かく、柔らかい手をしている。
「優しいんですね、イェンジーさん。……冷えてしまいますから、早く案内してくださいな」
「ファイレィさん、君は、君は……」
何を言いたいのかわからないまま、お互い手ぬぐいだけを手にしたまま、裸で見つめ合っている。はたから見れば、大人の男同士が何をしているのかと、滑稽な様子だったに違いない。それに気づいたのか、ファイレィがふふっ、と笑いだしてくれたものだから、心につかえていた栓がとれたように、イェンジーはもう一度彼に伝える。
「君はきれいだと思う」
あはは、と声を出してファイレィは笑った。嬉しかったけど、なぜか歯がゆかった。喋ることは得意じゃない。でも、自分でも把握できないくらい、もっと伝えたいことがある。きれい、という言葉もそのひとつにすぎない。それだってまだ彼には届いていない。
それからファイレィは……少しの間だけ黙ってから、イェンジーの手を引いて、彼から水場の方に連れて行ってくれた。ああ、ぼんやりしていて申し訳なかったなあ、とイェンジーは思った。
「あ、……滑るから、気をつけて」
「ええ、ありがとうございます」
水場には天井がない。釜にはられた水が、月を映してささやかな明かりになっている。ここに座って、とイェンジーは栗木の椅子にファイレィを待たせてから、大釜の下のハンドルを引っぱった。黒角炭が赤く灯り、釜の水をすぐに温めていく。温まった湯はアルマイト管を流れ、たらいの中に溜まる仕組みだ。
「なあ、背中を流させてくれないか」
「……いいですよ。ふふっ……そっちに行ったらいいですか?」
「ああ、椅子は持って来ていいから、ここに座ってくれ」
そしてイェンジーは、加減を見ながらそっと湯を汲み、そばに座ったファイレィの白い背中に流していく。暗くてよく見えないが、背中の方にも古傷がいくつかあるのがわかる。
イェンジーはお人好しだ。しかしこの奉仕は、どうにもファイレィのためではなく……自分自身の好奇心か、あるいは別の衝動のために行っているような自覚があった。それがまた、ちょっとだけ申し訳なかった。
「私の背中、よく見てみたかったんですか」
手ぬぐいでゆっくり白い背中を撫でようとすると、ファイレィは心の中を言い当てるようにそう言ってきた。イェンジーはぎくりとしたが、嫌味を言うような口調ではなく、優しく、からかうように尋ねてくれたから、まだ救われた。
「……傷、見られたくなかったか」
「いいえ。あなたになら、もっと明るいところで見せてもいいですよ」
「そ、それは……よっぽど暇になったら、考えておく……」
「ふふ、わかりました。じゃあそろそろ、私もあなたの背中を流してさしあげましょうか?」
「えっ、い、いや、俺はいいよ。俺は、ここもずっとひとりで来てるし、大丈夫……」
「嫌ですか?」
「嫌じゃない! で、でもなんだか、……慣れなくて」
「そうですか。今日は私だけが甘えさせてもらいましたねえ」
「いいんだよ、いいんだよ」
「優しいですね、イェンジーさん。ふふ、それなら次も甘えても?」
振り返ったファイレィの顔は、暗くてはっきりわからなかったけども……イェンジーは彼にはよく見えるよう、大きく首を縦に振った。……内心、イェンジーは思う。暗くて良かったと。湯は大して熱くもないのに、こんなに赤く、ほてっているのは恥ずかしい。それにこれ以上彼に触れていると、のぼせてどうにかなってしまいそうだ。……だから、それからはふたり、少し離れて各々体を流した。湯が床を打つ音なんかより、ずっと自身の心臓の方がうるさかった。こんな気分は初めてだった。……もしこれからもずっと治まる気配がなければ、ファイレィに理由を聞いてみよう。城市の学者ならわかるはずだ……。
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