ユスポフ公爵家とキセリョフ伯爵家のその後
アルセニーは皇太子アレクセイの誕生祭で聞いたマトフェイに関する話が気になり、パーヴェルと共に生家であるユスポフ公爵家を調べた。
すると、昨年の冬から年明けの猛吹雪により、ユスポフ公爵領は大打撃を受けたことが分かった。しかしマトフェイの領地経営の腕ではどうにも出来ず、借金を抱えてしまったらしい。ユスポフ公爵家の経済状況は予想以上に芳しくないそうだ。
「ユスポフ公爵家がそんな状況に……」
アルセニーは考え込む。
「それとアルセニー様……このようなものも見つけました……」
パーヴェルは言いにくそうな表情で、とある資料を渡す。
アルセニーはその資料を見て、マラカイトの目を大きく見開く。
「これは……!」
「私も最初は信じられませんでした。しかし……」
二人は黙ってその資料をじっくり見る。
その資料には、アルセニーがユスポフ公爵家を追放された原因−−皇帝エフゲニーがユスポフ公爵領の製糸場事故で怪我を負ったことについて書かれていた。
製糸場はあらかじめ天井が崩れ落ちるように設計されていた。
それを仕組んだ犯人は、何とアルセニーの弟であるマトフェイ。
マトフェイが皇帝エフゲニーが来る時期に天井が崩れるように細工していたのだ。
「確かにマトフェイは私を敵視している面があったが……そこまでしてユスポフ公爵家当主の座が欲しかったのか……?」
アルセニーは驚愕しながらポツリと呟く。
「アルセニー様、この件についてどうなさいますか?」
パーヴェルがそう聞く。
するとアルセニーは少し考えてからこう答える。
「私は……特にマトフェイを告発するつもりはない。あいつが皇帝陛下の怪我の件を引き起こしたことに関しては複雑だが……私は今のターニャとの生活が気に入っている。この生活を守れたらそれで良い」
アルセニーは穏やかな表情だった。
「左様でございますか。ならば私もアルセニー様の意思を尊重いたします」
パーヴェルはアルセニーの意向に沿うようだ。
アルセニーが公爵家を追い出される原因になったのがマトフェイの仕業だと判明したが、アルセニーはその罪を暴こうとはせず胸の内に秘めるのであった。
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ある穏やかな昼下がり。
アルセニーはタチアナと帝都を散歩していた。
「アルーシャ様、ご覧ください。ライラックが咲いておりますわ」
タチアナは薄紫色のライラックを見つけて表情を綻ばせる。
アルセニーはタチアナのその表情を見て、穏やかな気持ちになる。
「そうだな。もうすっかり暖かくなっている」
優しげにマラカイトの目を細めるアルセニー。
この日々が続くのであれば、マトフェイの件などどうでも良いと感じていた。
その時、二人の目にある光景が飛び込んで来た。
「さっさと帰れ! この背教者!」
「お願いです! どうか少しだけでもお金を貸していただけないでしょうか!?」
とある貴族の
その女性を見て、タチアナはヘーゼルの目を大きく見開いた。
「キセリョフ伯爵家に貸せる金などない!」
「お願いです! そこを何とか!」
「しつこいな! 帰れ!」
女性は男性に蹴り飛ばされて倒れてしまった。
アルセニーとタチアナはその様子を呆然と見ている。
「ターニャ……キセリョフ伯爵家ということは、彼女は……」
「ええ。……
タチアナはほんのり表情を曇らせた。
両親が亡くなった後、叔父一家からキセリョフ伯爵家で虐げられていた時のことを思い出したのだ。
「ターニャ、大丈夫か?」
アルセニーは少し心配そうにタチアナを覗き込む。
するとタチアナは自身の胸に手を当て、軽く深呼吸をする。
(あの日々は……とても
タチアナは穏やかな表情になった。
「大丈夫でございますわ」
「それなら良かった」
アルセニーはホッと安心する。
その時だ。
