第7話 ガル子、遠征する(後)

 その2匹の茶斑のビーグルの飼い主は、若い人間の夫婦だった。

 男は中肉中背でしょっちゅう変な匂いのする煙を吸っていた。女は同じく中肉中背で茶色い髪の毛をしていた。たくさんの人間が暮らす建物の一角で人間2人と犬2匹で暮らしていた。毎日、散歩に連れられ、たまに週末には少し遠出して海や山に出かけていく。

 そんな日常がずっと続いていくものだと思っていた。

 やがて夫婦の間に子どもが生まれた。まだ幼い人間の子どもはひとりで食事もできない。飼い主のように二本足で立つこともできなかった。夜中によく泣いて皆を起こし、糞尿を漏らすたびにまた泣いた。夫婦の笑顔は次第に消えていった。生活は子ども中心に一変し、散歩は三日に一回になった。

 その日は静かな朝だった。不思議なことに部屋のどこにも子どもの姿がなかった。

 朝からいつになく食べ物を多く与えられた。誕生日やクリスマスなど特別な日しかくれない美味しいやつだ。しかもこんなにくれるのは珍しい。食事を終えると車に乗せられた。車で出かけるのも久しぶりだった。車の中も飼い主同士の会話もなく、やけに静かだった。

 2匹が降ろされたのは来た覚えのない山中だった。周りは木々で囲まれて、それ以外に何もない。空気がひんやりとして少し肌寒かった。

「■▲○◇」

 これは待ての合図。

 ギュッとハグされて、そして首輪が外される。首輪はトリミングに行くときかシャンプーするときしか外されない。

 飼い主は2匹を置いてそそくさと車で行ってしまった。飼い主の待ての合図は解かれていない。

 見渡す限り森の中だった。夜が来て朝が来た。草の葉に付いた朝露を舐めた。ただそれだけでは腹は満たされなかった。

 再び朝がき来ても飼い主は戻ってこなかった。2匹は「待て」を破った。 

 自分でエサを獲ったことなどこれまで一度も無い。こんな山奥で食べるものは見つからなかった。そこら辺に生えている草を食べて飢えを凌ぐしかなかった。おいしくはない。すぐにお腹を壊した。

 食べなければ死んでしまうしかない。一匹は早々に腹痛のために衰弱して飢え死にし、残った一匹のみで山中を彷徨った。

 何とか人里までたどり着いた。毛はボロボロで体もすっかり汚れてしまっていた。どこへ行っても追いやられる。仕方なく村の鶏を襲うが、見つかって村人から袋叩きにされた。

 ボロボロになりながらも、残った一匹は立ち上がった。どうしても生きなければいけない理由があった。

 お腹の子どもを産まなきゃ。この子たちを守らなきゃ。

 残った一匹は力尽きその場に倒れた。空腹でグルグルと目が回る。

「・・・力を・・・」

 どこからか声が聞こえた。打たれ過ぎて痛みで距離感がつかめない。すぐ近くに気配を感じるが、その姿は見えなかった。

「・・・その願い。叶えてやろう」

 次の瞬間、燃えるような熱が体の奥底から広がっていく。視界が黒く歪んだ。


***


「そしてその後、生まれたのが私たち兄弟なんだよ。母親は産んでしばらくして死んしまった。そのせいで私たちは生まれながらにバケモノなんだよ」

 目の前の茶斑のビーグルは言った。

 頭の半分だけが黒い影に覆われ、フール化していた。その口調ははっきりしている。

 栗毛のトイプードルはフールに囲まれていた。全部で5匹。

 巨体のフールは後ろ左足だけが茶殻の毛並みがのぞき、それ以外の体のほとんどの部分を黒い影に覆われていた。他の3匹も一部だけがイヌの毛並みのままで完全なフール化を免れていた。同様に体の小さい小柄のフールは尻尾だけ、背中の一部だけ、腹の一部だけ、本来の毛並みが覗いている。

