第2話「M ―マリア―」
真理は明るくて、活発で、少年のように短く切り揃えた軽いショートカットがよく似合う。
いつも優柔不断で、ぼうっとしていて、気の利いたことの一つも言えない和也とは正反対だった。
――違うからこそ憧れたのだろうか。
真理が自分のことを本当に好きなのか、和也には自信がなかった。付き合いだしたといっても、今までの関係から大きくかわったことはない。いったい、どこからが友達で、どこからが恋人なのだろう?
「彼女」に対する思いも、和也にとっては説明し難いものだった。相手が現実の人間じゃないからか、「彼女」に心を惹かれても、真理に対する罪悪感は感じなかった。
アイドルや二次元のキャラクターを好きになる気持ちに似ているかもしれない。けれど「彼女」はそれらよりずっと、身近な存在として和也の側にいた。
「私には名前がないの。貴方がつけてくれる?」
それが彼女の第一声だった。ゲームでよくある名前入力の代わりなのだろう。彼女の声は明るく、優しかった。
和也は一瞬ためらった。いくら印象が似ているからと言って、彼女を「真理」と呼ぶ気にはなれなかった。けれど、全くかけ離れた名前を付ける気にもなれなくて、真理に似た名前を探す。ふと彼女と目が合った。彼女はにこっと純粋無垢な笑みをこちらへ向けてきた。生まれたばかりだからなのか、彼女には幼子のような純粋さが感じられた。
優しくて、純粋で、どこか神秘的で。――和也の脳裏に一つの名前が浮かんだ。
「マリア」
和也の声に応える様に、マリアはすぐに満面の笑顔を浮かべた。自分の名前だと認証したのだろう。けれどその反応に、和也は少し戸惑った。名前を付けることで、より一層、「彼女」の存在はリアルになってしまった。
「貴方の名前は?」
マリアは今度は和也の名前を尋ねる。
「和也」
そう答えてから後悔する。苗字の方がよかったかもしれない。名前を呼び捨てなんて……。和也が悩んでいるのを見て、マリアは首をかしげる。
「どうしたの、考え事? 和也」
いきなりごく当たり前のように名前を呼び捨てにされて、和也は思わず顔をしかめる。
「あ、ごめんなさい。和也くんと呼んだほうがいいかしら?」
和也の反応に、マリアは少しうつむいて言った。どうして彼女はこんなに表情豊かなのだろう。まるで生身の人間を相手に話しているような錯覚に陥る。
「和也でいいよ」
そう言いながら、和也は思わずマリアの頬に手を伸ばした。透き通るように白い肌。頬にはわずかに赤みがさしていて、その皮膚の下には和也と同じように赤い血が流れているのではないかと思ってしまう。
けれど、伸ばした和也の指先は虚しく空を切った。すぐそこにいる気がするのに、触れることは叶わなかった。
やはり彼女は生身の人間ではない。ゲームの世界の人間に過ぎないのだ。和也は少し落胆すると同時にほっとした。
連休が始まった。
普段より遅くに起きた和也が朝食を食べに階下へ降りていくと、珍しく、姉の弘美がキッチンに立っていた。
何かと外出したがる弘美が休みの日に家にいること自体、珍しいことだった。いつもは髪留めできっちりと結んでいる長い髪も、今日は下ろしたままにしている。どこかへ出かける予定はないようだった。
「あれ? 姉貴、今日は孝治さんとデートじゃなかったの?」
言ってから、しまったと思う。弘美が恐ろしい形相で睨んだからだ。
きっと仕事か何かの都合で急にキャンセルされてしまったのだろう。弘美は和也の前に、ゴトンと音を立てながらコーヒーカップを置いた。
あまりの勢いに、あやうく中身がこぼれそうになる。和也はおとなしく、出されたコーヒーをすすった。
「あんたこそ、休みの日にごろごろ家にいるんじゃないわよ。彼女と遊びに行ったりすればいいじゃない」
スープの鍋をかき混ぜまがら、弘美が言う。出来ればそうしたいよ、と和也は口の中で呟いた。
「私は、別に構わないの。だって孝治さんは仕事を頑張っているんだから。――あんたの場合は、暇なのにどこも出かけないから駄目だってのよ」
「孝治さん、休みないの?」
