第2話

   死人サ出たら、鬼ンなる前に、カン島の潮溜まりに連れてけ。

   あれはあの世への門じャ、幽鬼の片割れに死人サ差し出せ。

                 (海士砦老婆より口伝・書記)



 行商人と約束した季節は間もなくだ。

 イェンジーは両親の寝室を、今までより念入りに掃除した。

 学者なら机も入用かと、針仕事の得意な母が使っていた、椴松の机をつやが出るまで磨きあげた。

 戸を開け放ち、陸の方から吹いてくる風を通す。

 優しい父母と過ごしたこの部屋が、再び誰かの役に立つことが嬉しかった。

 城市からイェンジーに贈られる報酬は、いつの間にかすべて長に納める話になっていたが、それはイェンジーにとってはどうでも良かった。若者の中には、その決定にイェンジーは怒るべきだ、と言う者もいる。しかし、長がみんなのために使ってくれるなら構わない、とイェンジーは思っていた。

 ……あの日以来、いくらかの住民はイェンジーを露骨に避けるようになった。そんなこともイェンジーは気にしない。

 俺さえしっかりしていればいい。理解してくれている住民もいるし、良くない状況も我慢していればやがて終わる。

 何人かの年上の住民からは、前の研究者についての話を聞かされはした。どんなに迷惑だったかと。

 そうするとイェンジーには、かえって次の研究者が不憫に思えてきて、むしろ妙な使命感を持つようになっていった。俺が助けてやらなければ、と。

 明るい日の射す開け放した戸から、家憑きの光尸猫がふらりと入ってきて、玄関で休憩しているイェンジーの足先にじゃれついてくる。

 そういえば漁に出ないとなると、光尸猫のための新鮮な魚を用意できなくなってしまう。ならば行商人に用意してもらおうか。魚のことでも、この件のせいで住民に頼ってしまえば、良く思われないだろうとイェンジーは理解していた。

「よしよし。おまえ、しばらくよその家にでも行くか?」

「にゃあん」

「でもおまえがいなくなると、夜は真っ暗になってしまうなあ。学者さんは困らないかな」

 ここの家憑き光尸猫は、家主のイェンジーによくなついている。おとなしく扱いやすいが、自ら人間にすり寄ってくる姿は、それほど見せてくれない幽鬼だ。ひんやりとした光尸猫の小さな頭をなでながら、でも何とかしてあげないとね、とイェンジーは笑った。


「イェンジーさんのお宅って、稗畑の奥の、あの家ですよね」

 あくる日来た蒸気自動車を訪ねると、行商人はイェンジーにそう耳打ちしてきた。

「ああ、そうだ」

 いつも通り魚を売りに来たイェンジーはうなずく。行商人は続ける。

「今日の夜、研究員が来ますので、よろしくお願いします」

「え、どうやって来るんだ。てっきりその車に乗ってくるのかと思った」

「そうしたかったんですが、目立つとまずいでしょう。あの日の皆さん、今にも石を投げてきそうだったじゃないですか」

 そんな酷いことする人はいない、と言いたかったが、イェンジーにはもう住民がわからなかった。

「だから、崖の死角で降ろしてきました。日が暮れてから歩いてお訪ねします」

「夜は暗いけど、大丈夫かな」

「いえいえ、おかまいなく」

 イェンジーは自分が悪いわけではないのに、まだ見ぬ研究員に対して、恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいだった。どうしてわかってくれない住民がいるんだろう。

 行商人の車が、白い蒸気を噴きあげ、轍をつけながら走り去っていく。

 その場に集まっていた住民同士が、今日も来なかったねぇ、本当に来るのかなぁ、などと言葉を交わしている。

 切りひらかれた、崖へと続く道をイェンジーは見あげた。その人は、もうそこに降り立っているのだ。

 本当は迎えに行きたいくらいの気持ちだけれども、心のざわめきを表情に出さないよう、顔をしかめながらイェンジーは帰路についた。


 日が傾き、だんだん家の中が暗くなっていく。

 イェンジーは居間に座って、その人の訪問を待っていた。

 うちの布団で寒くはないだろうか。行水は大浴屋でしかできないが、そこではどう過ごせばいいだろうか。

 ひとりで生きるのに向いていると思っていたけど、自分がこんなに世話好きだなんてイェンジーは知らなかった。新しい人に出会うのが楽しみなのかもしれない。城市そのものへの憧れもどこかにあった。