「あんた……タチアナ・ミローノヴナね……!」
先程貴族の男性からお金を借りようとしていた女性−−スヴェトラーナ・ジノーヴィエヴナ・キセリョヴァが鬼のような形相でタチアナを睨んでいた。
「ターニャ」
アルセニーはタチアナを庇おうとするが、タチアナがそれを制する。
「大丈夫ですわ、アルーシャ様」
柔らかな笑みである。そしてタチアナはスヴェトラーナに目を向ける。
「お久し振りでございます。スヴェトラーナ・ジノーヴィエヴナ様」
背筋を伸ばし、凛とした表情のタチアナ。
艶やかな栗毛色の髪、ヘーゼルの目も力強く、きめ細やかな肌に上品なドレスのタチアナ。
それに対して傷んだブロンドの髪、アズライトの目の下には濃い隈、肌もボロボロで流行遅れの古びたドレスのスヴェトラーナ。
タチアナが自殺未遂を起こしてアルセニーと結婚させられた後、キセリョフ伯爵家に何かがあったようだ。
「タチアナ・ミローノヴナ……自殺未遂を起こしておいて、何幸せそうにしているのよ!? 私達はあんたのせいでどん底まで落ちたのよ!」
アズライトの目からは恨みが感じられる。
「まあ……キセリョフ伯爵家に何があったです?」
アルセニーが隣にいてくれるので、タチアナは怯えず冷静でいられた。
「タチアナ・ミローノヴナ! あんたがゴルチャコフ公爵家の
「まあ……」
タチアナはどこか他人事のようにスヴェトラーナの話を聞いている。
「それに、ゴルチャコフ公爵家はあんたの婚約者だったロージャ様をあっさりと切り捨てたわ! ゴルチャコフ公爵家の醜聞になるからってね! そのせいでロージャ様は平民になるしかなくなったわ!」
「ロジオン・シードロヴィチ様が……」
タチアナはヘーゼルの目をパチパチと瞬きする。
「その後ロージャ様は犯罪者グループの一員になるしかなくなって、今は逮捕されて投獄されているわ!」
「あらまあ」
タチアナは元婚約者が辿った結末に対し、意外そうにヘーゼルの目を大きく見開くだけ。
「私達がどん底なのは全部あんたのせいよ! そうだわ! あんたが何とかしなさいよ!」
スヴェトラーナはそうタチアナに詰め寄る。
「何とか……そうですわね……」
タチアナは考える素振りをする。
そしてアルセニーをチラリと見た後、スヴェトラーナに穏やかな笑みを向ける。
「それなら、新しいことを始めたり、スヴェトラーナ・ジノーヴィエヴナ様のご興味のあることを突き詰めてみたらいかがでしょうか?」
「は……?」
スヴェトラーナはタチアナの答えに言葉を失う。
アルセニーも、驚いたようにタチアナを見る。
「
ふふっと柔らかく微笑むタチアナ。
「ですので、スヴェトラーナ・ジノーヴィエヴナ様も、ご自身がご興味を持っていることや、新しいことを始めたら、どん底から立ち直れるかもしれませんわ」
タチアナは悪意のない笑みである。
その言葉と態度に、スヴェトラーナは怒髪天を
「ふざけるんじゃないわよ!」
スヴェトラーナは怒り狂い、タチアナに掴みかかろうとした。
それをアルセニーが止める。
「私の妻に危害を加えるつもりなら容赦はしない。警察を呼んでも良いのだが」
すると、スヴェトラーナは悔しそうな表情でその場を立ち去るのであった。
「ありがとうございます、アルーシャ様。……
少しだけ悪戯っぽい表情のタチアナ。
「驚いたよ。あれはわざとだったのか」
アルセニーは困ったように苦笑する。
「ええ。
タチアナは堂々と前を向いていた。
「そうか」
アルセニーは納得したように、少し嬉しそうに微笑んだ。
(ターニャも自分を虐げていた相手に対して毅然としていた。今更マトフェイの罪を暴くつもりはないが、私ももしあいつがまた突っかかって来たら、毅然とした態度で返そう)
アルセニーも前を向くのであった。
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