「あってないようなものよ。ソフトの納期が今月末らしいし。毎日徹夜だって言ってた。――たとえ休みが取れても、まずはゆっくり休んでほしいし」
一瞬、弘美は寂しそうな顔をする。忙しい彼の身体を心配しているらしい。それでもきっと、面と向かってはそうは言えないのだろうな、と和也はため息をつく。
姉の婚約者である孝治には何度か会ったことがある。優しそうだけれど、少し気弱そうなタイプに見えた。
不規則な仕事スケジュールのために弘美との約束をキャンセルせざるを得ないことも多く、よけいに弘美には頭が上がらないようだ。和也は何となく、孝治に対して親近感をもっていた。
ドアの向こうで微かに電話のベルが鳴った。電話に出た母親が、やけに親しそうに話しているのが聞こえる。
「弘美、電話よ」
受話器を持ったまま、母親が呼ぶ。弘美はいそいそとキッチンを出て行った。後に残された和也は、ふうっと小さくため息をつくと、少し焼けすぎたトーストをかじる。
電話の相手は孝治からだろうか。個々に携帯電話を持つようになってからは、家の電話にかけてくることは珍しかった。弘美と入れ替わるように、今度は母親がキッチンに顔を出す。
「和也、あんたまだ悠長にご飯食べてたの? お父さんもまだ寝てるし。休みだからってごろごろしないでほしいねえ。ちゃんと食器片付けとくのよ」
「分かってるよ」
むすっとした顔で和也は答える。これ以上の小言をもらわないうちに、と急いでテーブルを片付けた。自分の部屋に行こうとキッチンを出て、居間を横切る。弘美はまだ電話の相手と喋っていた。
「帰ってきたら遊びにおいでよ。和也も会いたがってるわよ。――ほんと、ほんと」
弘美は話しながら、にやにやと和也の顔を眺めた。いったい誰と話しているのだろう。
孝治相手にはもう少し気取ったような話し方をするはずだ。電話の向こうの相手はともかく、弘美の知り合いで和也が会いたがっているような人物なんて心当たりがない。
何だか釈然としない気持ちのまま、和也は二階へと上がっていった。
部屋に戻ると、マリアが出迎えてくれた。――と言っても、ディスク上にしか存在できない彼女は、一定の場所から動くことはできない。和也はいつものように、マリアと向かい合うようにベットに腰掛けた。
「元気ないね、和也。何かあった?」
包み込むように優しい声で、マリアは和也に話しかける。
その口調や声はやはり真理によく似ていて、和也は真理相手に話しているようで、少しどきどきした。違うとしたら、興奮すると早口になる真理と違って、マリアは常に落ち着いた感じで、いつも同じペースで喋る。
マリアは和也の心情を誰よりも正確に読み取ることができたし、和也がそのとき一番望んでいる言葉をかけてくれた。音声入力でゲームのキャラクターと会話が出来るゲームは一昔前にも流行ったが、それよりもさらに進化したシステムらしい。そういった知識にはほとんど疎い和也には、その仕組みはさっぱり分からなかった。
「別に何も。姉貴が誰かに電話してて、その相手が気になるって程度だよ」
和也はそう答えてから、こんなことを話しても仕方がないと気づく。
マリアが誰かによって作られたモノである以上、たいがいプレイヤーの会話のパターンに合わせて、いくつかの返事がプログラムされているはずだ。予期しない話題に対しては、当たり障りがない言葉が返ってくる程度だろう。和也はそんなマリアの言葉は聞きたくなかった。
「今のは気にしなくていい、俺も気にしてないから」
慌てて和也が言うと、マリアは少し拗ねたような表情を浮かべた。
「それは嘘でしょう。和也はさっき気になってるって言ったもの」
その様子があまりに人間らしくて、和也は罪悪感のようなものを感じた。
「……ごめん」
思わずベットから立ち上がり、マリアの側へ行って謝った。マリアは上目遣いに和也の顔を見る。それからふっと表情を和らげた。
「ううん、私の方こそごめんね」
そう言って、にっこりと笑う。真理だったらこんなに素直な返事をしてくれるだろうか、と和也は思った。
