明るくなる二人
ある日の昼下がり。
「アルセニー様、注文書が届いております」
パーヴェルが注文書の束を抱えて、アルセニーの執務室へやって来た。
「ありがとう、パーヴェル。随分と多いな。そこのテーブルに置いてくれ」
アルセニーは注文書の量にマラカイトの目を大きく見開いた。
「かしこまりました」
パーヴェルは指示通り、注文書をテーブルに置く。
その時、玄関から「ただ今戻りました」とタチアナの声が聞こえた。
トロフィムの研究室から帰って来たのだ。
アルセニーは立ち上がり、玄関へ向かう。
「お帰りなさい、タチアナさん」
アルセニーは優しげな笑みをタチアナに向ける。
「アルセニー様、こちらをどうぞ」
タチアナの隣にいたラウラはアルセニーにとある紙袋を渡す。
最初の頃は「アルセニー・クジーミチ様」と呼んでいたラウラだが、今では父称なしで呼ぶようになっていた。
「アルセニー様、イグナチェフ先生がピロシキをご馳走してくださったのですが、ラウラと
ふふっと楽しそうに笑うタチアナ。
「今日は実験室にいる時間が長かったので、すぐに入浴をしてよろしいでしょうか?」
タチアナからはほんのり薬品の匂いがした。
「ああ、構わない。パーヴェル、入浴の準備を頼む」
「承知いたしました」
パーヴェルは入浴の準備をしに行った。
「タチアナ様、私も入浴後のお着替えをご用意して参ります」
「ありがとう、ラウラ。頼むわね」
タチアナが柔らかく微笑むと、ラウラはすぐに用意に向かった。
「それとアルセニー様、こちらが現在開発中の薬用クリームでございますわ。傷を治す成分を前回より多めにしましたの」
「ありがとう、タチアナさん。君のお陰で薬品事業も立ち上げられそうだ」
アルセニーは嬉しそうに微笑んだ。
アルセニーが立ち上げたユスポフ商会の売り上げは更に上がり、タチアナも生き生きとした様子でトロフィムの元で学んでいる。
最近では、タチアナも有機化学の知識を用いてユスポフ商会の製品を開発しているのだ。
ユスポフ子爵邸の雰囲気はかなり明るくなっていた。
以前は傷んでいたアルセニーの赤毛の髪も、今はすっかり艶を取り戻している。また、タチアナの栗毛色の髪の傷みもすっかりなくなり艶やかである。
♚ ♕ ♛ ♔ ♚ ♕ ♛ ♔
そんなある日のこと。
ユスポフ子爵邸に突然アルセニーの弟マトフェイがやって来た。
「お久し振りですね、兄上」
赤毛の髪にアルセニーと似た顔立ち。唯一違うのは、アクアマリンの目だ。
「タチアナ・ミローノヴナ嬢との結婚生活はどうです? もしかして彼女、兄上で生活に絶望して逃げ出したり自殺したりはしてませんか?」
マトフェイはアルセニーを侮蔑するかのように笑っている。
マトフェイはアルセニーがユスポフ公爵家にいた頃から彼を敵視していた。
しかし、アルセニーはマトフェイの失礼な物言いに動じず穏やかな様子だ。
「タチアナさんは元気にやっているよ」
「またまた、強がっているのでは? 皇帝陛下に怪我を負わせた兄上の元に嫁げば誰もが絶望するでしょう。僕なら妻のクレーマにそんな思いはさせませんけど。彼女、兄上と結婚しなくて良かったって思っているでしょう」
勝ち誇ったような表情のマトフェイ。
アルセニーは公爵家を追放されなかったらクレメンチーナと政略結婚することになっていたのだ。
(そういえば、マトフェイが私に突っかかって来るようになったのはいつからだったかな? 昔は割と仲が良いはずだったのだが。……私とクレメンチーナ嬢……今はもうユスポフ公爵夫人になる彼女と婚約者になった頃だったからか?)
アルセニーはぼんやりと考えていた。
そこへ、扉のノック音が響く。
タチアナである。
「お話中失礼いたします。アルセニー様の弟君であられるユスポフ公爵閣下がいらしているとお聞きしまして、ご挨拶に参りました」
タチアナは柔らかな笑みを浮かべる。
「君は……タチアナ・ミローノヴナ嬢なのか……!?」
マトフェイはタチアナの姿を見るなり驚愕し、アクアマリンの目を零れ落ちそうな程見開いた。
いきなりマトフェイに連れられてアルセニーと結婚させられた時のタチアナは、栗毛色の髪は傷みまくり、肌は荒れ、不健康な程に細い体だった。おまけに生きることを諦めた表情をしていた。
しかし今のタチアナは違う。
栗毛色の髪は艶やかで、肌もきめ細かくハリがあり、華奢ではあるか健康的な体である。そしてヘーゼルの目は輝いていた。
「はい。ユスポフ公爵閣下、あの時は
タチアナの姿は、柔らかでくも芯のあるものだった。
「そう……か、それは……良かった」
マトフェイは口角を上げる。
しかし、アクアマリンの目は笑っていない。面白くなさそうに口元は引きつっていた。
そしてパーヴェルが運んで来た紅茶を一口飲み、アクアマリンの目を見開く。
「まさかこんな所で質の良い紅茶が出るとはな……」
ユスポフ商会の売り上げが順調になったことで、以前よりも高級な紅茶を用意出来るようになったアルセニーである。
マトフェイはそれが面白くなさそうだ。
「それでマトフェイ、今回はどういった要件だ?」
アルセニーは単刀直入に聞いた。
「ああ、そうでした。最近兄上が貴族の方々から物乞いをして
ニヤリと蔑んだように笑うマトフェイ。
そして自身の従者に何かを持って来るよう指示する。
そしてアルセニーの目の前にドサっと大きな袋が置かれた。
袋の中には特徴的な葉を持つ雑草が入っていた。
「公爵領に生えている雑草です。邪魔だったので、
そう嘲笑するマトフェイ。
(嫌がらせ目的か……)
アルセニーは内心ため息をつく。
その後、マトフェイはすぐにユスポフ子爵邸から立ち去った。
「それにしても、こんなものを持って来られてもな……」
アルセニーは大量の雑草を見て苦笑する。
「待ってください……」
タチアナはそれらを見て何かを思い出すような表情になった。
「あの、この植物はエカテリーナ・ポリンと呼ばれるものでございます。現皇帝陛下の叔母であり、ナルフェック王国のロベール王家にに嫁いだエカテリーナ・マラートヴィチ殿下が発見なさったもので、有機化学や薬学界隈では薬成分が豊富な植物であると有名なのですわ」
落ち着いているように見えるが、少しワクワクした様子のタチアナ。ヘーゼルの目も、どこか楽しそうである。
「そうなのか」
アルセニーは意外そうにマラカイトの目を丸くした。
「はい。機会があるのなら、発見者であららるエカテリーナ・マラートヴィチ殿下に直接お話をお聞きしてみたいと思ってしまうのですわ。でも、残念ながらエカテリーナ・マラートヴィチ殿下は七年前の海難事故でナルフェック王国の先代国王と共に亡くなっておりまして……」
タチアナは後半残念そうにシュンとした。
「確かに、そんな事故もあったな」
アルセニーも思い出したように呟く。
「とりあえず、これはタチアナさんが好きにして良い」
アルセニーはフッと微笑んだ。
するとタチアナはヘーゼルの目を輝かせる。
「ありがとうございます。早速明日イグナチェフ先生の研究室に持って行って薬成分を抽出してみますわ」
マトフェイが嫌がらせ目的で持って来た植物が、思わぬところで役に立ちそうであった。
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