第五話 目を逸らさずに

 ――小さい頃から、そうだった。夫婦喧嘩をしている時の両親よりも、良い子にしていないと襲ってくるらしい鬼よりも、ずっとずっと怖いものが、私にはあった。発端はきっと、七歳の時に茉莉としたあのケンカ。私はあの日のことを、一生忘れることができないだろう。


「フーちゃん、死んじゃったね」

 そう小さく呟いた茉莉は、床に落ちたガラス細工のフクロウの生首と胴体を、虚ろな目で見つめていた。ついさっきまでの楽し気な雰囲気は、余すところなく凍りついていた。

「ごめんね、茉莉。わざとじゃないの」

 子供部屋にある家具にしては、少しシックすぎる茉莉のベッドの上、私は小刻みに震えながら、必死に弁明した。「誕生日に、かわいいガラスのフクロウをもらったの」と、はしゃいで私に伝えた、茉莉の無邪気な笑顔が脳裏にちらつく。

「……もういい。鈴なんて、大嫌いだから」

 鼻をつまんで苦手な食べ物を咀嚼するみたいに、オーバーなくらいハッキリと口を動かして、そう言い捨てた茉莉。その目は、寒空の下に置き去られた金属のように冷たくて、ずっと見つめていたら、眼球に霜が降りてしまいそうだった。

「……私、帰るね」

 過冷却した水に衝撃を与えたみたく、何かが決定的に変わってしまったような気がした。奪われた心の熱の結晶みたいな、温かい涙を拭いながら、私は、逃げるように茉莉の部屋を出た。


 ――あれから、どういう経緯で仲直りしたのかは、よく憶えていない。よく憶えていないってことは、いつものように、一方が勇気を出して謝って、もう一方がそれよりも更にすごい勢いで謝って……みたいな流れだったのだろう。

 きっと、私がフーちゃんを落として壊してしまった時に、茉莉が顔を真っ赤にして怒鳴ってくれていたら、あれはただの大ゲンカで済んだ。カレー用の大きなスプーンで胸を抉られるような、嫌悪の視線の痛さも、世界で一番親しい人の「好き」ですら、無敵ではないという恐怖も、知らないままでいられたんだ。


「鈴ー! 晴希君よー!」

 椅子に体を預けながら仰いでいた天井に、吸い込まれそうになっていた意識が、お母さんの大声で戻ってくる。

「いま行くー!」

 お母さんと同じくらいの大声で返事をしてみたけど、残念ながら喉が痛くなってしまった。私たちは去年の春まで、この応援団の激励みたいな大声を恋しがっていたのだと思うと、少しおかしな気持ちになる。


「何しに来たの?」

 私が現れたことに気がつくと、ついさっきまで、楽しそうに晴希と立ち話をしていた弟たちは、バレバレなアイコンタクトを取って、去って行った。

「相談に乗りに来た」

「私、悩んでるなんて言ってないけど?」

 こういう時、反射的に強がってしまうところは、私の短所だと思う。本当は、電話しようかと考えていたくらいなのに。

「じゃあ、帰る?」

 私が「うん、帰って」と言わないことを知っている晴希は、少しニヤニヤして、そう訊いた。心の中で数秒前の自分に舌打ちをして、私は「いいや、やっぱり来なさい」と乱暴に晴希の手を取った。

「いつもの部屋に、お菓子とジュース置いたからね」

 リビングからひょっこりと顔を出して、お母さんが言う。私たちは、いつものように、一階にあるお母さんの寝室に通された。


「今回はそらか」

 お母さんが復帰してから、うちの三馬鹿は、晴希が来る度にこの部屋に交代で入り込んで、私たちを監視するようになった。「二人のプライベートだから」と言って、私たちをこの部屋に通し始めたお母さんだけど、それが本当なら、この三馬鹿を取り締まってほしい。それに、この前も言ったけど、二階の私の部屋で二人きりになったって、別に変なことしないって。

「あんたたちさ、その遊びいつまで続けるの?」

「遊びじゃない! 僕たちは、この家の風紀を守ってるの!」

 家族の中で唯一、空は自分のことを「僕」と呼ぶ。ちなみに、私の弟たちの名前は、一郎、二郎、三郎と同じくらい覚えやすい。上から順に、陸、かい、空だ。

「わかったわかった。では、あなた方はいつまでその活動を続けるのですか?」

 丁寧に言い直して訊くと、空は無邪気に即答した。「姉ちゃんたちが結婚するまで!」と。晴希はお菓子を分け与えて、口封じをした。私は聞こえないふりをして、話題を変えた。