 光尸猫がとことこ歩いてきて、居間の、敷物の上で転がる。

「そこにおまえが寝ていたら、座るところが冷たくなってしまうよ」

「にゃあ」

 イェンジーは光尸猫を抱きあげ、土間に降ろす。すでにだいぶ日は落ちていて、青白い光尸猫の毛並みが、暗い室内にぼんやり浮かび上がっている。

 その時、戸が叩かれた。

 光尸猫は座りこんで、玄関の方をじっと見ている。イェンジーはゆっくり戸に手をかけた。

 ……どんな人物が来るのだろう。城市の人間とは、行商人以外に会ったことがない。もし悪人だとしたら、絶対に俺がくい止めて、城市に帰してやるんだ。そう気おって、戸を開ける。そこには、

「はじめまして。あなたがイェンジーさんですね」

 見たこともない、きめ細かい薄紫をした袴の裾を潮風に揺らす……魚篭よりずっと大きな荷物を背おった、イェンジーと同じくらいの背丈の男がいた。

 外はほとんど真っ暗になっている。光尸猫の明かりだけが、足元からその男を照らす様子をイェンジーはまじまじと見つめた。顔立ちまではまだわからないが、白い肌の、整った下あごの輪郭が、冷たい光に浮かびあがっていた。

「ああ、俺がイェンジーだ。遠くから、お疲れ様。大丈夫だった?」

「はい。私は、城市からまいりました、幽鬼研究員のファイレィと申します」

「知ってるよ。入って入って、ほら」

「ありがとうございます」

 小さな戸に、大荷物が引っかからないよう、そっと姿勢を低くして、ファイレィと名乗った男は玄関をくぐった。

「こんな時間なのに、よく来れたね。うち、この子しか明かりがないけど平気?」

「ええ、ありがとうございます」

 人相も見えないけど、イェンジーはファイレィの物腰に対して、嫌な気持ちはわかなかった。落ちついた、柔らかい声をしている。

「こっちが学者さんの部屋だ。暗いから気をつけて」

 そう言って案内すると、ファイレィは再び礼を言って、イェンジーの招く部屋についていった。

「あの、持ってきた明かりをつけてもいいですか?」

 ファイレィは重い荷物を丁寧に床へ置く。光尸猫は居間で座っているので、お互いの影しか今は見えない。

 イェンジーはもちろん、と答える。すると金属の匙を叩くような、澄んだ音がひとつ鳴ったあと、部屋中に白い光がぱっと広がった。

「うわあ、きれいだな」

 その光源にイェンジーは目を奪われた。半透明のギヤマンの球が、ファイレィの白い手から吊られている。

「電池で光をつくっているんですよ。私は蝋燭で構わないと言ったのに、上司が心配して持たせてくれたんです」

「へえ、すごいな……」

 そして何の気もなしに、ファイレィの顔を覗きこんで、イェンジーは息をのんだ。

 白い、彫り物のような顔。眠り海月の光に似た、透き通った黒い瞳。

「ああ、イェンジーさんってお若い方だったんですね。私と歳が近いみたいで、なんだか安心します」

 それらが柔らかく笑顔をつくる。薄紅色の上着と、ゆったりとした頭巾が、光の中で織り込まれた透明な糸をきらめかせていた。

「……白いなあ、ファイレィさんは」

「幽鬼の研究は、日中外へ出る仕事ではありませんからね」

 ギヤマンの球が、彼のために磨いた机の上に置かれる。きれいな机ですね、とファイレィが言ったので、母の形見であること、この日のために磨いたことを、なぜか妙にあせった気持ちになりながらイェンジーは伝えた。しどろもどろだったと思うけれど、ファイレィは嬉しそうにうなずいてくれた。