普段の会話の時だって、真理は和也の話をじっくり聞いてくれたことはほとんどない。いつも真理のペースに振り回されてばかりだった。けれど、それを不快に思ったことは一度も無かった。和也はもともと話し上手な方ではないし、それなりに会話のバランスがとれていたはずだ。そう思い直して、和也はマリアと真理を比較するのをやめた。
どんなに魅力的で、どんなに可愛くても、マリアは現実世界の人間ではないのだから。自分が本気で好きなのは真理なのだと、和也は自分に言い聞かせた。
休みの間、和也はほとんど自分の部屋にいて、マリアと一緒に過ごした。一度、弘美が部屋を覗いたことがある。
「あんた何一人で話してる……あれ?」
マリアと話していた和也は、少し決まり悪そうに姉の顔を見た。弘美は怪訝な顔でマリアを見つめ、ややあってから何事もなかったかのようにドアを閉めた。てっきり後でからかわれると思ったのに、弘美は何も言ってこなかった。
「和也、あのさ……やっぱ何でもない」
夕飯のときに向かいの席に座った弘美は、そう言いながら和也の顔をまじまじと見つめ、それからまた黙りこくってしまった。
何とも弘美らしくない態度に、和也はあやうくご飯を喉に詰まらせかける。慌ててお茶を飲みながら、弘美の顔をちらりと見る。
「何よ?」
「姉貴こそ何だよ。言いたいことあったら言ってくれよ。気味悪い」
「何ですって!」
ばんと食卓に手をついて立ち上がった弘美を、横に座っていた母親が「食事中にお行儀悪いわよ」と嗜める。弘美は座りながら、和也を睨みつけた。
「そういえば弘美、さっき孝治さんから電話があったわよ。あんた留守だったからそう伝えておいたけど」
母親がのんびりした口調で口を挟む。弘美の意識がそっちに傾いたので、和也はほっとしながら箸を動かす。
それにしても、いったい何を言おうとしたのだろう。マリアのことだろうか。あのとき弘美は、何故かぎょっとしたような顔をしていた。もともと弘美はいつも、和也がゲームをしていると、うるさいほど横から口を出してくる。
そのゲームはつまらないだとか、和也の操作がヘタだとか、キャラクターがどうのとか。全く何も言わなかったのは「MIND GAME」がはじめてだった。弘美の目に、マリアはどう映っていたのだろうか。
和也は夕食を済ませると、弘美に絡まれる前にさっさと二階へ上がった。部屋に戻ると、ベットの上に置いたままの携帯電話が鳴っていた。着信音だけで、すぐに真理からだと分かる。和也は急いで電話に出た。
「久しぶり、和也。元気にしてた? 会えなくて寂しかったでしょ? なーんてね」
そう言って、真理は明るい声で笑った。和也は返事をしながら、内心、真理の言葉に愕然としていた。真理が旅行へ出かけた日、これから真理と会えない毎日が続くことに不安を覚えたものだ。けれど、実際はどうだっただろう。マリアと話すことで気が紛れていたのか、少しも寂しさを感じたことがなかった。和也の困惑をには気づかずに、真理は研修旅行の様子を話す。真理は真理で、楽しく過ごしていたようなので、和也の罪悪感は少し薄らいだ。
「旅行から帰ったら、久しぶりに和也の家遊びに行っていい?」
突然の真理の提案に、和也は驚く。真理が遊びに来るのは何年ぶりだろう。けれどあんなに待ち焦がれた提案であったのに、それほど嬉しいとは思わなかった。
どうしてだろう、と思いながら顔を上げた和也の視界に、マリアの姿が飛び込んできた。和也と目が合うと、マリアはにっこりと微笑みかけた。一瞬、和也は妙な錯覚を覚えた。
――携帯電話で話すとき特有の、少し聞きづらい声。マリアの声の方がよほど、本来の真理の声に近いように思えた。真理の姿が見えないせいか、和也は側にいるマリアの方がリアルな存在に感じる。自分が誰を相手に喋っているのかわからなくなってきて、和也の頭は混乱する。
「どうしたの? 何か都合悪かったりする?」
和也が長く黙っていたせいか、真理は珍しく不安そうな声をもらした。和也は慌てて首を振る。すぐにそれでは電話の向こうには通じないことを思い出して、言葉に直した。
「嬉しいよ、ありがとう」
