幸せを掴む勇気

 翌日、アルセニーの執務室にて。

「アルセニー様、紅茶とジャムをお持ちいたしました。こちらに置いておきます」

「ありがとう、パーヴェル」

 紅茶とジャムを置くパーヴェルに、アルセニーはお礼を言う。

 そしてパーヴェルが執務室を出た後、アルセニーはぼんやりと窓の外を見つめていた。

 ロマノフ家から注文が来てから、アルセニーは色々と考えていた。

(タチアナさんが開発した薬用クリーム使用者からは、傷が綺麗に治ったと報告を受けている。恐らく皇妃殿下の傷も綺麗に完治するだろう)

 アルセニーは一口皿の上のジャムを舐めてから、紅茶を飲む。

(そうなれば……恐らくタチアナさんも私も、皇帝陛下から勲章をもらえる。そしたらきっと社交界復帰も可能だ。ただ……私は社交界復帰したいわけではない。……タチアナさんと、今のささやかな幸せを感じていたいだけだ)

 アルセニーは軽くため息をつく。

(最初の頃は、タチアナさんの将来の為にも白い結婚にして、三年経てば離婚して彼女を自由にするつもりだった。だが……)

 アルセニーは予期せぬ形でタチアナと結婚してからのことを思い出す。


 初めは生きることを諦めていたタチアナ。しかし、次第に彼女は明るくなっていった。そして、タチアナの柔らかな笑み。輝くヘーゼルの目。アルセニーはその笑みを見たら心が温かくなっていた。

 もっとタチアナの笑顔を見たい、自分がタチアナを笑顔にしたい。いつの間にか、そういう思いで溢れていた。


(私は……タチアナさんを愛しているんだ。彼女を手放したくない。だが、彼女は私より八つ下でまだ若い。私は……タチアナさんの未来を狭めていないだろうか……?)

 アルセニーは不安になった。

 そして自身の醜聞について思い出す。

(私は皇帝陛下に怪我を負わせてしまった人間だ。未来ある彼女の隣に私がいても良いのだろうか……?)

 アルセニーのマラカイトの目が曇りかける。しかし、深呼吸したアルセニーは切り替える。

(いや、まずは……今回の件で皇帝陛下からの信頼を取り戻し、社交界復帰しよう。そうしたら、私の醜聞はいくらかマシになる。そうなった時、タチアナさんに気持ちを伝えよう。それで彼女が首を横に振るのなら、その時はその時だ)

 アルセニーは決心した表情で未来を見据えるのであった。

(ユスポフ商会を立ち上げる時も、心ない言葉を浴びせられることを覚悟で貴族達に不用品を貰いに行ったではないか。……幸せを掴むには、勇気がいるものだな)

 アルセニーはフッと笑った。






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 タチアナの私室にて。

「タチアナ様、どうかなさいましたか?」

 ラウラは考え込んでいるタチアナを少し心配そうに覗く。

「ラウラ……。色々と考えていたの」

 タチアナはふわりと微笑む。

「もしわたくしが開発した薬用クリームで皇妃殿下の左腕の傷を綺麗に治すことが出来たら、アルセニー様もわたくしも、ロマノフ家から勲章をいただけて、社交界復帰出来るわ。だけど、わたくしは社交界復帰したいわけではないの。ただ……アルセニー様の隣にいることが出来たら、それだけで幸せなのよ」

 目を閉じ、胸に手を当てるタチアナ。

 ラウラは黙って聞いている。

「だけどラウラ、わたくし達が白い結婚であることは知っているでしょう?」

「はい。こちらのお屋敷に参りました時、タチアナ様とアルセニー様からお聞きしております」

わたくしは……アルセニー様の本当の妻になりたいと望むようになったの。アルセニー様はこんなわたくしにも優しくしてくれて、笑顔を見せてくれて……」

 タチアナはアルセニーの優しげなマラカイトの目と笑顔を思い出し、柔らかな笑みを浮かべるタチアナ。

わたくし、アルセニー様を愛するようになったの」

「良いことでございます、タチアナ様」

 ラウラは優しく微笑む。

 しかしタチアナの表情が少し曇る。

「だけど、わたくしはまだ十八歳で、アルセニー様にとってはきっと子供にしか見えていないわ」

「タチアナ様、貴女様は立派な淑女でございます」

 ラウラは首を横に振り、タチアナをフォローする。

「ありがとう、ラウラ。ただ、八歳差は大きいのよ。でもね、わたくしは諦めたくないの」

 タチアナのヘーゼルの目は力強く輝く。

わたくしはキセリョフ伯爵家で両親を亡くして以降、色々と諦めていたわ。そして婚約者だったロジオン・シードロヴィチ様がわたくしと婚約破棄をしてスヴェトラーナ・ジノーヴィエヴナ様と婚約しようとしている話を聞いて以降、生きることすら諦めていた。だけど、アルセニー様はわたくしに生きる希望を与えてくれたの」

 ラウラはタチアナの話を黙って聞いて頷く。

わたくしは、自殺未遂の醜聞があるけれど、今回の件で名誉回復したいわ。そして、アルセニー様にお慕いしている気持ちを伝えようと思うの」

 タチアナの表情は明るい。

 ラウラは嬉しそうに頷く。

「アルセニー様の気持ちがわたくしに向いていなければ、それは仕方のないことだわ。アルセニー様の気持ちを知るのは少しだけ怖いけれど……幸せを掴む為には、勇気が必要なのよ」

 タチアナはふわりと微笑む。

 ラウラはそっとタチアナの手を握る。

「タチアナ様なら、きっと上手くいきます。幸せになれますよ」

 ラウラはタチアナのヘーゼルの目を真っ直ぐ見ていた。

「ありがとう。ラウラにそう言ってもらえて、勇気が湧いたわ」

 タチアナはヘーゼルの目を真っ直ぐ未来へ向けていた。






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 そして、アルセニーはタチアナが開発した薬用クリームをロマノフ家へ納品した。

 皇妃アデライーダの左腕の傷の治療がすぐに始まった。アデライーダの傷は大きく、すぐに完治したわけではないが、ゆっくりと薬用クリームの効果が出ていた。

 そして二週間程でアデライーダの左腕の傷が綺麗に完治したのである。


 アルセニーとタチアナはこれにより、年が明け春になり社交シーズンが始まると同時に皇帝エフゲニーから勲章を賜ることになったのだ。

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