「私は歓迎されていないと聞いたのですが、あなたは親切にしてくれるんですね」

「みんながみんな、嫌がってるわけじゃない。俺がついてるから、心配しなくていいよ」

「ありがとうございます。よろしくお願いしますね。あの、お近づきの印ですが、良かったらどうぞ」

 そう言うと、ファイレィは大荷物にくくりつけていた、ひとつの箱をイェンジーにさし出した。

「なんだこれ」

「城市の花飴です」

 飴なら行商人もよく売っている。かしこまった贈り物の作法を知らないイェンジーは、その場で紐を解き、花の彫り物のほどこされた箱を開ける。

 棒つきのその飴たちは、黄花魚釣りに使うウキくらいの大きさで、透明な丸い形をしていた。そしてそのひとつひとつの内側には、青もしくは赤の、鮮やかな小さい食用花が封じ込められている。箱いっぱいに、そんな美しい飴が詰められているのだ。飴と言えば白いぶつ切りの粒か、料理用の粘性のものかと思ったイェンジーは、しばし目を見開いた。

「こんな良いものをありがとう、みんな喜ぶよ」

 本当に嬉しかった。心からの感謝をファイレィに伝えたつもりだったが、彼は少しいぶかしげな顔をした気がする。

「いえ、これは城市からの謝礼ではありません。あくまで私から、あなたへの感謝の贈り物です」

「そうか、わざわざすまない。きっと子どもたちは凄く嬉しいだろうなあ。明日、長に納めてくるよ」

「……飴はお嫌いですか?」

「好きだよ。だから、余ったら俺も喜んで食べさせてもらう。……そうだ、もうずいぶん遅い時間だけど、ファイレィさんは腹が減ってないか? 食事の用意をしようか」

「いえ、先に行商人から伝えた通り、私の食事はおかまいなく。今日は荷ほどきをして、日誌をつけたら休もうと思っています」

「そうか、夜遅くまでお疲れさま。俺も手伝おうか」

「ええ。あなたは私のお目付け役ですからね。良くない物を持ち込んでいないか、どうぞ見ていてください」

 イェンジーは喜んで引き受けた。この人は俺の知らないものをたくさん持ってきているのだろう。そう思うと荷ほどきの手伝いがとても楽しみに思えた。

 光尸猫が、玄関からずっと見ている。それはしばらくすると、明るいこの部屋にむかって走ってきた。そしてファイレィのために用意した布団の上に座って、一声にゃあと鳴いた。

「わ、とても人懐っこい光尸猫ですね。海士砦の光尸猫はみんなこうなんですか?」

「ううん、うちのは変わってるよ。よそでは籠に閉じ込めないと、明かりの役に立ってくれないんだって。まあ俺は夜に用事もないから、閉じ込める理由はないんだけど」

 眠り海月のような瞳をかがやかせて、ファイレィは興味深そうに相槌を打ってくれる。それが嬉しくて、この家憑き光尸猫について、イェンジーは思い当たることを続けて話した。父の幼少期から家に憑いていること、新鮮な生魚が好物であること、他の家のものと違ってネズミを捕るのは上手くないこと。……この集落では誰に語る当てもない、くだらない話だ。それが誰かの役に立っていることが、イェンジーは嬉しかった。

 そうしながら、ファイレィの荷物を解いて、床や机に並べていった。それらはほとんどが紙や本だった。読み書きを習っていないイェンジーにとって、それらは未知を蓄えた宝物のように見えた。ファイレィ本人からもかすかに香る、墨水や糊のほのかなにおいは心地いい。気になったものについて、イェンジーは逐一説明を求めた。ファイレィは快く答えてくれた。

 夜遅くまで話は尽きなかった。こんなに長く誰かとお喋りしたことは、イェンジーにはなかった。柔らかなファイレィの声は、いつまでも聞いていたいとさえイェンジーは思った。


 幽鬼を研究するファイレィは、いつも日の出前まで起きているらしい。

 監視係のイェンジーも、寝起きを彼に合わせないといけない。日の出前といえば、今までのイェンジー、というかこの集落に住む多くの者にとっては起床時間だ。それでも、城市の研究員を泊めるという非日常的な出来事は、若い漁夫が眠気を忘れるには充分な刺激だった。

