第18話 河上彦斎


 薄暗くはなってきたが、まだ西の空は明るい。対峙する二人を他所に、相変わらずひぐらしの鳴く声が辺りに木霊している。

 

 剣弥はそっと刀を抜き、右足を引くと同時に顔の右横に立てた。八相の構えだ。

 目の前の異常者は、静かに右手を刀の柄に掛け、ジリジリと近づいてくる。


 ――抜刀術か。


 河上彦斎の流派を知らない。対策できることは何一つない。瞬きすら命取りだ、体全体を目にして最大級の警戒で迎え撃つ。

 

 ――こいつに月丹は殺られた……必ず仇を討つ。

 

 内に潜めた狂気を載せ、目の前の小男を睨みつける。

 彦斎は相変わらず不気味な笑みを浮かべ、小柄な体躯をさらに沈める。異常者の異質な狂気が、体全体にまとわりつく様な不快感を覚えた。


 剣弥との身長差は30cmはあるだろう。ただでさえ背の低い体をさらに低く構え、全く刀の出処が読めない。

 ただ、剣弥の高い身長が不利に働いているかと言えばそうではない。高い位置から見下ろす事で視野は広い、いくらでも対処する事は可能だ。


 八相の構えは、前原一刀流では『陰の構え』と言う。上段や正眼よりも疲れにくく、さらに疲れにくい下段よりも機敏に動けるという利点がある。

 相手は刀を抜いてすらいない。重心を落とし、急な動きに備える。


 彦斎は低い重心のまま、左方向に移動したかと思えば後退するを繰り返す。剣弥も合わせて左方向へ移動し、二人で円を描く様になかなか互いの距離は縮まらない。

  

 埒が明かない。そう思った矢先だった。

 彦斎は更に沈み込み、爆発的に地を蹴った小柄な身体の下から逆袈裟に刀が振り上げられた。

 地を這う様な位置からの斬撃に不意を突かれた格好だ。が、剣弥は冷静に左足を強く蹴り後方に飛ぶと、彦斎の逆袈裟斬りは虚しくくうを斬った。

 振り切った刀を見送った後、剣弥は袈裟斬りに斬り掛かる。彦斎は後方に倒れ込むように大袈裟に転がり、膝を着いて切っ先を剣弥に向けて止まった。


 彦斎の地を這う様な抜刀斬りは、恐らく我流だ。小柄な体躯を活かした他流派には無い角度からの逆袈裟斬りに反応出来ず、斬られた者は数多あまたいるだろう。

 剣弥の異常な動体視力が勝利した。彦斎の顔には明らかな狼狽の色が見える。彦斎は立ち上がり、正眼に構え直した。

 今まで逆袈裟斬りで全てを斬り伏せてきたのだろう。構えた刀の奥にある顔が酷く歪んでいる。目は泳ぎ、唇を噛み締めている。


 剣弥は陰の構えから、右足を軽く前に出し正眼に移行した。切っ先を彦斎の胸辺りに向けるが、相手の背の低さから下段に近い構えになった。

 狼狽える彦斎とは対照的に、剣弥はどこまでも冷静だ。息を細く吐き、更に眼光鋭く彦斎を睨みつける。

 

 ジリジリと下がる彦斎、それを追う剣弥。相手の肩は大きく上下し、息遣いは荒い。

 彦斎は剣弥の刀を、上から力任せに押さえ込もうとする。その度に剣弥の刀は相手の刀上に浮上する。

 右に抑えれば左から浮き上がり、左に抑えられれば右から浮き上がる。まるで水面に浮く丸太のように相手の力を受け流す。


 前原一刀流 浮木うっき


 彦斎の顔に苛立ちが見えた所で上から刀を弾き、体勢を崩した相手に向け鋭く突きを繰り出した。

 両手に伝わる確かな手応え、剣弥の刀は彦斎の胸を貫いた。


 彦斎の両手から刀が落ち、地面を鳴らす。事切れた小柄な身体から刀を引き抜くと、ドサリと前屈みに倒れ込んだ。


 後ろで成り行きを見ていた従者の男は、足元から霧の様に消えていった。

 サチは無言で剣弥の肩に手を置いた。静かに振り向き、血の着いた刀をサチに手渡す。

 無造作に投げ捨てられた月丹の刀に近付き、拾い上げた。


 ――月丹……仇はとったぞ。


「サチ、これから月丹の打刀を使うか? オレは脇差を使わせてもらう」

「あぁ、そうさせてもらうよ」


 この世界で初めて出来た友。

 そして、その友の助言が無ければ、河上彦斎に勝ててはいなかっただろう。月丹の教えを忘れない為にも、彼の脇差を腰に差しておきたい。


 サチが手入れを終えた白波左門を鞘に納め、月丹の脇差を腰に差す。

 彦斎の刀を回収しサチに渡すと、遺体の移動を依頼する為に番所へと歩みを進めた。


「ケンヤ、お前『オレ』って言ってたな」

「あぁ、オレはもう老衰で死ぬ前のジジイじゃない」

「そうか。そのナリだ、そっちの方がいい」


 辺りは既に暗くなっている。サチは取り出した提灯に火を入れた。

 勝利はしたものの、友の無念を思えば手放しに喜ぶ事は出来ない。揺らめく炎が照らす二人の顔に笑顔は無かった。



 ◇◇◇



 次の日、佐久島中に辻斬り討伐の噂が瞬く間に広がった。多くの者を斬り殺した河上彦斎は晒し首となり、町民達の誹謗の的となった。


 剣弥とサチは百地に呼ばれている。

 言われる前に刀を預けると、酒井は不揃いの大小を見て剣弥に声を掛けた。


「これは……辻の脇差か」

「はい、友の意志を継ぎたいと思いまして」

「そうか、では良い鞘師さやしを紹介せねばな」


 剣弥の鞘は黒色、月丹の鞘は濃い朱色だ。二本腰に差すと確かに違和感は拭えない。酒井の紹介なら間違いないだろう。


「はい、是非お願いします」


 百地の居室の襖が開かれ、中に入る。

 真っ直ぐな眉の下の目はにこやかだ。口元も綻んでいる。促され、二人で胡座をかいた。


「お前ならやってくれると思ってたよ。流石だ、前原」

「辻と従者のサチのお陰です。オレ一人の勝利ではありません」

「そうか、互いに切磋琢磨してたもんな」


 二、三会話をした後、百地は姿勢を正した。


「お前らを呼んだのは辻斬り討伐を労う為だけじゃない。柊様から謁見を許された。お前ら二人を連れてくる様に言われている」


 佐久島藩主との謁見。

 意外な申し出に、剣弥はサチと顔を見合わせた。

 

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