第28話 弟子入り
食後の茶を飲むと、弥五郎が立ち上がった。
「よし、剣弥。午後の仕事だ」
「はい!」
剣弥は弥五郎の後について岩場の生簀まで歩くと、他の漁師達も続々と集まった。
「よし、締めて佐久島に売りに行くか!」
各自刃物を右手に持ち、生簀から網で魚をすくい、慣れた手つきで魚を締めていく。生きたまま持って行った方が良さそうに思うが、締めて血抜きをする事で鮮度を保てるらしい。
剣弥も刃物を受け取っているが、全く要領が掴めない。あたふたと周りを見る事しか出来なかった。
「剣弥にはゆっくりと教えねぇとな! 初めてなんだ、分かる訳ねぇよ」
売り捌くだけの魚を締め終わり、三分の一の八人が佐久島まで売りに行く。今日は弥五郎も売りに行く日らしい。
「剣弥、お前も来るか?」
「その事なんですが……実はあまり佐久島に戻りたくない事情がありまして……」
「そうなのか? 何か悪い事でもしたのか?」
意気揚々と佐久島を出ると言ってしまった手前、割と知り合いの多い町に戻るのは気が引ける。
「地引き網も魚を締めるのも手伝います。が、佐久島へ売りに行くのは勘弁してもらえませんか……? もちろん売ったお金は要りません。二人食べる分だけ頂ければ」
皆首を傾げるが、事情がある事は分かってくれたらしい。
「金は要らねぇって言うが、おめぇにも生活があるだろ」
「あぁ、貯えはあるのでご心配なく!」
「まぁ……少しは渡すよ。全く無いってのもな」
「いやいや、本当にご心配なく!」
こうして佐久島行きを免れ、毎食の魚を手に入れる約束を取り付ける事には成功した。
新しい自宅に帰り、空の桶に水を汲もうとシズに場所を聞く。海水を飲む訳にはいかない。
割と距離はあるが、徒歩圏内だ。
どういう仕組みなのかは知らないが、どこからか井戸に水が流れてくるらしい。高低差を利用した方法なのだろうか。考えて分かるほど剣弥の頭は良くはない。
弥五郎達が掃除をしてくれているとはいえ、数日前の事だろう。家中を更に綺麗に拭き上げた。夜布団を敷くにも問題ない。
土間にある七輪を弥五郎の家に持って行く。魚を焼くにも二つの七輪の方が効率がいい。
佐久島では外食ばかりで、長屋で自炊をした事はなかった。サチは土間にある釜などの使い方をシズから教わっている。任せろと言った言葉に責任を感じているのだろう。真剣な顔でシズの話に耳を傾けている。
そうこうしているうちに、弥五郎が帰ってきた。
「おう、サチはシズに弟子入りしたか」
弥五郎はそう言うと、剣弥を手招きした。
「なら俺は少し剣弥を見ようか」
そう言って土間に立て掛けた木刀を手に取った。剣弥もサチから木刀を受け取り、弥五郎の後に続く。
浜辺から離れるように少し歩き、集落を抜けて五分程歩いただろうか。木々が茂る開けた場所に着いた。
夏の陽射しを程よく遮断してくれる木の幹には、胸から頭の高さ辺りに打込みの跡が見て取れる。
「なるほど、ここが弥五郎さんの修練の場ですか。いつもお一人で?」
「あぁ、いつ誰に挑まれるか分からない世界だ。一人でやれる事には限界があるけどな。剣弥が弟子に志願してくれて、少し有難いってのが本音だ」
弥五郎は、自分の為に剣を振るう事は無いと言っていた。一刀斎の名を守る為だけに、ここで腕を落とさないよう鍛錬を積んでいるらしい。
「シズさんとは組太刀稽古をしないんですか?」
「なんだと……? シズが剣を使える訳が無いだろう」
弥五郎は知らないらしい。夫として接している手前、当然の事かもしれない。剣弥も知らなかった事だ、人の事は言えないが。
「いや……シズさんは恐らくオレより強いんじゃないかと」
「おかしな事を言う奴だ。そんな訳ないだろ」
「帰ったらシズさんに一ツ勝でも打ち込んでみてください。オレの言いたい事が分かりますから」
弥五郎は怪訝な表情を浮かべたが、帰って確かめてみようと言い、話を終えた。
「しかし良い木刀使ってるなぁ。黒檀とはな」
「あぁ、藩主様に貰ったんです。前の本赤樫のはヒビが入ってしまったので」
「藩主とも繋がってるのか? よくこの短期間でそこまで……まぁそれはいい。正眼で向かい合うか」
そう言って弥五郎は右足を軽く前に出すと、両手に持った木刀を前方に突き出し、正眼に構えた。剣弥も静かに木刀を正面に構え、互いにおよそ三メートルの距離で対峙した。
弥五郎が薄く開いた目をキッと開き、剣弥を睨みつける。
凄まじい気魄を浴びた剣弥の全身が
――武蔵と同等……さすがは天下の一刀斎……。
負けじと剣弥も弥五郎の目を睨み返す。
武蔵と同等の気魄を前に怖気付く事は無い。強敵とも立ち会ってきた。真剣勝負の経験も積んだ。この数ヶ月で胆力が鍛えられた証拠だ。
剣弥は自身の成長を感じていた。
弥五郎はスッと構えを崩し、木刀を静かに下ろした。
「良く分かった。とりあえず座って話そうか」
そう言われて剣弥は戸惑った。
何せまだ正眼で向かい合っただけだ。それだけで分かったと言う。言われるがままに隅に置かれた輪切りの丸太に腰掛けた。
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