 その日、イェンジーは初めて徹夜で朝日を浴びた。昨夜、ファイレィの荷解きを手伝った後、すぐ自室へ戻って床についたはずなのだが……ギヤマンの硬筆に墨水を吸わせ、光尸猫が爪を研ぐような音で筆記する音が気になって、なかなか寝つくことができなかった。けしてうるさいとか、うっとうしいという思いはない。彼が何を考え、自分との日々をどう綴るのか、イェンジーはとても興味深かったのだ。

 やがて部屋の隙間から漏れる白い明かりが消え、ファイレィは眠りについたようだった。

「イェンジーさん」

 次に気がついた時には、すでに日が高く昇っていた。ふたりの部屋を隔てる薄い戸のむこうから、昨晩たっぷり聞いても聞き足りなかった、ファイレィの声が聞こえた。

「もうすぐ商人さんが見える時間なので、同行してほしいんです。……お体の具合でも悪いですか?」

「いやいや、大丈夫。今まで寝ていただけだ。あんなに夜更かししたのは初めてだったよ」

 起き抜けのまぶたをこすりながら、イェンジーは部屋の戸を開けた。開けながら、しまった、と思った。確かに昔、父母が隣室で寝ていたころは、目が覚めたらいつもそうしていた。しかしファイレィは他人だ。ほとんど寝ぼけているとはいえ、いきなり戸を開けるのはさすがに不躾だ。

「あ、おはようございます。ふふ」

 戸の先には、これもまたきめ細かい、白い襦袢に身を包んだファイレィが正座していた。目が合った一瞬の微笑みが、どうにもイェンジーは忘れられなかった。ごめん、と咄嗟に口にすると、ファイレィは笑って小さく首を横に振った。

「イェンジーさん。着替えて、いっしょに出かけましょう。急ぎではありませんので、ゆっくり支度してくださいね」

「わかった。……ああ、朝に腹は減らなかったか。稗と蛤の汁が台所に残っているんだ」

「私もさっき起きたばかりですよ。幽鬼の研究員は皆、こんな時間に起きるんです。それに食べ物は商人さんから受け取らないと」

「そういえばそうだったな。城下の食事は楽しみだよ」

「あまり期待しないでください、新鮮なものではありませんから。その、蛤の汁の方がきっとおいしいと思いますよ。私もイェンジーさんのお料理、いつか食べてみたいです」

「いつかと言わず今日食べようよ。城下の食事も、どっちも食べたらいい」

「いえ……今日は遠慮します。この調査の間、寝泊まり以外の施しは、なるべく受けないよう言われているんです」

「……それは仕方ないなあ」

 そういう約束だった。どうしてそれを守った方が良いのか、イェンジーにも何となく理解はできていた。

 ファイレィは立ちあがり、昨日と同じ着物をまた羽織る。その着物はどういった物なのか、昨晩にイェンジーは尋ねていた。この海の反対にある、遠い国の貿易商が持ってきた布で作った衣服だと聞いた。その国にも行ったことがあるんですよ、と話したファイレィの目は、どれほど広い世界を見てきたのだろう。もっともっと話を聞きたいし、そのための時間はたくさんもらった。

 イェンジーは手早く着替えた。服なんて寝間着か、外で着るものかの区別しかなかった。

 そして二人で外に出る。住民たちの視線だけが心配だったが、一晩過ごしてファイレィが礼儀正しく、落ち着いた人物だとわかったので、彼を嫌がる住民がいても、自分は堂々としていればいいのだ。

 遅くに目覚めて外に出ると、太陽が目に沁みる。そんな些細なことも、今日までイェンジーは知らなかった。かつて父母が使った部屋と、イェンジーの万年床の間を分かつ薄い戸は、開けたままにしておいた。


 停留所まで歩いているうちに、何人かの住民を見かけたが、みんな遠巻きにイェンジーたちを眺めているだけで、いつものように挨拶をしてくることはなかった。研究員の来訪に反対しなかった若者たちも同様だったのが、イェンジーは少し寂しかった。

