変わり者の研究者
アルセニーが立ち上げた事業は軌道に乗り、ユスポフ子爵邸にラウラがやって来た。
アルセニーとタチアナの周囲は少しずつ賑やかになっている。
そんなある日の朝食にて。
「タチアナさん、この数日で予定が空いている日はあるかい?」
アルセニーはボルシチを食べているタチアナにそう問いかけた。
タチアナは落ち着いて口にしていたボルシチを飲み込む。
「ええ。この屋敷で本を読むくらいなので、空いておりますわ」
「そうか。なら……三日後の午後、私と一緒に来て欲しい。君に紹介したい人がいるんだ」
意味ありげに口角を上げるアルセニー。
「もしかして、二人目の
タチアナは以前アルセニーに言われたことを思い出し、首を傾げる。
「ああ、その通りだ」
「承知いたしました。楽しみにしております」
タチアナはクスッと笑った。
♚ ♕ ♛ ♔ ♚ ♕ ♛ ♔
三日後。
アルセニーはタチアナを連れて、帝都ウォスコムの中心部からやや外れた地域の閑静な住宅街までやって来た。
そこはそれなりに裕福でないと住めないエリアで、治安も良い。
パーヴェルとラウラにもついて来てもらい、用事の最中は自由に帝都を見て周るよう言っている。
「こちらでございますか?」
タチアナはなんの変哲もない小さな屋敷だ。ユスポフ子爵邸と同じくらいの大きさの屋敷である。
「ああ、そうだよ」
アルセニーがそう答えた瞬間、屋敷の二階から軽い爆発音が聞こえた。
アルセニーとタチアナは爆発音がしたであろう場所に目を向けた後、お互い目を丸くして見合わせる。
「あの……この場所は大丈夫なのでしょうか?」
若干不安になるタチアナ。
「ああ……。恐らく問題はないと思う」
アルセニーも若干不安そうに苦笑した。
そして恐る恐る屋敷の玄関に取り付けてある、来客を知らせる鐘を鳴らすアルセニー。
するとしばらくしてから玄関の扉が開く。
ツンと独特の薬品臭が二人の鼻を掠めた。
二人の前に現れたのは、猫背でボサボサのアッシュブロンドの髪にグレーの目の、黒縁眼鏡を掛けた白衣姿の青年。その白衣には、比較的新しい汚れが付着していた。更に黒縁眼鏡の上から、薬品から目を守る為の保護眼鏡を掛けている。そしてグレーの目の下には隈が出来ている。
「何だ、アルセニーか。そういえば今日来ると言っていたな。すっかり忘れて実験に夢中だった」
ぶっきらぼうな態度の青年。
「いや、気にしないでくれ。……先程の爆発音は実験によるものか?」
「ああ、その通りだ。うっかり圧力がかかり過ぎて爆発したんだ。いやあ、実験台や周囲が薬品まみれで大変だ」
やれやれ、と言うかのような表情の青年。
そしてアルセニーの隣にいたタチアナに目を向ける。
「ん? アルセニー、このお嬢ちゃんは……」
誰なのかと聞こうとして、青年は何かを思い出したようにハッとグレーの目を見開く。
「そういやお前結婚したって話が出回っていたな。その相手がこのお嬢ちゃんか。お嬢ちゃんの方も自殺未遂起こしたとかで色々と有名になってんぞ。俺の所まで話が回って来た」
そう
「おい、色々と率直過ぎるだろう」
アルセニーは呆れたように青年を窘め、若干心配そうにタチアナを見る。
「単なる事実確認だ。別に俺はアルセニーが皇帝陛下に怪我させようが、そこのお嬢ちゃんが自殺未遂しようが別にどうでも良い。いちいち噂や醜聞気にしてたら何にもならねえだろ」
再び
「……お前はそういう奴だったな。タチアナさん、大丈夫かい?」
アルセニーは呆れ気味にため息をつき、タチアナに目を向けた。
「いえ、気にしておりませんわ」
タチアナは穏やかに微笑んだ。
その表情にホッとしたアルセニーは、青年にタチアナを紹介する。
「とりあえず彼女はタチアナさん。一応……私の妻に当たる」
アルセニーはタチアナを自身の妻として紹介することに、若干緊張した。
(妻……。
