第15話 百地清秀
百地は温厚で理想的な上司だと思っていた。
だがその実は、とんでもないパワハラ上司だった。いや、この世界の常識は知らないしどうでも良い。ただ、この男の下には付きたくない。断って心底良かったと剣弥は安堵した。
背は剣弥より低く、175cm程だろうか。
木刀を握った
そんな事よりも、この異常なまでの気魄だ。
高く突き上げた上段の構え。攻撃的な構えであるにもかかわらず、一片の隙も無い。腕の間から覗く顔は不気味な笑みを浮かべ、こちらを怖気付かせるほどの狂気を孕んでいる。
――強い……。
ただ家柄だけで上に立つ男ではない事がひしひしと伝わってくる。先程の部下への言葉が自分の強さへの自信であることは、対峙している剣弥が一番感じている事だ。
――これは気を引き締める必要があるな。
右足を後ろに引き、木刀を右脇に構える。
お互い構えた時点で既に駆け引きが始まっている。脇に構えて動くかどうか、動いたところでどう対処するか。
互いの距離は四メートルほどか、容易に飛び込める間合いではない。ただ、不気味すぎて近付けないでいる。
剣弥は更に左足を右に移動し、更に身体を捻る。相手に対し刀を隠すように構えた。
百地の眉がピクリと動く。緩んだ口元が真一文字に閉じられ、空気がピリついた。
剣弥はそのまま左肩を突き出し、ゆっくりと前に進む。
間合いが詰まると、百地は上段から一気に剣弥の左肩を目掛けて木刀を振り下ろした。同時に後ろに隠していた木刀を、百地の太刀筋に被せて振り下ろす。
乾いた音が道場に鳴り響き、木刀を切り落とされた百地は後ろに下がる。それを追い剣弥は一気に突きを繰り出すが、百地の木刀に弾かれやむなく下がって正眼に構えた。
高上極意五点の太刀
伊藤一刀斎が、師である
だが、流石は百地。返しを捌かれ振り出しに戻された。互いに正眼で向かい合う。
ふと百地の顔が緩み、木刀を右手に両手を上げた。
「ハッハッ、さっきの突きには肝を冷やしたね。流石だよ前原、思った以上の腕前だ。その気魄、痺れたよ」
「いえ……百地様こそ、ここまでの腕前とは恐れ入りました」
これは世辞ではない。
あのまま仕合っていれば、勝てたかどうか分からない。正直あの一手を弾かれるとは思いもしなかった。
周りの与力達は勿論、月丹ですら口を開け放心している。
「皆、分かったか? 人を舐めてかかるのはやめた方がいい。前原と辻、その従者からしっかりと剣の
「ハハッ!」
皆は急いで口を閉じ、返事と共に一礼した。
「じゃ、四人とも頼んだよ。夜の見廻り担当の割振りは事務方に任せてるから、よろしくね」
百地は酒井を伴い、手を振りながら去っていった。
ここは有名剣豪が集まるだけの世界ではないらしい。既存の剣豪もゴロゴロいるのだろう。
この藩には町奉行よりも上の立場の者も多くいる。あの方……単純に考えれば藩主、いや、更にその上かもしれない。もっと強くならなければいけない。
そんな事を考えていると、最初に右小手を打った男がバタバタと音を立てながら剣弥の前に膝を着いて額を床に擦り付けた。
「数々の御無礼! 誠に申し訳ございませんでした! 前原殿の剣の腕、感服致しました! 皆様、何卒よろしくお願い申し上げます!」
その声の後に、他の皆も男に続いて平伏する。その光景に、後ろに立つ三人と顔を合わせて苦笑いを浮かべる他なかった。
木刀を袋竹刀に持ち替え、四グループに別れての稽古が始まった。
彼らは四人の相手にはならなかった。正直稽古にもならない。剣術指南という役目柄当たり前の事ではあるが、正直物足りない。
ただ百地を含め、彼らの太刀筋には似通った物があった。当然百地とは比べ物にはならないが。
「よし、昼食にしましょうか」
各自弁当を準備して来ているようだ。
剣弥達四人は何も用意していない。別室に準備してあるらしく、最初に突っかかって来た男、水野が案内してくれた。
「こちらですわ、ご一緒させてくださいや」
十畳程の部屋に膳が並んでいる。白米に汁物と煮物、十分な昼食だ、ありがたい。
水野は隣で持参した弁当を食べている。
「水野さん、少し聞きたいんだが」
「水野で構いません、なんでも聞いてくださいや」
ここ佐久島には藩主が居る。この島は国なのだろう。色々聞きたいことがある。
「この国の事が分からない、ここには藩主様がいらっしゃるんだろ?」
「えぇ、藩主は『
羽織の背中に入っていた家紋の『丸に抱き柊』は藩主の姓から来ているらしい。
水野の話によると、ここから南西に位置する『
そしてこの国の剣は、将軍が修める『
北へ行けば坂松藩、佐久島藩を含めて五つの藩があるようだ。武蔵は南へ歩いていった。南北どちらへ進むかは、ここを出る時に決めよう。
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