「もう来ていたのか」

「いつの間に、気味が悪い」

 そんな風に、おそらくファイレィに聞こえるようつぶやいているのが恥ずかしかった。

「ごめん、みんな君が珍しいみたい」

「大丈夫です。予想よりもマシでしたよ」

 俺は君みたいな人が来てくれたら、駆けよって歓迎するのに。俺はもしかすると変わり者なんだろうか。……イェンジーはそんなことを思うけれど、どうも言葉にできなかった。

 行商人の車の周りには、いつも通り漁夫や買い物客が来ていたが、ふたりが近づいていくと少しずつ離れていった。

「イェンジーさん、そしてファイレィさん。一日目は大丈夫でしたか」

「ええ、平気ですよ」

「それは良かった。あとの荷物と、食事はこっちです」

 商品の積まれた荷台の端に、ひとかかえほどの大きさの、麻の包みが置かれている。ファイレィは行商人に礼を言ってから、それを手にした。少し重そうだ。

「ファイレィさん、俺が持とうか」

「いえ、結構ですよ。ありがとうございます。イェンジーさんこそ、行商人さんに何か用事はありませんか」

「俺は漁にも行っていないし、特にないよ」

 そう話している間にも、周りから人の気配が消えていくのがわかる。生まれた時からいっしょだった集落のみんなが、こんなによそよそしい態度になるなんて思わなかった。そしてふたりは、戸口の陰などから視線を感じながら、また引き返した。

 もうすぐ家に着くくらいのころ、誰かが後ろを歩いている音が聞こえたので、イェンジーはそちらを向いてみた。

「やあ、ウェイ爺さん」

 いつも通り、イェンジーは挨拶する。ウェイ老人は、どうにも暗い顔をしているように見えた。

「……はじめまして、こちらのお家にお世話になっています。ファイレィと申します」

 ちょっと緊張した様子で、ファイレィも丁寧に頭を下げた。薄布の羽織がふわりと舞う。

「ほら、感じのいい人だよ。大丈夫だよ」

 イェンジーはそう続けるが、ウェイ老人の表情は晴れない。

「どうなんだか。所詮は……」

「ああ、そうだ。外に出たついでに、これを持って行くんだった」

 つとめて楽しそうな態度で、イェンジーは走って自宅の玄関に走る。そして昨日受け取った、花飴の箱を持ってきた。

「イェンジー、何を受け取ったんだ」

 ますます険しい顔になるウェイ老人の前で、イェンジーはふたを開けて見せた。

「飴だよ。ほら、きれいだろう」

「食べたんか」

「いや、長の家にこれから持って行くよ。ここの子どもたちへの手土産だ。ファイレィさんも、荷物を置いたらいっしょに行こう」

「ええ、ではそうさせて……」

「待て」

 ウェイ老人は強い語気でふたりを止める。

「どうかしたの、爺さん」

「イェンジーや。もう前の研究員が、長の家で失礼なふるまいをしたのを忘れたのか」

「忘れたわけじゃないけど、その人とこの人は別じゃないか。それに今度は俺がついてるから……」

「城市の人間は口が回る。人のいいイェンジーはすでに言いくるめられてるんじゃないか」

「だとしても、何かあったら止めるくらいはできるよ。俺がそんなに信用ならない?」

 さすがにイェンジーも気分があまり良くなかった。箱のふたを閉めて、ウェイ老人の目をじっと見る。すると彼はこう提案してきた。

「……それならわしが、長にその手土産を届けよう。本当に長の家で何かしようというのでなければ、構わないよな」

「ああ、そうか。そんなに心配なら、それがいい」

 味わったことのない、ぴりぴりとした嫌な予感を覚えるイェンジーだったが、それを言葉にするまでもなく、ウェイ老人は箱を手にして長の家がある道の方へ消えてしまった。

「……渡してしまったんですね」

 しばらくして、ファイレィはそうささやいた。

「うん。だから帰ろう」

 イェンジーは、今はこうすることが一番正しいと思っていた。それでもファイレィが残念そうに目を伏せていたことが、やけに心に引っかかった。


 台所の鍋に残った汁は、明日の朝には食べ終わらないと、涼しい季節とはいえ痛んでしまう。

 黒角炭に火をつけ、イェンジーは鍋が温まるのを待った。そして汁を椀に移す。しばらくはこういった、この海で獲れた魚介を使った料理は作れないのだろうか。そんな期間も、この集落で暮らしている他の者には訪れない。そして、それは面白いことだとイェンジーは思っている。