 ガル子が一歩でも近付こうとすると、ガルガルと殺気を放ち今にも飛びかかって来そうだった。

「近づかない方がいい。まともに会話ができるのは私だけだよ。私だけ黒い影に覆われている部分が少ないからその分、力は使えないけど、この黒い影の部分があるからなのか、なぜか兄弟たちも私の言うことしか聞かない」

「なんで?こんなことしてるの?人間にケンカ売ったらこの世界では生きていけないことくらい分かっているでしょ」

「私たちだって争いたいわけじゃない。生きていくために仕方ないんだ。できることならこのまま放っておいて欲しい。さっさと帰って仲間に伝えてくれ。これ以上関わってくるならこちらも容赦しない」

 この世界はどこもかしこも人間で溢れている。

 弱肉強食。強いものが生き残り、弱いものは滅んでいく。その生存競争でトップに君臨しているのが人間だ。弱者はそのルールに従うしかない。イヌは不自由も不都合も受け入れる代わりに、安息を手に入れた。きっとイヌだけでは世界中にここまで増えなかっただろう。人間とイヌは共存している。

「人間と関わらずに生きていくなんて、本気で思っているの?」

「別に長生きしたいとは思っていない。やれるところまでやってみるさ」

「なんで、私を助けたの?」

 ガル子の前足の傷は治りかけていた。

 茶班のビーグルが命じて腹の一部だけ白斑が覗くフールに治した。会得したばかりの自分の応急処置だけでは傷が深くて止血さえできなかっただろう。

 フールが使うチカラはケモ力と似ている?

「言っただろ。おまえらと争いたいわけじゃない」

 茶班のビーグルに呼びかけようとして、 あることに気付いた。

「あなた、名前は?」

「名前なんてない。母も名前を付ける前に死んでしまった・・・。どうせ呼び合うこともないんだ。私たちには必要ない」

 闇夜の中に溶けて茶斑のビーグルの顔の半分を覆う黒い影がガル子には一層濃く見える。それ以外は私たちと何も変わらない普通のイヌに見えた。

 フールって、いったい何なの・・・?


 夜の森の中に吹く風が枝葉をカサカサと鳴らす。

 鈍色のスーツを着た銀毛のトイプードルが草むらに潜んでいた。着ていたスーツはあちこちを駆け回り泥だらけになっていた。

「おい、いつまで隠れているんだよ。もういいだろ。オレ一人でもガル子を助けに行くからな」

 正太郎の眼は血走っていた。

「まーまー落ち着いて、正太郎」

 黄金色のゴールデンレトリバーが首根っこを銜えながら宥める。

「敵は手強い。連携も取れてる。こっちも闇雲に突っ込んでいくだけではダメだ」

「もう手遅れだよ、あの栗毛は。敵にヤラれてもう死んでるって」

 隠れていた木陰から出てきた白眉のチワワがブルブルと体を震わせて、乱れた毛並みを整えた。

「なんだと!ガル子は生きてる。死んでなんかない」

 正太郎は尻尾を逆立てた。

「弱いイヌほどよく吠える。でも死んだらもう吠えられないか」

 飛び掛かろうとする正太郎とリイフの間に、漆黒のドーベルマンが割って入った。正太郎と睨み合う格好となり、沈黙し重苦しい空気が辺りを包む。

「はいはい、ケンカしない。大丈夫だよ、ガル子ちゃんはきっと生きてるから。本当は一旦は退くべきなんだろうけど、こうなったのもぼくの責任だ。聴いてくれ、考えがある」

 にっこりと微笑んだ後、ココは3匹へ説明を始める。


 かつてここは山城だった。

 その名残が随所に残されている。崩れかかっている箇所もあるが、石畳が山頂まで伸びていた。山の中腹より上は木が伐採されて視界が開けている。山頂に近付くものがあればすぐに分かった。背後の森は生い茂った木々が邪魔して急襲するには適していない。

