M

秋初夏生(あきは なつき)

第1話「M  ―真理―」

見上げた空がまぶしくて、和也は思わず目を細めた。夏を思わせる強い日差しに、季節を忘れそうになる。


今はまだ五月。

――初夏と呼ぶにも少し早い季節だ。

空から少し視線をずらすと、薄紫色の房状の花が視界に飛び込んできた。ちょうど今が見ごろの藤の花だ。今年はいくぶん例年に比べて、咲くのが早いようだ。藤棚からいく筋も垂れ下がった花房が、ほのかな甘い香りを漂わせていた。


「遅いなあ、真理」

そう言って、和也は飲みかけのジュースの缶を握り締めた。乾いた喉を潤そうと、もう一口飲んでみたが、すでに中身はぬるくなりかけていた。

待ち合わせの場所に来て、どのくらいの時間が経っただろうか。

学校帰りにそのまま来たのだが、こんなに待たされるなら、一度家に帰ってもよかったかもしれない。

和也は制服の上着を脱ぐ。黒っぽい厚手の上着は、今日みたいな日には暑すぎた。和也の高校は移行期間が設けられているため、五月下旬の衣替えの季節にならないと夏服を着ていけないのだ。校則を作った人は、今年みたいな暑い年を考えていなかったのだろうか。私服登校が許されている真理の高校が羨ましかった。


藤棚の下のベンチから、広場を見渡す。

何組かの親子、犬の散歩をする人、ジョギングをする人。これだけたくさん人がいるのに、求める姿はそこにない。 


広場の真ん中にある噴水時計が、勢いよく水を吹き上げた。

水柱が立ったのは十二と三の位置。午後三時。約束の時間はとうに過ぎていた。

「ごめん、待った?」

噴水の向こうに、息せききって走ってくる真理の姿が見えた。大きなスーツケースを引きずっているのを見て、和也はベンチから立ち上がると、真理の元へ駆け寄った。

「重そうだな、駅までちゃんと運べるのか?」

和也は、真理のスーツケースに視線をやった。

「平気、平気。中身ほとんど入ってないから。―ねえ聞いてよ、私はスポーツバックで十分って言ったのに、お父さんが『これ持ってけ』って、こんな馬鹿でかくて真っ黒で型も古いスーツケース渡すんだよ」

真理は不満そうに口をとがらせながら言った。少し汗ばんだ額を、ハンカチでぬぐう。真理の栗色の髪が陽光に透けてきらきら光るのがまぶしくて、和也は足元に視線を落とす。真理のスーツケースが再び視界に入った。

――確かにそのスーツケースは、真理にはひどく不似合いだった。

ジーンズ生地のミニスカートに、明るい色のプリントシャツを着た真理には、本人の言うとおりスポーツバックの方が似合いそうだ。けれど、二週間という旅行期間の長さを思えば、スーツケースくらい必要かもしれない。和也がそう指摘すると、真理はしかめっ面をした。

――どうやら父親にも同じ理由で強引に持たされたようだ。

「それより暑いね、走って来たから余計かな。ジュース頂戴」

言うが早いか、和也が手にしたままだった缶ジュースを奪う。自分の飲みかけでいいのかと一瞬ためらった和也の気持ちも、ジュースのぬるさも、彼女は一向に気にしていないようだ。美味しそうに飲み干す真理を見て、和也はそっとため息を漏らした。


――高校で特別英語コースを選択している真理は、今日から語学研修でヨーロッパへ旅行に行く。

真理に言わせれば「たかが二週間で語学力が身につくものかな。どうせなら一カ月くらい行きたいよ」だそうだが、和也にしてみれば「二週間も」だった。

和也が真理に付き合って欲しいと告白をしたのはつい最近のことだった。

ちょうどこの広場のしだれ桜が散りかけていた頃だから、まだあれから半月も経っていない。

長年秘めていた思いをようやく打ち明けて、やっと付き合うことができた。

今はまだ、幼なじみの延長という感じでしかない二人の距離を少しずつでも縮めたい時なのに。いきなり真理から二週間も旅行に行くと告げられた和也は、驚いて言葉も出なかった。

