3rd ep.ターニングポイント ①

 俺にはかつて夢があった。

「寒川、相変わらず素晴らしいラケットコントロールだな!」

「ありがとうございます、先生!」

 寒川俊哉、当時中学二年生。

 両親が元硬式テニス経験者という経緯けいいがあり、俺も小学生の頃にテニスをはじめた。

「この調子なら次のシングルスも優勝間違いないな!」

「まだ分かりません。慢心は敗北を引き寄せます」

「本当にストイックな男だな」

 少しの手抜きが奈落への入り口に変わるんだ。

 当時の俺はテニス部の絶対的エースで全国大会にも出場した。

 弟の龍介も俺の背中を追うようにテニスをはじめ、期待のホープと呼ばれるようになった。

 当時の龍介は俺をとても慕ってくれていた。尊敬していると言ってくれていた。

「俊哉、気張ってたわね」

「そういう稲本もいい感じだったじゃん」

 稲本は女子テニス部のエースで彼女の右腕から繰り出されるスマッシュは非常に力強く、その辺の男子に引けを取らない。

 ちなみに稲本をテニスに誘ったのは他でもない俺だった。


「ただいまー」

「おかえり、俊哉、龍介」

「今日も学校お疲れ様。晩ご飯できてるわよ」

「ただいま母さん。父さんも、今日は早かったんだね」

 家に帰れば家族の温かな団欒だんらんが俺と龍介を出迎えてくれた。

 両親ともに仕事が忙しくて家を空けることも多いけど、一家が揃った時はいつも全員で食卓を囲んでいた。

「今日もたくさん練習したね」

 龍介とも切磋琢磨し合って充実した毎日を過ごしていた。

 まぁ、勉強に関しては当時から苦手だったけど。


 時は流れ、中学三年生の秋――――

「寒川! お前に関東中央高校からスポーツ特待生の誘いが来ているぞ!」

 テニス部顧問が浮足立った様子で特待生の件を話してくれた。

「本当ですか!?」

「あぁ、やったな!」

「関東中央といえばテニスの強豪じゃないですか! すごいですね!」

「いやいや、必死にやってギリギリだよ」

「この野郎、謙遜けんそんしやがって!」

 顧問も含め、みんなが手荒く祝福してくれた。

 ひたすら練習の毎日で、この頃から稲本とは疎遠になった。

 テニスコートが男女で分かれている上にお互い練習場が離れているので会う機会は元々少なかったが、三年生になってからはほぼ話す機会はなかった。クラスも別だったしな。

 それはそうと――

(高校でも強豪の環境でテニスができる……!)

 プロを目指す身としては絶好の舞台だ。限界まで自分をいじめ抜いてやる!