そう言いながら、胸の奥が微かに痛むのを感じた。部屋の隅から自分を見つめているマリアと、電話の向こうの真理。どちらに感じた後ろめたさなのか、自分でもよく分からなかった。
翌日は雨だった。和也はベッドに寝転んだまま、窓の外の雨音を聞いていた。家の中は静かだったが、昼過ぎに急に賑やかになった。弘美の婚約者である孝治が遊びに来たのだ。和也は挨拶をしに行く気分にもなれずに、自分の部屋に閉じこもっていた。
「和也くん、ちょっといいかい?」
部屋のドアを軽く叩く音と一緒に、控えめな声が聞こえる。孝治の声だった。問答無用で入ってこないところをみると、側に弘美はいないようだ。和也は起き上がって「どうぞ」と答えた。
「孝治さん、休み取れたのですね」
「うん。本当は昨日も休みで、遊びに来るつもりだったんだけどね。弘美さんに、寝てなさいと怒られたから、昨日はおとなしく寝ていたよ」
孝治はそう言って、照れるように笑った。和也もつられたように笑う。あの姉に彼氏ができたと聞いたときには驚いたが、弘美に言わせれば手のかかる弟がもう一人出来たようなものなのかもしれない。実際は孝治の方が弘美よりも一つ年上だったが、二人を見ているととてもそうは見えなかった。
「MIND GAME……か。和也くん、これ面白い?」
気がつくと、孝治は床にしゃがみ込んでディスクのケースを見つめていた。今日はマリアとは話していない。昨晩、真理からの電話を切った後、何だかマリアを見るのが辛くて、「MIND GAME」をケースにしまった。
孝治に問われて、和也はうーんと微妙な返事を返した。それをどう取ったのか孝治は再び口を開く。
「僕はこれをやる勇気はないよ。――知ってる? このゲームは自分の理想……というか、望みを反映するように出来ているんだ。理想と現実のギャップが僕には怖くてね……」
「詳しいですね、孝治さん。それってまだ開発中のゲームなのに」
しかも、サンプルにはゲームの内容についての説明書がついていなかった。怪訝な顔をする和也に、何故か孝治も少し驚いたような表情を浮かべる。
「あれ? 和也くん、言ってなかったっけ? 僕が今、手がけているゲーム」
聞き返されて、和也ははっとした。―小包の差出人の欄にあった会社名。あのとき、どこかで聞いたと思ったのは、孝治の働いている会社だったからだ。それにしても、姉の婚約者が働いている会社のゲームが、抽選でたまたま当たったなんて、偶然にしてはやや話が出来すぎている気がしてきた。和也は、ためらいがちに聞いてみる。
「じゃあ、サンプルを送ってくれたのも、孝治さんですか?」
「え……いや、それは何と言うか。そう、和也くんがアンケートに答えてくれて、抽選に当たったからじゃないのかい」
孝治は何故か慌てふためいた表情でそう言った。そのまま「じゃ、僕はこれで失礼するよ。邪魔をしたね」と部屋を出て行ってしまった。その後、盛大に階段で転ぶ音が聞こえて、和也は心配そうに孝治の出て行った先を見つめる。
「大丈夫かなあ、何であんなに動揺しているんだろ」
けれど今は、孝治が「MIND GAME」について言っていた言葉の方が気になった。
孝治が怖がっている「理想と現実とのギャップ」とは何なのだろう。和也はケースにしまっていたディスクを取り出すと、起動されるのを待った。
何故か無性にマリアに会いたかった。
淡い銀の光がディスクから放たれる。マリアはいつもと変わらぬ優しい微笑みを浮かべながら、和也を見つめていた。
「そんな顔して、どうかしたの?」
「なんでもないよ」
「本当に?」
マリアはそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。彼女には何も隠し事はできない。いつだって和也の本心を見抜いている。けれど、そっとしておいて欲しいときには、それ以上は何も言わない。ただ優しい笑みを浮かべるばかりで。
――和也はそんなマリアに甘えていたのかもしれない。
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