「せっかくゴールデンウィークの計画も立ててたのに」

和也が思わず愚痴ると、真理は悪びれた様子もなく「ごめんね、また来年ね。だってほら、語学研修は今年しかチャンスが無いし」と言っただけだった。


本当に来年まで覚えてくれているか。

いや、二人がまだ付き合っているかどうかさえ怪しいのに。

――けれど、その言葉で和也はすっかり真理を許していた。

「じゃあ、そろそろ行かなくちゃ」

真理の言葉に、和也ははっと我に返った。腕時計に目をやると、すでに三時半を過ぎていた。四時にはもう空港行きの特急に乗らなくてはいけない。

駅前の広場には、先ほどよりもさらに人が増えていた。出発前にあれこれ話をしようと思っていたのに、もう時間がない。

和也は、待ち合わせに遅れて来た真理よりも、ろくな話もできなかった自分自身に腹を立てた。

ホームまで真理を見送った後、和也はとぼとぼと帰路についた。

玄関のドアを開ける。靴を脱ぐときに、壁際に立て掛けられた等身大の鏡が視線に入った。

和也はいつも、外から帰って来たときに、この鏡を見るのが嫌だった。何でこんなところに置くのだろう。たいがいそこには疲れ切って沈んだ表情の自分が映っていて、余計に気分が滅入ってしまう。

今日も、少し暗い表情の自分の姿が映っていた。すこし長めに伸ばした前髪と、真っ黒な髪がいけないのかもしれない、と和也は思った。真理のように生まれつき明るい栗色の髪なら、和也も少しは明るく見えるのだろうか。

「ああ、あんた帰ってたの?」

片手に包みを抱えた姉の弘美が、和也に声をかけた。スーツを着ているということは、これからどこかへ出かけるのだろうか。

「今帰ったんだよ」

和也は姉の問いに答えたが、弘美にとってはどうでもいいことだったようだ。

もっとも、和也にとって、あまりあれこれ詮索されない方がありがたかった。

小さいころから弘美も見知っている真理と付き合ってるなんてことがばれたら、家族どころか近所中、いや弘美の行動範囲内を中心にどこまで広まるか分かったものではない。

「ちょっと、いつまでぼーっと玄関に座ってるつもり? 邪魔でしょ。あ、それからこれ、あんたに届いてたわよ」

そう言って、持っていた包みを押しつける。それから、さも邪魔だと言わんばかりに、和也の背中を軽く蹴飛ばした。

「痛いな。すぐどくよ。何も蹴飛ばすことないじゃないか」

「ぶつくさ言ってないで、さっさとあっち行ってよ」

弘美の目的は鏡だ。洗面所でも自分の部屋でも散々鏡を見てきたくせに、この上まだ玄関の鏡でもチェックが必要らしい。

見たってそれ以上容姿が変わるものでも無いのに、と言ってやりたかったが、後の報復が怖くてやめた。


和也は鏡越しに姉の顔を盗み見た。

弘美はさらさらの長い黒髪を後ろできっちりと一つに束ねていた。そのせいか、正面から見たときの印象は、和也にそっくりだった。

幼い頃は、双子のようだと言われたこともある。今は弘美が化粧をするようになったからか、傍目にはだいぶ違って見えるようになったが、小さめの顔に、とがり気味の細いあご、大きな瞳というもって生まれた顔の造りは変わらない。

「まだいたの?」

振り返った弘美にじろりと睨まれて、和也は慌てて小包を抱えたまま、階段へと移動する。

二階へと段を上りながら、今度は小包の中身が気になりだした。

通販などを利用した覚えは無い。和也宛てに小包を送って来そうな相手というのも思いつかない。

差出人の欄には、どこかで聞いたことのあるような会社名が書かれていた。どこで聞いたのだろうと、和也は考えてみたが、すぐには思いつかなかった。

宛て先がちゃんと「三谷和也様」となっているのを確認して、和也は二階にある自分の部屋へと向かった。ベットに座って、膝の上に置いた箱を眺める。

「開けても、いいんだよな」


おそるおそる箱を開けると、まずは一番上に手紙が入っていた。

「『先日は我が社のソフトに関するアンケートにご協力いただき、ありがとうございました』。―そういや随分前に、ゲームソフトに入ってたアンケートはがきを出したんだっけ」

手紙にはアンケートに協力してくれた人の中から抽選で、新作ゲームの体験版をプレゼントされるということ、和也がその抽選に当たったということが書かれていた。

和也の表情がぱっと明るくなる。これで連休の間、少しは退屈しないで過ごせそうだ。

「どんなゲームだろう」

和也は箱の中を探った。丸めた新聞紙が詰まっていて、なかなか目的物が見つからない。新聞紙の山をまとめてゴミ箱にぶち込むと、ようやく箱の底から、黒いプラスチックのケースに入った薄い円盤状のゲームディスクが出てきた。

