第22話 今
「シズ、帰ったぞ!」
シズとサチは板敷に座り、茶を啜っていた。
「あら、そんなにご機嫌でどうなさったの?」
「ご機嫌……? そうか?」
弥五郎は、自分の顔を右手で触りながらそう答えた。
さっきの剣弥との話の中に、嬉しい知らせがあったのかもしれない。おそらく、生前のシズとの愛の結晶がいた事ではないだろうか。しかも、その子は自分の弟子だった。
「剣弥が近々この辺りに越して来る事になった」
「サチに相談もなく決めたけど、いいだろ?」
「あぁ、毎日あんなに美味い魚が食えるなら大歓迎だ」
サチはシズと向かい合い、両手を合わせて喜んだ。サチは意外とコミュニケーション能力が高いのかもしれない。生前のサチがそうだった。
「じゃ弥五郎さん、オレ達は佐久島に戻りますね」
「あぁ、またな。いい話聞かせてくれてありがとな」
弥五郎とシズに見送られ、帰路に着いた。
今日はたっぷりと汗をかいた、二人で湯屋に行き居酒屋で食事を摂る事にした。明日の予定は、午前中の剣術指南と夕刻前の謁見だ。二日酔いにならない程度に抑えよう。
綺麗さっぱり汗を流した身体に、浴衣の肌触りが心地よい。月丹達とよく行った居酒屋に足を運ぶ。主人とも顔見知りだ。
「いらっしゃい! あら、今日は三人じゃないのかい?」
――三人……?
「あぁ、二人で頼むよ」
草履を脱ぎ、二人で向かい合うように座ると、いつものお気に入りを肴に、一献傾けた。風呂上がりの身体に染み渡る。
「本当にボタンの記憶は皆から抜け落ちてるんだな」
「あぁ、今となってはあの辻斬りも河上彦斎一人の仕業だ」
何とも不可解な話だ。
剣弥はこの世界に来てからの疑問を投げかけた。
「なぁ、オレと月丹や武蔵、弥五郎さんもそうだけど、死んだ時期が全く違うだろ? なのにほぼ同時期にこの世界に来てる。この世界は何なんだ? ここも仮想現実の世界だって言ってたな」
サチはお猪口を傾けながら頷いた。
「まず、ケンヤがいた世界の全ては『予定調和』だ。お前が生まれることも、全ては決まっていた事だ。ケンヤだけじゃない、全ての人間は生まれるべくして生まれた。誰を両親に持つか、誰を兄弟に持つか、全て予定調和だ」
おもむろにスルメを左手で摘み、咀嚼しながら続きを話し始める。
「お前らの言う、過去や未来なんてものは無い。地球という仮想現実の世界、全ての時間軸で起きた事はすぐに共有されるんだ。例えば、刀鍛冶が刀を打てば、その時間軸から先はその刀が存在するよう
聞いてもさっぱり分からない。あまりにも難しい話に、逆に酒が進む。
サチは一献飲み干してから、更に難解な話を続けた。
「ただな、この世界は違う。一本の時間軸で形成されている特殊な世界だ。だから過去が存在する。今アタシ達が酒を飲んでる『今』から見れば、月丹が殺されたのは『過去』の話だ。だから『未来』は誰にも分からない。まだ存在しないんだ」
分かったような分からないような話だ、剣弥は理解するのを諦めた。
これだけ聞いても分からない事がある。
「ボタンが皆の記憶から無くなるのは何でだ?」
「最初にも言ったが、アタシ達はお前らの案内の為に創られた存在だ。五感もあるし感情もある。教われば学習もする。だが、どこまでもお前らのコピーに過ぎないんだ。特殊な能力も与えられてるしな。だからお前が死ねばアタシも消えてなくなる。この世界に、アタシ達を留めておくような容量は設けられてないって事だ。ただ、ケンヤの記憶にボタンが残っているって事は、お前らはこの世界ではそれだけ特殊な存在だって事だ」
自分のコピーでしかない存在。自分の案内の為に創られ、生前の好みで形成された存在。
一刀斎は、生前に唯一愛した女を模したシズと共に、夫婦のような生活をしている。彼にこの世で成り上がろうという気概はない。ただ、愛した女と共に生きたいという思いだけだ。
「例えばだけど、オレとサチの間に子は出来るのか?」
それを聞いてサチは眉間にシワを寄せ、怪訝な表情で剣弥の顔を覗き込んだ。
「お前は……アタシとの子が欲しいのか……?」
「いや、そうじゃない。弥五郎さんはシズさんと夫婦の様な生活をしてるだろ? この先、子が出来るのかと思っただけだ」
サチは質問の意図を理解し、眉間のシワを戻した。
「なるほどな。結論から言えば、子は出来ん。勿論そういう行為は出来る。が、子が出来る様には創られていない」
「そうか。シズさんは弥五郎さんを亭主の様に思ってるのか?」
「そうだな、話してる限りそう感じたな」
思えば、剣弥とサチの関係も最初から見れば、少しづつ変わってきている。剣弥に対して笑顔を見せるようになったし、よく喋る。剣弥が落ち込めば慰めようとする。サチには好物もあれば嫌いな物もある。完全に一人の人間だ。
サチが変わってきた理由の一つに、剣弥が変わった事もあるのかもしれない。
生前、老齢で過ごした剣弥と、この世界を若い身体で過ごしている剣弥とでは、考えが異なって当然だ。この数ヶ月で二人の信頼関係は構築され、意思の疎通がスムーズになっている。
パートナーとしての関係は、確かに夫婦に近いのかもしれない。
「弥五郎さん達の関係も、この世界を生きる上で間違いじゃないのかもな」
「あぁ、この世界に来た目的も、どう過ごすかも、人それぞれだ」
互いに酒を注ぎ合い、一献飲み干す。
「まぁ、あれだ……前半の話は殆ど理解出来なかった」
「心配するな、お前が特別頭が悪いって訳じゃない。理解して生きているヤツなんていないからな」
難しい話を理解しようと、かなり頭を使った気がする。よく眠れそうだ。
いつの間にか徳利が五本空いている。明日の事を考え、居酒屋を後にした。
ほろ酔いの二人は、明るい月の下で腕を組んで歩いている。剣弥は生前の妻とのデートを思い出していた。
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