「僕、宮下岳志。よろしくね」

「寒川俊哉だ。よろしく」

 岳志とは入学してすぐに友達になった。

「あら、俊哉」

「稲本……! お前も同じ高校だったのか」

 入学早々に見知った顔が声をかけてきたので少し驚いた。

「知らなかったでしょ。中学の頃の俊哉はテニスバカだったからね」

 テニスバカとはご挨拶だな。スポーツに情熱を注ぐ快男児かいだんじだぞ。

「腐れ縁もここまでくるとはな。お前、俺のストーカー?」

「ち、違うわよ! 私もテニスがしたくて入ったのよ」

 稲本は時たま面倒なところもあるけど、岳志も一緒に楽しい日々になると思った。

 ――――思ってた。


 しかし。

 順風満帆じゅんぷうまんぱんは長くは続かなかった。

 どうして運命ってやつは、順調な人間の人生に暗い影を落とすことするんだろうな。


 俺の人生の歯車が狂いはじめたのは、テニス部の強豪校である関東中央高校の男子硬式テニス部に入部してすぐのことだった。

「――いてっ」

 先輩のサーブを打ち返した際に肘に痛みが走った。

「大丈夫か?」

「園田さん。大丈夫です」

 当時、特に俺を気にかけてくれていたのが一学年先輩の園田さんだった。

「……ってっ」

 またもや肘の疼痛とうつうが襲いかかってきた。

「おいおい、マジで無理はするなよ。今日は安静にした方がいい」

「分かりました」

 園田さんのひと声でその日の部活は早退させてもらい、右肘を養生ようじょうさせた。


「まだ痛みが出るな……」

 翌日も、日常生活で肘を動かしたり物を持ったりする程度なら問題なかったが、ラケットでボールを弾く動作をすると痛みが走る。

「肘、まだ痛むのか?」

「ラリーの度に痛むんですよね」

「見た感じ異常はないんだけどな」

 園田さんは心配そうな面持ちで肘を確認してくれた。園田さんが患部を押してみるが、痛みは感じない。

「顧問に話して病院で診てもらった方がいいぞ」

「そうします」

 俺は顧問に状況を報告し、母親とともに病院へと向かった。


「んー、骨も筋肉も異常はありませんね」

「そんな……ラリーすると右肘が痛むんですよ」

「レントゲンにもMRIにも気になる箇所がないからなぁ」

 医師は困ったように頭を掻いた。

「骨か筋肉に軽度の炎症が起きている可能性があります。湿布を貼って一週間ほど様子を見ましょう。その間運動は控えてくださいね」

「はい、ありがとうございました」

 母親にならって医師に会釈えしゃくをして診察室を出た。

「一週間休めばよくなるわよ」

「そう、だな……」

 原因が分からないのが腑に落ちないけど、母親の言うとおり一週間患部を安静にすることにした。


「ただいまー」

「お帰り、龍介」

 中学三年生になった龍介はテニス部の部長として部を牽引けんいんしている。

「兄ちゃん、肘の具合はどう?」

「絶賛安静中だ。今のうちに休んで完全復帰してやるぜ!」

「それでこそ兄ちゃんだ!」

 龍介は嬉しそうに頷いた。

 復帰後は同級生との差を埋めるべく練習量を増やさないとな。


「痛ってぇ……」

「まだ、ダメか……」

 一週間安静にした末に満を持してラケットを握るも、痛みの程度は一週間前と全く同じだった。

「原因は分からないのか?」

「医者からは軽い炎症ではないかと言われました」

「参ったなぁ……」

 原因が分からなければ対処のしようがない。顧問は頭を掻いてうなっている。

「もうしばらく休むか?」

「もう一度病院に行ってみます」


 母親を連れて再診に向かったが――

「やはり異常は見つかりませんねぇ」

「……そうですか」

 医師もお手上げ状態だった。

「大学病院の紹介状書きましょうか?」

「いえ、結構です」

 精密検査をしたって原因は分からないだろう。

(なんなんだよ、マジで……)

 絶望的な状況に苛立ちが増してゆく。怒りをぶつける先も分からず、ただ溜まっていく。

「………………」

 母親はそんな俺を無表情で見つめていた。


「肘はまだ痛むのか」

「あぁ」

 その日の夜の食卓。

 早く帰宅した父親が肘の状態をいてきた。

「原因は未だに分からないんだろ?」

「あぁ……」

 俺の返事に怪訝けげんな顔の父親は口を開いた。

「――言いたくないけどさ、テニスがやりたくないから嘘吐いてるってことはないか?」

「そんなわけないだろ!? 高校だってテニスのスポーツ推薦で入ったのに」

 息子を疑ってるのか!? こちとらテニスに青春を捧げてるんだぞ!

「何度検査しても異常が見られないのはおかしいだろ。ラリーできないほどの痛みが出る症状なら、骨なり筋肉なりで異常が発見されるはずだぞ」

 それに関しては誰よりも俺がストレスに感じてるっつーの。

「俊哉。やりたくないなら無理しなくていいのよ。ただ、自分の気持ちに嘘をくのだけはやめてちょうだい」

 母親まで俺が嘘をいてると勘ぐっている。

「だから嘘なんかかないって! 俺が一番辛いんだから!」

 俺はついカッとなって両手をダイニングテーブルに叩きつけた。

 満足にテニスができない上に両親から疑いの目を向けられて、はっきり言って地獄だ。

「………………」

 龍介は食事を進めながら無言で俺たちの会話に耳を傾けている。

「自分の息子が信じられないのかよ!?」

「でもお前、日常生活は問題なく送れてるんだろう? そこそこ重い荷物だって持ててるじゃないか。ならなぜラケットを使った時だけ痛み出すんだ?」

「それは――分からない」

 俺が知りたいわ。分かる人がいたら是非とも教えてくれや。

「……はぁ。そうか」

 両親は揃って溜息をくと、それ以上は何も言及してこなかった。

「龍介はテニス順調か?」

「うん。大会が楽しみだよ」

「そうなのね。試合観に行くからね」

「俺も。期待してるぞ」

「ありがとう! 応援してね!」

(自分の家なのに、俺だけが場違いな感覚だ……)

 なんで、誰も俺の現状を理解してくれないんだ。俺は仮病なんか使っちゃいないってのに。

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