「最新型のゲームだ」

現在開発中と噂の、ハードを必要としないゲームディスクだった。

見た目は従来のゲームディスクと変わらないように見える。

違うとしたら大きさだろう。直径三十センチ位だろうか、上に人が立てるくらいに大きい。黒いケースに入っているのは、外界からの光を遮断するためだ。このディスクは光を起動力にしている。

「説明書、説明書っと。『なるべく明るく平坦な場所に置いて下さい。使わないときは黒カバー被せて光を遮断し、ケースにしまってください』」

どうやらゲームの内容ではなく、ディスクの取り扱いについてしか書かれていないようだ。

ケースには『MIND GAME』というタイトルだけが書かれていた。

とりあえず、和也は部屋の床にディスクを置いてみた。


しばらくは何も起こらなかった。向きが違うのかと引っ繰り返してみたが、やはり何も起こらない。

「和也、夕飯出来たわよ」

母親に呼ばれ、和也は一階のキッチンへ向かう。食事を終えて部屋に戻って来たときも、やはりディスクはそのままだった。

「不良品かな。それとも夜だから光が足りないとか? いや、そんなんじゃ、時間を選ばないだけ今までのゲームの方がマシだよな」

じっとディスクを眺めていた和也だが、すぐに飽きて部屋のテレビを見始めた。どのチャンネルも、大して面白い番組はやっていない。


真理と一緒だったら、どんなにつまらない番組でも楽しいのに、と和也は思った。

この際、姉の弘美でもいい。誰か側にいて、つまらないと文句の一つでも言ってくれれば、少しは気が紛れるかもしれない。

急に和也は物寂しさを覚えた。階下にある居間へ行けば、両親がいる。けれど、行けば行ったで違う虚しさを感じるだろう。別に親と何か話したいこともないし、顔を見れば小言を言われるのだから、まだ部屋にいたほうがましだ。なのに、一人で部屋にいるとなぜか妙に寂しくて、やり切れない気持ちになった。


小さいころは真理もよくこの家に遊びに来ていた。真理がいると両親も楽しそうで、真理の方がよほど本当の家族らしかったくらいだ。もしまた真理が遊びに来てくれれば、両親は喜ぶだろうか。

ベットに横になりながら、和也はふうっと息をついた。

真理のことを、本当に自分は好きなのだろうか?

ふとそんな疑問がわいてくる。

真理と一緒にいれば、嫌なことも忘れられそうで。そのために彼女を利用しているのじゃないかと思えてくる。

側にいてくれる人なら誰でもいいのではないかと。

そんなことを思いながら寝返りをうった和也は、次の瞬間ベットから転がり落ちそうになった。


――目の前に、真理がいた。

いや、真理は今日確かに旅行へ出かけたはずだ。ホームから、特急電車に乗り込む姿を見送ったのだから間違いない。

こんな、自分の部屋なんかに真理がいるはずない。さっきから考え事ばかりしているから幻覚でも見たんだ、そう自分に言い聞かせる。

落ち着きを取り戻してから、またさっきの方向を見る。

――やっぱり、真理がいた。

「どうして……」

言いかけて、ふと気が付く。

よく見ると彼女の輪郭は淡い銀色の光に包まれていた。何か神々しさのようなものを感じて、和也は思わず息を呑んだ。彼女の足元には先ほどのゲームディスクがあった。

何かのゲームなのだろうか。ベットから降りると、彼女に近づく。


間近で見る「彼女」は、真理とは少し違うように思えた。

どうして真理と間違えたのだろう、と和也は思う。真理の肌はもっと健康的な小麦色だし、髪もこんなにさらさらではない。

「彼女」の瞳はまだ閉じられたままだった。瞼の下に隠れている瞳を、早く見てみたいと思った。そう思ったとき、長い睫(まつげ)がわずかに震えた。

「あ」

いきなり目が合って、和也は硬直した。よく見ようと彼女の顔をのぞき込んでいたため、かなりの至近距離だった。

真理とでさえ、こんなに間近で視線を交わしたことはない。大きめの明るい茶色の瞳は、やはりどこか真理を思わせるものだった。


――にこりと微笑まれて、和也は完全に心を奪われた。

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