チャンス到来

 マトフェイがやって来た日から数ヶ月が経過した。

 短い秋が到来すると同時に、冬の気配も感じつつある気候になった。

 アシルス帝国は北部に位置するので、冬が長く寒冷な気候なのだ。


 そんな肌寒くなってきたある日のこと。

「アルセニー様、こちらがエカテリーナ・ポリンのエキスを使用した傷や火傷、皮膚のただれを治す為の薬用クリームの試作品でございます。イグナチェフ先生にお願いして協力者を募って臨床試験をした結果、一定の効果が見られました」

 タチアナは自信ありげな表情だ。


 タチアナはアルセニーの弟マトフェイが嫌がらせ目的で持って来た植物から薬用成分を抽出し、見事に薬用クリームを作り上げたのである。


「ありがとう、タチアナさん。長い間良く頑張ったね」

 アルセニーはタチアナに優しい笑みを向ける。

 するとタチアナはほんのり頬を赤く染め、嬉しそうに微笑む。

「アルセニー様にそう仰っていただけて光栄でございます」

「いやいや、私の方こそタチアナさんには助けてもらってばかりだよ。この調子だと、今年の冬にはユスポフ商会の製品として売り出せそうだ」

 アルセニーはタチアナから薬用クリームを受け取ろうとする。

 その時、二人の手が触れ合った。

「あ……すまない、タチアナさん」

 アルセニーは頬が赤くなるのが自分でも分かり、タチアナから目を逸らす。

(わざとではないとはいえ、タチアナさんの手に触れてしまった。……嫌がってないだろうか?)

 アルセニーの鼓動は速くなっていた。

「いえ……お気になさらないでください、アルセニー様」

 タチアナも頬をほんのり赤く染め、アルセニーから目を逸らした。

(アルセニー様のお手に触れてしまったわ……)

 タチアナは必死に脳内を落ち着かせるのであった。

 アルセニーとタチアナはお互いを意識し始めていた。






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 数週間が経過した。

 いよいよタチアナが開発した薬用クリームをユスポフ商会が売り出し始めた。

 すると、裕福な平民や下級貴族がそれを購入してくれて、売れ行きはそこそこである。

 しばらくすると、その薬用クリームはいつもよりも傷の治りが速いと評判になった。更に、医師も認める効果が出ていたのだ。

 それ以降、タチアナが開発した薬用クリームは飛ぶ鳥落とす勢いで売れている。


「売り上げ目標突破を祝して、乾杯!」

 アルセニーの掛け声に、タチアナ、パーヴェル、ラウラ、そしてトロフィムは「乾杯!」と飲み物が入ったグラスを上げた。

 この日はタチアナを指導していたトロフィムも招き、ユスポフ子爵邸でささやかなお祝いパーティーを開催していた。

 豪華なご馳走という程ではないが、いつもよりも料理の品数が多い。

「タチアナさん、売り上げ目標突破したのは間違いなく君のお陰だ。ありがとう。トロフィムも、タチアナさんに色々と教えてくれたお陰でこうしていられる。ありがとう。それから、パーヴェル、ラウラ。いつも私達を支えてくれてありがとう」

 アルセニーはピロシキを一口食べ、皆の方を見て微笑む。

「いえ、わたくしは興味のあることをとことん突き詰めただけてございます。販売戦略は全てアルセニー様がお考えになったではありませんか。アルセニー様の戦略の賜物でございますわ。イグナチェフ先生にも色々とお世話になり、感謝しておりますわ」

