第四話 運命の人

 中学校の入学式の日、私は茉莉ちゃんに出会った。一目見た時から、私好みの顔だなって目をつけていたんだけど、本当に好きになったのは、自己紹介の時。茉莉ちゃんが大真面目な顔で、「市販の粉で作るあの固いゼリーが好きです」と好きな食べ物を紹介した時だ。


 席が近かったこともあり、私は暇さえあれば、茉莉ちゃんに話しかけた。私の勢いに少したじろぎながらも、茉莉ちゃんは笑顔で私の話に付き合ってくれた。こういう時、周りから変な目で見られないのは、同性であることの利点だと思う。

 茉莉ちゃんが美術部に入ると言うので、絵なんてロクに描けない私も、後を追って入ることにした。


佳代かよは、悲し気な絵を描くね」

 部活中、いつも私の隣に座っていた茉莉ちゃんは、私の絵を覗き込んで、よくそんなことを言った。

「そうかなあ、ただ下手なだけじゃない?」

「いいや。佳代の絵は、決して下手じゃないよ」

 木琴の左側を叩いて出したような、茉莉ちゃんの安心する低い声が、私は好きだ。こうやって耳元で話されると、なんだかゾクゾクする。

「……茉莉ちゃんさ、今日、一緒に帰らない?」

「うん、いいよ」

 中学校に入学してから、約二か月が経ったあの日、私は茉莉ちゃんに告白することを決意した。


「……あ、あの、上条茉莉さん!」

「は、はい。なんでしょうか?」

「好きです、付き合ってください!」

「……えっ?」

 校門を出てすぐのところ、古びた自販機の前。ムードなんて欠片もなかったけど、せっかく勇気が出たこの機会を逃したら、告白なんて一生できない気がしたから、私は勢いで想いを打ち明けた。

「……やっぱり、同性の子が好きだなんて、気持ち悪い?」

 私が訊くと、茉莉ちゃんはいつになく確固とした口調で、「いいや」と答えた。

「えっ、じゃあ……じゃあ!」

「今の私は、佳代のことを恋愛対象だと思えていない。だから、告白を受け入れることはできないよ」

 前のめりになっている私とは対照的に、茉莉ちゃんは、どこまでも冷静だった。

「じゃあ私さ、何年でも、何十年でもかけて、茉莉ちゃんを惚れさせてみせるよ。だから……」

 リュックの紐をいじる茉莉ちゃんの手を、さらうようにギュッと握った。すると茉莉ちゃんは、エプロンにしがみつく子供を追い払う母親のように、私の手を優しく外した。

「やめておいた方がいい。そんなことしたら、佳代の心が壊れちゃうよ」

「どうして? どうして、そんな……」

「経験があるからだよ。同性の子に、叶うはずのない恋心を抱いて、苦しんだ経験が」

 少しも表情を変えないまま、一語一語を噛み締めるように言った茉莉ちゃん。直前まで吠えるように反発していた私は、思いもよらないその言葉に、「えっ?」とすっとんきょうな声を上げて、黙り込んだ。

「……詳しく聞かせて」

「うん、そのつもり」


 ――茉莉ちゃんは、不気味なくらい淡々とした口調で、瀬川せがわ鈴という女の子との思い出を語った。カタツムリのようにゆっくりと、通学路を歩きながら、私はその話を聞いていた。


「……鈴が引っ越すと、私たちの繋がりは、月に二回程度の手紙のやり取りだけになった。そして、離れ離れになってから初めて迎えた夏、一緒に遊ぶ約束をしていた夏休みを前に、音信不通になったの」

「えっ、そうなった理由は、わからないの?」

「うん。事故に遭ったり、病気になったりしていないことを、祈ってるよ」

「……結局、今の茉莉ちゃんは、鈴さんのこと好き?」

「わからない。だけどこの先、鈴に会うことはもうないだろうから、わからないままでいいんだと思う。そんなことよりも……今の私には、やることがあるんだ」

 茉莉ちゃんの口調に熱が籠もる。六月のぬるい風が、急に強く吹いて、私たちの前髪をめくった。「やることって?」と私が訊くと、あの日、喉を痛めていた茉莉ちゃんは、風に声を掻き消されないよう、私の耳元近くで囁くように言った。

「たくさん努力して、鈴になんか憧れなくなるくらい、すごい人になること」


 ――全身の細胞が大合唱しているみたいに、体がゾクゾクと震えていた。それは、「大好きな茉莉ちゃんの声を耳元で聞いたから」と説明するには、少し過剰な震えだった。


「……やっぱり、私」

 この人を手に入れるためなら、どんなものでも捧げられる。そう思えるほど、私が茉莉ちゃんのことを好きになったのは、きっと、あの瞬間だ。言葉はもはや、少しの摩擦もなく、滑るように出てきた。

「茉莉ちゃんのこと、諦めないよ」

「……そう、わかった。じゃあ、これからもよろしくね、


 あれは、中三の夏のある日の部活帰り。気が遠くなるくらい殺風景な田んぼ沿いの道を歩きながら、茉莉ちゃんは、「あっ、あの雲、綿あめみたい」とでも呟くように、唐突に打ち明けた。「お父さんの仕事の都合で、来年の春、藤門に引っ越すことになった」と。

