キエラの糸

薮 透子

キエラの糸






 明かりを落とした布団の中でふと瞼を開けると、一本の糸が天井からぶら下がっているのが見えた。淡い月明かりに照らされて微かに確認できるその糸は、普段コンタクトや眼鏡で生活している人には見つけられないかもしれない。仕事で画面を睨みつけているのに一向に下がることのない視力は、ふとした時にこの糸を見つけてくれる。


 僕はそれを、キエラの糸と呼んでいる。悪夢を見て目を覚ました時に一番に見つけたのがこの糸で、まるで蜘蛛の糸だと思ったところから名付けた。確かどこかの国で糸のことをキエラと呼んでいた気がする。つまり日本語に訳すと「糸の糸」。サハラ砂漠みたいだと思ったけれど、それをキエラの糸だと認識するとそれ以外の名前が思いつかなかったのでそのまま呼ぶことにした。


 その糸は、夜だけ現れる。明かりを落として眠りにつこうと瞼を下ろしている時。ふと目を開けると、いつの間にか目の前にある。天井から下がっているということは分かるが、居なくなった後にどこへ行くのかは分からない。ストレスで眠れない日が続いていてもキエラの糸を見ているといつの間には眠ってしまっていて、薬も効かない体が嘘みたいに感じる。


 作った資料に文句を言ってくる上司の言葉も、それを陰で見ている同期の笑い声も、やり方が分からないと甘えながら仕事を押し付けてくる後輩の長い爪も、毎日僕の体を少しずつ削り取っていく。削り取られた部分を隠すようにその糸で縫ってしまえたら、僕の体は毎日ふらふらにならずに済むのかもしれない。怪我を放置して膿んで取り返しがつかなくなる前に治療しないといけないと思ってはいるものの、ほとんど効かなくなった睡眠薬をぼりぼりと食べているだけだ。食べすぎると毒になるから数量は守っているけれど、小腹を満たすためだけのものでしかない。


 僕がキエラの糸に触れることは無かった。窓を開けていると入り込む風で揺れることはあるけれど、風鈴の舌のように心地よい音を鳴らすわけではない。視界の内で揺れるだけ。風に押され、一瞬だけ止まる。世界が止まったのかと思う。もしかしたら明日が来なくて済むかもしれない、と期待をするけれど糸は再び動き出す。その瞬間に体の力が抜けて、眠りに落ちているのかもしれない。とにかく僕は、キエラの糸によって眠ることが多くなった。睡眠薬なんて気持ち程度に呑むだけだ。


「藤村くん、ちょっといいかな」

 えぐり取られてすり減った体を引き摺りながら歩いていると、別部署の課長から呼び止められた。

「この間依頼したやつまだ届いてないんだけど、進捗はどうかな」

 一週間前に急に頼まれたことだったが、それなら昨日残業して完成させ、確認のために上司に提出したはずだ。その事を伝えると、「まだ受け取っていないって言っていたんだけどな」と返されてしまった。今朝も確認のお願いをしたはずなのに。確認します、とだけ答え事務所に戻り、上司に声を掛ける。


「そんなもの、受け取ってない」

「今朝もお願いしたはずですが」

「はず、なだけじゃない? 君の勘違いじゃない?」


 黄色い歯を覗かせる上司は、どこかあざ笑うように僕を見ている。口臭も気にせず大口を開いて笑う彼にどうして美人の奥さんがいるのかが分からない。こんな年の取り方はしたくないと思った。


「というか、ちゃんと作ったの? 送ったって言って嘘を隠そうとしているんじゃない?」


 依頼されたものを作るのに時間はかかるが、締め切りを破ったことは一度もない。時間を守らないのは社会人の恥だと父から教わったことを守り続けている僕は、反射的に言い返しそうになった。背後から聞こえる笑い声に気が付き、奥歯を噛んで溢れ出てきそうな言葉を飲み込む。


「もう一度送るので、すぐに確認をお願いします」

 そう言って自席に戻り、昨日作成したものを探した。しかし、どこを探してもデータは見つからなかった。可笑しい。昨日ここに保存したはずなのに。その瞬間、背後から聞こえていた笑い声の意味に気が付いた。あれはいつものように僕を馬鹿にしていた笑い声ではなかったのだ。いつになったらデータを削除したことに気づくだろうという、とても社会人とは思えない子供じみた、げすい笑みだったのだ。僕が全てに気づいたとき、笑い声が大きくなった。誰かが笑うたびに背中の肉を削っていく。少しずつ、少しずつ。くすくすと小さく笑う声。可愛らしい声でも、フォークが繰り返し背中に当たれば血が滲み、削れていく。


 僕はそれに気づかないふりをした。今日はいつもより背中が痛い気がする。たったそれだけ。データを作成するため、新規テキストを立ち上げた。


 一週間かけて作成したものを再び作り上げた頃には、短針はてっぺんを越え、傾き始めていた。今から帰宅して布団に入る頃には、朝日が昇っているかもしれない。果たして帰宅する意味はあるのだろうかと残ることを考えたが、一度落ち着ける場所で身を休めたいという思いが勝った。タクシーを呼び帰宅する。寝静まった街は暗い。


 帰宅して一番にスーツを脱ぎ、シャワーを浴びた。体を洗う気力も無くシャワーを浴びてすぐに体を拭く。毛先から落ちる雫を気にも留めず、布団に倒れ込んだ。もう立ち上がれない。明かりを落として瞼を下ろす。きっとすぐに朝が来てしまう。