 椀を持って居間に戻ると、竹の飯籠をふたつ、食卓の上に並べながらファイレィが待っていた。

「やあ、おまたせ。粗末な食器しかなくてごめん」

「とんでもない。貸してくださって助かります」

 ファイレィは行商人から受け取った包みに入っていた、アルマイトの水筒をかたむける。かつてイェンジーの父母が使っていた、竹を切り出して塗っただけの、ささやかなふたつの湯飲みに茶を注いでいく。

「いい香りだな。城市の茶は何を煎じているんだ?」

「行商人さんが売り出しているものと変わりませんよ。ただ、茶葉をすぐに加工せず、発酵させてから煎じているんです」

「へえ、色も香りも、こんなに変わるんだなあ。味はどっちがおいしいんだろう」

 包みの中には、いくらかの冊子と、三日分の食べ物、アルマイトの水筒、さらに噛みつき河豚の浮袋のような容器に詰められた水が入っていた。かなり重たかっただろう。ファイレィの白い腕は非力そうに見えるが、昨日の夜も大荷物を持って山を下りて来たし、意外と力強いのかもしれない。

「じゃあ食べようか」

「はい、いただきましょう。質素なものですので、イェンジーさんのお口に合うといいんですけど……」

「俺は何でも食べれるよ。楽しみだな」

 イェンジーは飯籠のふたを開けた。薄い板の形に焼いた穀物、薄切りにして油で揚げたと思われる何種類かの野菜、それから四角い缶詰がひとつ入っていた。

「なるほどなあ。こういう食事なら腐らないんだ」

 感心しながら揚げ野菜を一枚口に放りこむ。甘塩っぱい、なめらかな芋の味がする。

「うまい。これなら飽きずに食べれそうだ」

「ああ、良かったです」

「これはどうやって開けるのかな。なにぶん缶詰はあまり食べないからね」

「それはですね、えっと。見ててください」

 ファイレィは自分の飯籠にあった缶詰を卓上に置いて、イェンジーによく見えるようにしてそれを開けて見せた。そのとたん、濃い味付けの、肉のにおいがただよってくる。

「ここを持ち上げて、引っぱるんだね」

 同じようにして、イェンジーも缶詰を開けることができた。

「煮込みか。おいしそうだ。肉なんて、久しぶりに食べるなあ」

 四角く一口大に切られた、箸でつまむと崩れそうな牛肉を頬張る。肉だけでなく、たくさんの野菜や調味料の味が複雑にする。

「いかがでしょうか」

「これもうまいよ。……俺はさ、正月くらいしか飲まないんだけど、なんだか酒が欲しくなる味だ」

「では今度、行商人さんに発注しましょうかねえ」

「いいのかな……」

「私しかいないんですから、私が良いと言えば構わないじゃないですか。そのかわり、私にも少しいただけませんか?」

「それはもちろんだ。君と酒が飲めるなんて、願ってもない」

 良い約束ができた。イェンジーは心底嬉しかった。照れくさく笑ってしまいそうな口元を隠すように、椀を持って、稗と貝の汁をすする。そうして、おや、と小さな声を出すイェンジー。

「どうしました?」

「大したことじゃないんだけど、この乾いた餅みたいなもの、貝の汁といっしょに食べるとうまいなあ」

「そうなんですね。それは精製した雑穀を煎ってから、米粉でまとめて素揚げにしたものです。城市ではよく売っていますから、行商人さんに注文することもできますよ」

「……ファイレィさんは、食べちゃいけないんだよなあ。ここの料理」

「そうですね……でも良いことを聞きました。市場には海士砦の魚介も売っていますから、それを使っていつか作ってみたいですね」

「じゃあさ、この汁の作り方、君に教えさせてくれよ」

 イェンジーは気がつくと前のめりになって、優しく笑うファイレィを見つめていた。

 食事がこんなに楽しく感じたのはいつ以来だろう。少なくとも父母がいなくなってからは、ありえない気持ちだった。夢中になっていると、少しずつ日が落ちていくのが、部屋の中からも感じられる。昼前はずっと寝ていたから、まだ少しも疲れていない。海士砦はもうすぐ眠りにつくが、幽鬼の時間はこれからである。

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