「ごめんね、私も昨日聞かされたの」

「どうってことないよ。受験勉強を頑張って、上条さんと同じ藤門の高校に行けばいいだけだから。……だけど、すごい偶然だよね」

 その後、「ちなみに、上条さんの志望校は?」と訊いてみると、茉莉ちゃんは何でもないような顔で、「藤門東高校だよ」と答えた。そこは、この県でもトップクラスの進学校だった。

「……やっぱり、私には無理だ」 

 弱々しく呟くと、茉莉ちゃんは、「菊川さんならできる。大丈夫だよ」と言って私の手を握りながら、励ましてくれた。

 「ハグや間接キスもダメだからね」とか、「好きになるまでは、名字で呼ぼうと思うの」とか言ってくるくらい、茉莉ちゃんは、私を厳格に恋愛対象として扱ってくれている。なのに……どうしてこうも、すぐ手を握ってくるのかな。

「……藤門東だろうが、開成だろうが、灘だろうが、関係ない。絶対に合格してみせるよ」

 自分でも、少し滑稽に思えてくる。その時の私は、お母さんに教えてもらった魔法のおまじないを唱えた子供みたいに、何だってできる気がしていた。さっきまでの弱気なんて、もう完全に心から追い出されていた。

「よし、その心意気で頑張って。……まあ、開成と灘は、男子校なんだけどね」


 ――そして、あの日から死ぬ気で勉強を始め、無事に合格を勝ち取った私は、今日、藤門東高校の入学式を迎える。トンボみたいな形の校章がついた、真新しいセーラー服を身にまとって。


「お母さん、またね」

 窓の外に広がる眩しい景色を、ひとしきり眺めてから、私は車を降りた。下手な鼻歌を歌いながら、ヒビの一つもないアスファルトに、真っ黒いローファーを躍らせて、歩いて行く。

「さあて、茉莉ちゃんは……」

 各学年、一クラス四十人で、八組まである東高。やっぱり、中学の時とは桁違いに人が多い。同じ時間に到着しようと、話し合っていたんだけど、私の方が短めの渋滞につかまって少し遅れちゃったから、もしかしたら、もう校舎の中かも。

「……あっ、いた」

 私の前を歩く、仲が良さそうな男子三人組の肩の間に、すましたオオカミのような茉莉ちゃんの横顔が、ふと覗いた。

「茉莉ちゃ、上条さーん!」

 背中の壁を迂回して、私は、茉莉ちゃんのところに駆けて行った。


    *


 お互い、名前を呼んで確認したわけじゃなかった。だけど、名前の書かれた吹き出しが、頭上に見えているみたいに、私たちは、お互いがお互いだと知っていた。

「……本当に、久しぶりだね」

 聞こえるはずのない音たち。ボールペンをノックする音や、その先端が白紙の上を滑る音が、遠いような近いようなどこかから、聞こえてくる。途切れていた物語は、今、再び紡がれようとしていた。

「う、うん。そうだね」

 家に強盗が押しかけてきた時の対処法や、地球に隕石が落ちてきた時の対処法を考えるみたいに、「もしも再会できたら、どんな話をするか?」ということも、既に考えていたはずだった。そして現に、睡眠時間を三時間くらい犠牲にして考えた、その対応の仕方は、今でも私の頭の中に残っている。

 ――なのに、どうしても喉が詰まってしまうのは、そのおでこの右上辺りで咲いている、小さな桜のせいだろう。


 意味のない言葉をキャッチボールしただけで、大切なことは何も言えないまま、私たちはタイムリミットを迎えた。

「おはよう、上条さん」

「おお、鈴。早かったな」

 人混みの中、中央分離帯のようになっていた私たちの元に、突っ込んできたのは、見慣れた軽自動車と、見慣れない縦長のトラックだった。

「お、おはよう、晴希はるき。……あのさ、お話の続きは、明日の放課後にゆっくりしよう」

 晴希という名前らしい、眼鏡をかけた背の高い男の子。彼の「どうぞ、お構いなく」という顔に、チラチラと視線を遣りながら、鈴は言った。

「わかった、そうしよう。……じゃあ、また明日ね、鈴」

 最後に、あえて名前を出してみた。キョトンとした顔で、「えっ、鈴って誰ですか?」と返してくれる可能性を信じて。

「茉莉、明日は教室まで迎えに行くからね」

 その言葉を聞いて、可能性が潰えたのを確認すると、私は、菊川さんの手を取って、振り返らずに立ち去った。


「髪も長くなってるし、肌も白くなってるし、背もあまり伸びていないし、彼氏と思われる男の子もいるしで、ちょっとビックリしたね」

 私の気持ちを見事に代弁してくれた菊川さんに、私は無言で頷いた。

「……それにしても、綺麗な人だったなあ」

 しみじみと呟き、いたずらっぽい顔で、「やっぱり私、鈴さんの方に乗り換えようかな」なんて笑ってみせた菊川さん。だけど、あいにく今の私には、ツッコミを入れる余裕もなかった。抗議の気持ちを伝えようと、その横顔を無言で睨んでみると、菊川さんは、心の底から愛おしそうな眼差しを、私に向けた。

 ――ああ、やっぱりこの人は、私のことが好きなんだ。そう再確認する度に、いつもの私は、くすぐったいような嬉しさを感じるのだけど、今の私は、ただただ絶望的な気持ちになっていた。


「ふふっ、嘘だよ。……まあ、ゆっくりと向き合っていけばいいんじゃないかな。時間は、たっぷりあるからさ」

 風にサラサラと揺れる、菊川さんの天然の茶髪。その隙間に、開花を間近に控えた桜の大きなつぼみが見えた。

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