 その山頂から茶斑のビーグルが麓を見下ろしていた。

 その背後に栗毛のトイプードルがそっと近付く。

「おまえ、まだいたのか」

「おまえじゃない。私はガル子よ。帰るタイミングは自分で決める」

「好きにしたらいい」

 ガル子が茶班のビーグルの横に立って並ぶ。

 陽が落ちると見渡す限り森は真っ暗だった。麓から山頂に向かって吹いていた。ここなら誰かが接近してきたら匂いで分かる。

「あの、ねえ・・・、やっぱり名前が無いと不便だわ。何て呼べばいい?」

「名前なんて必要ないって言っただろ。どうしても呼びたいなら好きに呼べばいい」

 ガル子は少し考えて、

「じゃあ、ポチで」

 茶班のビーグルはキョトンとした。

「なんだそれは?」

「知らないの?昔からあるイヌの代名詞みたいな名前よ」

 ポチ、ポチ、とガル子は繰り返した。

「好きにしろ」

 ポチと呼ばれたビーグルが言葉を返した。

 時折、吹く風が2匹の体毛を揺らす。山裾から山頂に向かうその風に異質なモノが混じっていた。

 その時、急にポチの顔つきが変わった。

「来る」

 一気に緊張が走る。ガル子にもそれが分かった。その姿は見えないが、よく知っている匂いだった。

「正太郎ーーー!!」

 ガル子が叫ぶ。その声に呼応するように細長く糸のように伸びた鎗が真っ直ぐにこちらに向かってきた。

「兄者」

 ポチの号令に、背中だけが茶斑のフールが現れた。

『反射盾』

 いきなりそこに現れた巨大な盾に当たって、壱尾鎗は跳ね返された。

 その方向から銀毛のトイプードルが真っ直ぐこちらに向かって駆け上がってくる。 

「やっぱり生きてたんだな、ガル子」

 跳ね返ってきた壱尾槍は技が解除されて尾は元の大きさに戻った。

 正太郎は夜の闇の中に黄色く発光していた。遠くからでもはっきりと視認できるほどかなり目立つ。

『雷猿』

 山の斜面に沿って四方に稲妻が走る。

「ムダなことを」

 ポチに向かってきた稲妻は盾に当たって跳ね返された。

 再び正太郎は雷猿を放つ。跳ね返ってきた雷猿とぶつかり激しく発光して一瞬、ポチの目が眩む。

 その隙に右側に黄金色のゴールデンレトリバー、左側には白眉のチワワが回り込んで一気に駆け上がる。

 ココが大きく息を吸い込んで青白い炎を吐き出す。

『インブレス』

 腹の一部だけ白肌がのぞくフールの背中から黒い円盤が出て、青白い炎を切り裂いた。円盤はそのまま真っ直ぐにココに向かってくる。あと頭2つ分ほどの距離に迫った。

 その時、漆黒のドーベルマンが後ろ足で円盤の上から中心部を蹴って軌道を変えた。

 反対側に回り込んだリイフが距離を詰めていた。

「まだだ」

 あと少しリイフが近づく時間を稼がなくては。

『インブレス』

 ココは辺りに青白い炎を巻き散らす。炎が燃え広がった。

 ココの作戦の内容はこうだった。

 周りの状況を見て指示を出しているやつがいる。まずはその指揮者を叩く。

 正太郎をおとりにして、相手の注意を引き付ける。その間にココとリイフが横から回り込む。ココとテトもおとりに使う。なるべく派手な技を使って。

 リイフは跳躍して跳んだ。その身体は朱く発光していた。空中でポチに狙いを定める。

『七式・レーザー』

 口からレーザー光を放つ。

「無駄っていうのがまだ分からないのか」

『反射盾』

 レーザーの軌道に現れた盾に跳ね返される。それは真っすぐ跳ね返ってきてリイフの体を貫いた。

 リイフはポチの足元へ転がった。

「あと少しだったのに惜しかったな」

「いやまだだ」

 リイフは笑みを浮かべる。リイフの身体は無傷だった。単に閃光を出すだけの武器から違う武器に換装した。その先には碗状のアンテナがあった。

『七式・ソニック』

 超音波兵器。リイフはポチの至近距離から放った。辺りに高周波がビリビリと木霊する。