タチアナもアルセニーの妻として紹介され、心臓が少しだけ跳ねるのであった。
「タチアナ・ミローノヴナ・……ユスポヴァと申します」
若干頬を赤く染めつつ、礼儀正しく自己紹介をした。
「タチアナさん、彼がトロフィム・ダニーロヴィチ・イグナチェフだ。俺と同い年で一応イグナチェフ伯爵家の四男だが、生家を出て独立している」
アルセニーが青年のことをそう紹介した。すると、タチアナはヘーゼルの目を大きく見開く。
「貴方様が、イグナチェフ先生……!」
タチアナがよく読む有機化学の本の著者であった。
「ん? 何だ、お嬢ちゃん、俺のこと知ってるんだ。この界隈は女性が少ないもんだから珍しいな」
トロフィムは意外そうにグレーの目を丸くした。
伯爵家の出ではあるか、全く貴族らしさを感じないトロフィムなのである。
「イグナチェフ先生の本、非常に分かりやすく面白いです。特に、天然素材からの薬成分抽出法やアスピリン生成方法が非常に興味深かったです」
タチアナはヘーゼルの目を輝かせていた。
アルセニーはそんな彼女の表情を見て、嬉しくなる反面自分にその表情が向けられていないことに少しだけモヤモヤした。
(どうしてこんな気持ちになるんだ?)
アルセニーはそのモヤモヤが何かまだ分からなかった。
「へえ、そんなに」
トロフィムはフッと満足そうに口角を上げる。
「それでトロフィム、タチアナさんに有機化学系の専門知識を実践と共に教えてあげて欲しいんだ。専門的な知識があれば、彼女はきっとやっていけると思う」
アルセニーは気持ちを切り替え、トロフィムにそう頼む。
するとタチアナがヘーゼルの目を丸くして驚く。
「アルセニー様、そこまで考えてくださったのでございますね……!」
タチアナは嬉しそうにヘーゼルの目を輝かせた。
自身に向けられたその表情を見て、アルセニーは何とも言えない温かな気持ちが湧き上がる。
「ふうん……」
トロフィムはタチアナの頭のてっぺんから足のつま先までじっくりと、値踏みをするように見る。
「失礼だけどお嬢ちゃん、年はいくつだ?」
「十八ですが……」
タチアナは怪訝そうな表情だ。
「十八歳か。……まあ危機管理能力や判断力はある年齢だな。じゃあこの問題解いてみな。制限時間は一時間だ。ある程度の基礎知識がないと困る」
タチアナはトロフィムに何かが書かれた紙を渡された。試験問題のようなものである。
「承知いたしました」
タチアナはすぐに問題を解き始めた。
彼女の邪魔をしないように見守るアルセニー。問題をチラリと覗き見たが、有機化学に疎いアルセニーにとっては何が書いてあるのかちんぷんかんぷんだった。
「イグナチェフ先生、出来ました」
タチアナは少し悩みながらも問題を解き終え、自身の答案をトロフィムに渡す。
トロフィムはそれを受け取り、タチアナの解答を確認する。
「うむ……」
やや眉間に皺を寄せるトロフィム。
タチアナは少しだけ不安になる。
「ま、及第点は超えている。良いだろう。明日からすぐにお嬢ちゃんを見てやるよ」
トロフィムは満足そうにグレーの目を細めた。
それにより、タチアナはパアッと表情を明るく輝かせる。
「ありがとうございます。イグナチェフ先生の元で学べるなんて、この上ない程の光栄てす」
タチアナはヘーゼルの目をキラキラと輝かせていた。
「ありがとう、トロフィム。これから彼女のことをよろしく頼む」
アルセニーもホッとしたように微笑んだ。
「ああ、お嬢ちゃんは……あ、もうアルセニーの妻だから奥さんって呼んだ方がいいか」
ニヤリと悪戯っぽく口角を上げるトロフィム。
アルセニーとタチアナはトロフィムの爆弾発言により、顔を炎のように真っ赤に染めた。
何はともあれ、タチアナはトロフィムの元で学べることになったのである。
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