「明日、話しかけた方がいいかな……」

「一番の友達なんだろ? 悩む必要なんてないよ」

「一番の友達だから、悩んでるんだよ」

 口を少し尖らせて言うと、のほほんとしていた晴希の表情は、グラスの中でカタンと音を鳴らす氷のように、微妙に動いた。

「……今の私を知ったら、茉莉はきっと、失望するよ」

「どうしてそう思うんだ?」

 穏やかな口調で訊きながらも、その目はとても真剣だった。直前まで、晴希の髪をいじって遊んでいた空も、何かを察したのか、少し後ろでお行儀よく正座した。

「私はもう、茉莉が好きでいてくれた頃の私じゃないから」

「昔は、今よりもかわいかったってことか?」

「いいや、そういうことじゃなくて、人間性の話だよ。今と昔じゃ、本当に正反対なの。昔は、ただ明るく振舞っていれば、人から嫌われずに済んだけど、中学に入って、明るく振舞う私を嫌う人がいるってことを知っちゃって、その上、中一の夏にお父さんが……」


 ――放置されていたら、きっと、いつまでも話し続けていたと思う。晴希は、いつの間にかできていた私の握りこぶしを包み込むように、そっと自分の手を乗せた。


「……ごめん、つい熱くなっちゃった」

 籠もった熱を冷ますように、私は、コップに注がれた三ツ矢サイダーを一口飲んだ。

「いいんだよ」

 握りこぶしをほどいて、地面を這う樹木の根のような、大きく角ばった晴希の手を、ギュッと握った。そして、「さて、晴希はどんな言葉をくれるのかな?」と、黒縁の眼鏡越しの丸い目をじっと見つめた。

「茉莉ちゃんは、そんなちっぽけな子じゃないだろ?」

 私の目をじっと見つめ返して、熟練の教師のような口調で、諭すように言った晴希。……ほんの数秒で耐え切れなくなって、私は思わず微笑んでしまった。


「……あれ、茉莉、どうして笑ってるんだ?」

「面白くてさ。その言葉、既に何回も自分に言い聞かせてたから」

「……ああ、そうかい。悪かったな、月並みの言葉しか言えなくて」

「違うよ。自分でいくら言い聞かせても、少しも心が動かなかった言葉なのに、晴希に言い聞かせられると、どうしてこんなに、スッキリした気持ちになるんだろうって、おかしかったの」 


 ――わけがわからない、という顔をした空は、そろそろ痺れてきたらしい小さな足を、ドンドンと畳に打ちつけていた。そんな姿を眺めていると、不意に母性のようなものが湧いてきて、私は心の中で呟いた。「いつか空も、この気持ちを教えてくれるような、素敵な人に出会えるよ」と。


「……さて、鈴の気持ちも固まったみたいだし、お線香を供えに行こう。今日、お父さんの月命日だろ?」

「そうだね」

 手を繋いだまま、立ち上がる。貧血で少しクラッとしてから、私は晴希と、タンスだけがそびえ立つ殺風景な和室を発った。


 ――中一のある晴天の真夏日、私のお父さんは、交通事故で帰らぬ人になった。あの夜は、昼間かと思うほど暑く、私は自分の部屋の床に寝転び、胸が見える寸前まで服をめくり上げて、うちわでお腹を扇いでいた。

 ガタンと扉が開く音がしたから、私は急いでお腹を隠し、起き上がった。

「ノ、ノックくらいしてよ!」

 弟たちだと思って、睨みつけたその人は、なんと、青ざめた顔で全身を震わせているお母さんだった。


 ――お母さんの口からポロポロと零れる、信じられない言葉たちを聞きながら、私は思い出していた。仕事帰り、私たちが出迎えると、ヘトヘトになっているはずなのに見せてくれた明るい笑顔を。テレビを見る時とかによく寄りかかっていた、頼もしい大きな背中を。そして、全身がしなしなになってしまうくらい涙を流してから、私は理解した。それら全てが、もう二度と戻ってこないということを。


「お父さんも、きっと喜んでるよ。鈴が無事に東高に入学できて」

 お父さんの晴れやかな笑顔の遺影を、眩しそうに見つめながら、晴希が呟く。

「……ありがとね。きっと私、晴希が勉強を教えてくれなかったら、東高に合格できてなかったよ」

 お母さんと弟たちの視線が、束になって私たちの背中に降り注いでいる。恥ずかしさに喉が塞がってしまいそうだったから、私は、気づいているのに、気づいていないふりをして言った。

「中三の冬、お母さんが、働きすぎで病気になって入院しちゃった時も、そう。晴希は、ほぼ毎日私の家に来て、家事を手伝ってくれた。……本当に、私、晴希に助けられてばっかりだからさ、私にしてほしいことがあったら、いつでも言ってね」

「じゃあ……」

 弟たちが、好奇心に満ちた声で、ひそひそ話を始めた。だけど私は、彼らの予想が外れるということを知っている。


「……俺より、早く死んでくれ」

「……わかった。五分だけね」

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