「これだけ近距離で受ければ、しばらく耳は使えないだろってもう何も聞こえてないか」

 マズい。兄者たちは私がいないと、手加減ができない。早く治療しないと。

 キンキンとする耳を押さえながらポチは後退した。

 リイフの背後で巨体のフールが後ろ足で立ち上がった。山の頂よりも更に背が高くなる。巨体のフールはその巨大な前足をリイフに向かって振り下ろす。

 その風圧で地面が揺れた。

 テトがリイフの背後に立つ。4本の足が地面にめり込んでいたが、頭部でその前足を受け止めた。潰そうと体重をかけるフールを地面を蹴って跳ね除けた。

 後退りする巨体のフールの頭部に前足を振り下ろす。今度は巨体のフールの4本の足が深く地面にめり込んだ。


 銀毛のトイプードルは栗毛のトイプードルを探していた。

 石垣が続く迷路のようになっていて、自分がどちら方向に進んでいるのか分からない。

「ガル子、どこだ?」

 その背後から黒い円盤が迫る。

「その技はもう見切った」

 外回りは回転して力が強く弾かれてしまうが、中心は回転の力が小さい。その中心を狙って壱尾槍で口刺しにする。

「ガル子を返せ。手加減しねえからな」

 正太郎の身体はいつにも増して黄色に強く発光していた。


 白眉のチワワは舌なめずりして、目を付けていた尻尾だけ毛が見えるフールの前に立った。

「よう。昨日のあごの一発、よくもやってくれたな。1対1(サシ)で私に勝てると思うなよ。聞こえないか」

 リイフの体は朱色に発光した。


 黄金色のゴールデンリトリバーは段々とガル子の匂いが強くなっているのを感じていた。

 近い。

 ココは前方の道を塞ぐツタに向かって、青白い炎を吐き出した。

 そこに盾が現れる。何重にも立体的に重なる。青白い炎は跳ね返された。ココはそれを躱しもせずその身に受け止めた。

「後ろに何を隠しているのかな。こちらも一気に行かせてもらうよ」

 その身に受けた青白い炎がその形相を変えた。

『青白い飛鳥(バルバトス)』

 青白い炎が躍り出す。生き物のように揺らめいて辺りを焦がす。グツグツと地面が溶け出した。


 茶班のビーグルの視界に巨体のフールと漆黒のドーベルマンが肉弾戦の様子が目に入った。体格差は5倍以上だというのに、テトの後足が巨体のフールの顔面に見舞う。明らかに押されていた。

「兄者たち。ここは一度退いて体制を立て直そう」

 辺りの戦況を見てポチは叫んだ。しかし巨体のフールは動かなかった。

「ダメだ、声が聞こえていない。誰も私の言うことを聞かない」

 ポチは声が届き易いように高い塀の上に駆け上った。

「兄者。聞いてくれ!!」

 やはり声は誰にも聞こえていない。

「ポチ、もう止めよう。戦う必要なんてない。無理に戦わなくても私たちは分かり合えるじゃない」

 ガル子が塀の下にいた。

 その時、ポチの右肩を何かが打ち抜いた。一瞬、何が起こったのか、理解できなかった。ポチはその場に伏せた。

 ガル子が辺りを覗うと周りの山から人間の匂いがした。ひとりふたりの数ではない。

 囲まれている?

 再び銃声が響いた。背中だけ茶班のフールが反射盾を出す。いくつかの弾丸を打ち返した。

 ココがこちらに近づいてくるのが見えた。すぐに青白い炎に焼かれて盾は崩れ落ちた。

 ガル子は塀に駆け上がり、銃声の方角とポチの間に立った。

「やめろ。もう勝負は付いてる」

 ガル子が吠えた。

「人間にイヌの言葉が分かるはずないだろう。いいんだ。人間を襲った時からこうなることは覚悟してた」

 ポチが体を入れ替えガル子の前に立つ。

 ガル子の目の前で、茶斑のビーグルの体は無数の弾丸に撃ち抜かれた。

「ポチっていい名前だな・・・」

 倒れ込んだポチの最期の言葉になった。そして二度と動かなかった。

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