 朝は来なかった。もう起き上がれないほど疲れ果て、頭ももう動かないというのに、僕は眠りにつけなかった。深夜まで働いて疲れているはずなのに、何もしなかった休日のように目が冴えている。目だけが、起きている。今眠らないと、明日は立っていられないかもしれない。いつも、ふらふらになりながらも耐えられているのは、眠って体を休めているからだ。一日の傷を布団で癒し、かさぶたにしているから、失血による貧血を起こさすに済んでいる。それなのに今日は、ゆっくりお風呂に入ることもできず、髪を乾かす余裕もないまま眠ろうとしている。もしかしたら風邪を引くかもしれない。それは、風邪を引いてまでも眠らなければならない理由があるからだ。座っているだけで笑われ、馬鹿にされ、仕事を押し付けられ、奪われて。そんな社会の中にいてももみくちゃにされずにいるために、僕は今夜も眠らなければならないのだ。明日の僕が明日を乗り越えるために、少しでも現実から遠ざかる。それが、僕が僕のためにできる、唯一の休息だ。誰にも邪魔されることのない、静かな場所。早くそこへ行きたい。僕をこの現実の苦しみから解放してはくれないだろうか。


 眠ろうと強く瞼を下ろしていたとき、ふと力が緩んだ。それはいつもの感覚。

 目を開ければ、キエラの糸があった。静かに天井から下がる糸は、僕の目と鼻の先で、少しも揺れることなくそこにいる。細く、細く。蜘蛛の糸のように細い糸。いつも僕を眠らせてくれるその糸が、今日も現れた。


 じっと見つめる。早く、早く連れて行ってくれ。今日は時間が無いのだから。明日はすぐそこまで来ている。既に今日は明日になってしまったのだけれど、その現実を受け止めたくなかった。受け止めてしまった時、僕が現実から逃げる時間はいつやってくるのだろうか? 毎日その時間だけが僕の救いだというのに。眠れず、糸を見つけ、安らかに落ちる。そんな時間すら与えてくれない世界に、僕は何を期待していればいいのだろうか。それが無くなってしまうのなら、僕は残したままの仕事を放って逃げ出してしまっても良かった。僕にしかできない仕事があるのなら、そんな会社潰れてしまえばいい。


 僕はいつの間にか手を伸ばしていた。動かなかったはずの腕を伸ばして、目の前のキエラの糸を目指していた。


 キエラの糸が毎晩僕を救ってくれたように、今晩もあなたが僕を救ってくれないだろうか。生きているだけで体が削り取られ、いつしか立つこともできない体になってしまう前に。醜い体になってしまう前に、僕をこの現実から連れ出してはくれないだろうか。あなたは朝になると何処かへ消えてしまう。そこへ僕も連れて行ってほしい。朝を迎えても消えてなくならない、夢の世界。ずっと眠っていても怒られず、心地よい眠りを誰にも邪魔されない場所とはきっと、キエラの糸が帰る場所なのだ。そう確信していた。あなたの帰る場所へ、僕も帰りたい。そこを僕の帰る場所にしてくれないだろうか。誰もいない部屋よりも、あなたのいる場所の方がうんと帰るのが楽しみだ。きっとそうだ。僕は本当は、そこに還るべきなんだ!


 初めてキエラの糸に触れた。手を繋いだ気がした。空気がキエラの手となって、僕の手を包み込んでくれた。温かかった。キエラはきっと温かい心を持っている。温かさに触れたのはいつぶりだろうか。小学二年生の時に母が死んでからは、一人で眠る夜を過ごしていた。手を繋いでくれる人はいない。家族も恋人も、誰も僕の手を繋いでくれなかった。


 今は、キエラが手を繋いでいてくれる。


 そうか、キエラというのは、女性の名前だったのだ。僕をずっと見ていてくれた女性の名前。キエラさん、キエラさん。あなたは一体誰なんですか。僕を救ってくれますか。僕が眠るまで、手を繋いでいてくれますか……──?


 キエラさんの手を握っていた指が、空を掻く。そこにあったはずの手は、空気に溶けて消えてしまった。あ、と声を漏らしたのも束の間、僕はキエラの糸を握っていた。細く、細い糸。噛んで短くなった爪が皮膚に食い込むまで握ったところでようやく糸に触れた感覚があった。もっと触れていたい。もっと握っていたい。強く強く、力を込めた。


 僕はいつの間にか、キエラの糸を引っ張っていた。


 その瞬間、目の前が白く光る。糸を睨みつけていた僕の目に光が刺し、声が漏れた。痛い、目が痛い。それでもキエラの糸を離さなかった。むしろ引っ張った。このままどこかへ消えてしまった時、僕はどうすれば良いのだろうか。ようやく触れられたのに、もう二度と消えないでほしい。ここにいてほしい。あなたが帰ると言うのなら、僕も連れて帰って欲しい。だってそうだろう、僕の還るべき場所なんだから! 僕を連れて行け!






 目の痛みが治まってきて、ゆっくりと瞼を開けた。またほのかに明るい。それ以上に意識が向かったのは、視界で揺れる白いものだった。


 花びらだ。天井から白い花びらがいくつも落ちてきているのだ。空を舞う様に雅に降る花びらは、雪に似ている。握りしめた手に、キエラの糸は無かった。彼女は糸の代わりに花を降らせてくれたのかもしれない。僕を連れて行ってくれなかったキエラさんを恨むこともできないまま、白い明かりで満たされた部屋で降る花びらをただ見つめていた。


 この明るさが朝日だと気付いた時、僕の中で糸が切れる。



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キエラの糸 薮 透子 @shosetu-kakuko

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