 タチアナは微笑み、グリヴィという、きのこのクリーム煮をパイ生地で包んだ壷焼きを一口食べる。

「俺はただ研究しながら奥さんの指導していただけだ。それに、俺としては別に研究が捗れば何でも良いね」

 ボサボサのアッシュブロンドの髪をかき上げ、欠伸をしながらコトレータを頬張る。

 黒縁眼鏡の奥から覗くグレーの目の下には隈が酷かった。

「前へ進んでいるお二人を陰ながらお支え出来ているのであれば、このパーヴェルは嬉しく存じます」

「私も、微力ながらタチアナ様やアルセニー様のお力になれているのなら大変光栄です」

 パーヴェルとラウラも嬉しそうである。

 外は暗く凍てつく寒さだが、ユスポフ子爵邸は明るく暖かく賑やかであった。






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 そんなある日のこと。

 アルセニーは新聞を見て眉間に皺を寄せている。

「アルセニー様、何か気になる記事でもございましたか?」

 タチアナは不思議そうに首を傾げる。

「ああ……。この記事を見てくれて」

 タチアナはアルセニーに言われた記事を見る。


『アデライーダ・フリストフォロヴナ皇妃殿下、吹雪により腕を大怪我』


 新聞の第一面の見出しに大きくそう書いてあった。

「まあ、皇妃殿下が……!」

 タチアナはヘーゼルの目を大きく見開いていた。


 ロマノフ皇帝一家はアシルス帝国東部にある離宮で過ごしていたのだが、猛吹雪により離宮の一部が壊れたのだ。その際、鋭利なガラスが皇妃アデライーダに直撃した。ガラスはアデライーダの左腕に深く刺さり、出血も大量だったそうだ。幸い、すぐに適切な医療処置がおこなわれ、命に別状はない。しかし、左腕の傷は消えない可能性があった。


「ああ。幸い悪天候の影響だから、誰かの責任にされることはなかったようだが。私の時とは違ってね」

 アルセニーはかつて皇帝エフゲニーがユスポフ公爵領に視察に来た時のことを思い出して懐かしむような表情になる。

 自嘲しているようではなく、完全に吹っ切れているようであった。

「左様でございますか」

 タチアナはアルセニーの表情を見て安心したようである。

「まあでも、命に別状はないとはいえ、皇妃殿下の怪我は心配だな」

「確かに、そうですわね」

 アルセニーとタチアナはは再び新聞に目を向けて、表情を少し曇らせた。

 この件は、二人にとって無関係の話だと思っていた。


 しかし数日後、事態は一変しユスポフ子爵邸に激震が走る。

「アルセニー様! 大変です!」

 パーヴェルが血相を変えてアルセニーの執務室にやって来る。

「パーヴェル、そんなに慌ててどうした?」

「何かあったのでございますか?」

 丁度アルセニーとタチアナが薬用クリームについて打ち合わせをしているところであった。

 二人は落ち着いているが、パーヴェルの様子に何か重大なことが起きているのを感じていた。

 そして紅茶を持って入って来たラウラも、きょとんとしている。

「アルセニー様、こちらを……!」

 パーヴェルはアルセニーに届いた手紙を渡す。その手は震えていた。

 アルセニーはパーヴェルから手紙を受け取る。

「これは……!」

 封筒に刻み込まれた紋章を見て、アルセニーはマラカイトの目を零れ落ちそうな程見開いた。

 金糸に縁取られた白い百合の紋章。

「ロマノフ家の紋章でございますね……!」

 タチアナは驚愕してポツリと呟いた。

「まあ! ロマノフ家から……!」

 ラウラも驚いている。

「とりあえず、読んでみるぞ」

 喉をゴクリと鳴らし、緊張しながらペーパーナイフで封筒を開け、中身を読むアルセニー。


 手紙の内容を要約するとこう書いてあった。

 皇妃アデライーダの腕の傷の治りが芳しくない。そこでユスポフ商会の薬用クリームの話を聞いた。是非試してみたいから購入したい。

 とのことである。


 ロマノフ家からの注文に、全員驚愕している。

「まさかロマノフ家から薬用クリームの注文があるとは……!」

 アルセニーはマラカイトの目を大きく見開き、酸素を求める魚のように口をパクパクとさせていた。

わたくしが開発した薬用クリーム、皇妃殿下のお怪我に効くのでしょうか……?」

 タチアナは弱気になっている。

「タチアナ様、自信をお持ちください。タチアナ様が開発なさった薬用クリームの効果は医学的にも証明されております」

「アルセニー様もタチアナ様も、またとないチャンスでございますよ。これを機にユスポフ商会がロマノフ家御用達になる可能性だってあるのですから」

 ラウラとパーヴェルは興奮気味である。

 突然の大きなチャンス到来に、期待と混乱に染まるユスポフ子爵邸であった。



※コトレータはウクライナやロシア風のカツレツです。

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