第3話 ガル子、仲間と共闘する

 静寂に包まれていた。時折、締め切れていない蛇口から水滴が落ちる音が響く。

 ぴちょん。ぴちょん。ぴちょん。

 薄暗い部屋の中で、黒ぶちのダルメシアンがゲージに閉じ込められていた。

 糞尿が溜まり異臭を放っていた。エサ皿も水を入れたトレイもすでに空っぽだった。ダルメシアンは動けずぐったりとしていた。

 ここから外に出たいな。本当はボクは寝るのも待つのも嫌いなんだよ。それにしても、ああ、お腹空いたな。もう何日食べてないんだっけ?お腹が空き過ぎてもう立ちあがれない。

 このまま死んじゃうのかな・・・。

 ふとダルメシアンは気配を感じて頭を上げる。気のせいだろうか?暗がりの部屋の中はよく見えない。おまけに漂う異臭のせいで鼻が利かない。

「・・・力を・・・」

 声がした。飼い主じゃない?いったい誰だ?ここには誰も入ってこられないはず。でももう体が動かないや。

「・・・その願い。叶えてやろう」

 身体に触れられたその瞬間、黒く視界が歪んだ。


「なんだよ。これ・・・、虫か?気持ち悪りぃな」

 店から外に出た小太りの中年男はすっかり酔っぱらっていた。焼酎をボトルで空けていた。飲み過ぎて視点が定まらない。

 ただでさえ暗い夜の中、中年男が虫と呼んだモノは黒い小石ほどの大きさで宙を彷徨っていた。

 中年男はそれを振り払おうと、手にしていたカバンを振り回す。それはひらりと躱して中年男の腕に貼り付いた。

 黒い影はひとつでは無かった。足にも背中にもくっ付いていた。それが十ほど体に付いたところで中年男は小さなうめき声をあげてその場に倒れた。

 他にも地面には無数の人間が倒れていた。

「なあ、ガル子。これってやばいんじゃないの?」

 鶯色の迷彩柄のTシャツを着た、銀毛のトイプードルは5階建てのビルの屋上からその状況を見下ろしていた。その隣には栗毛のトイプードルがいる。

「私が行く」

「ちょっと待って。ガル子、敵の正体がまだ・・・」

 正太郎が制止する声も聞かず、ガル子はビルから自由落下した。

 薄緑色に発光したオーラを身にまとうとそれ以上に加速した。地面に着地すると同時に向きを変えて倒れていた人間から影を振り払う。グリーンフィルが影を削り取っていく。

 人間からくっ付いていた影を根こそぎ剥ぎ取った。

「!?」

 ガル子は後ろひざから崩れた。見ると自分の後ろの右足に黒い影がくっ付いていた。空から降る影を躱そうとするが、数が多過ぎる。

 次第に体にくっ付いた影が増えていき、その度に力が抜けていく。バランスを崩した瞬間、黒い影が一斉にガル子に襲い掛かった。

「ガル子ーー!!」

 正太郎はビルの壁を駆け下りながら周知の敵の位置を把握した。

『雷猿(らいえん)』

 正太郎の毛に帯電した静電気を増幅させると六万ボルトの電圧が大気中に流れる。正太郎は四方八方に一斉に放電した。

 電撃に撃たれた影は弾けて跡形もなく霧散した。

「大丈夫か?こいつら、グリーンフィルを逆に吸い取ってやがる」

 ガル子は体のあちこちが影に覆われていた。正太郎が手足で引っ搔いても口で引き剝がそうとしても取れない。

「ガル子、ちょっと我慢してくれよ」

 正太郎は身体にセーブした電撃を流してガル子に付いていた影を消し払った。

「よくもやってくれたな。ぶっとばしてやる!」

 ガル子は毛を逆立た。

 しかしガル子がケモ力を発現しようとしても何も起こらない。いつもみたいに身体が軽くはならなかった。

 どうして?

 ガル子は回想する。背の高い細目の男の言葉を思い出した。

「ケモ力の源泉はそれぞれ違う。愛情だったり執着だったり、満たされたり足りなかったりでケモ力は増えたり減ったりする。ケモ力によって使えるチカラのレベルや種類も変わってくるから普段からしっかり溜めておくんだね。逆にケモ力が空っぽになるとボクの与えた力は使えなくなるから気を付けて」

 イヌ神は確かにそう言った。

「私、ケモ力が無くなってる・・・」

 今まさにガル子のケモ力は空っぽになっていた。

「ヤバいヤバい。こっち来んな」

 正太郎が近付く影に向かって電撃を放ち迎撃する。撃ち落としても撃ち落としても無数の影の群れが次々と増え、二匹を取り囲んでいた。

 そのうちのひとつがガル子を目掛けて飛んできた。

 ガル子はとっさに正太郎の首根っこを咥えて振り回す。影は正太郎の毛に触れるとバチっと雷光を発して消えた。

「く、首痛い・・・」

「うるさい。男でしょ。ちゃんとビリビリしてて」

 静電気の効果で、物体が引き寄せられていく。たとえ影が不規則な軌道を描いても、影は雷猿に次々と引き寄せられていた。

 次々と襲い掛かってくる影をガル子は正太郎で防いだ。闇夜にバチバチという残響と残光を描き続ける。

「ガル子、すまん」

「何?」

「オレのケモ力も減ってきてる・・・」

 影が正太郎の毛に張り付いても一撃では発散しなくなっていた。明らかに雷猿の威力が落ちていた。

「正太郎、あと何発出せる?」

「あと6・・・」

 正太郎は言い終わらないうちに振り回されて、「今、5発になった」と言い直した。

 浮遊している影の数は減っているのか?それとも増えているのか?それさえ分からないほど数がまだまだ多い。

 ここまでか・・・。

 ガル子は正太郎の首から噛み付いていた口を離した。

「・・・ガル子?」

「逃げて。正太郎」

 ガル子は続けて、

「あなたひとりならあと5発もあれば遠くに逃げられるでしょ。私が勇者になんて巻き込んで悪かったね。ごめんね」

 そう言って正太郎の背中を押した。

「さあ早く行って」

 正太郎はプルプルと小刻みに震え、雷撃を放つ。影が一斉に消し飛んだ。

「バカにすんな!!おまえを置いて一人だけ逃げられるわけないだろ!!こうなったら何発でも打ってやるからな」

 正太郎は毛を逆立てて怒りを露わにした。そしてガル子に無防備に首元を差し出す。

 逃げればいいのに・・・。

「急にうるさい。そんな耳元で大声出さないで」

 ガル子は正太郎の首元を再び口に咥えた。

「私に考えがある。このフワフワはいくらでも湧いてくる。本体をやらないとやられる。私に雷猿の一発分だけエネルギーをちょうだい」

「一発だけなんてケチくさいこと言うな。何発分でも持ってけ」

「いやいや、一発分だけでいいから」

 ガル子の体は薄緑色に光り始める。

『乙女のくちづけ(エネルギードレイン)』

 正太郎のケモ力がガル子の身体の中に流れてくる。

 ガル子は近付いてくる影をわざと自分の体に取りつかせた。

 エネルギーを吸っているなら、きっと本体にそれを送っているはず。でもこれは賭けだ。どこにいるかもわからない。それまでこちらが持つのか。力尽きるのが先か。

 ガル子は鼻先に意識を集中させた。後は自分のエネルギーの匂いをたどればいい。それを追えばそこに本体がいる。


 そのフールはゲージの中で飢えていた。

 いい匂いがする。美味しそうな匂いだ。先ほど二本足で立っていた生き物が地面に無数に横たわっていた。邪魔するからだ。

 次々と影たちがエネルギーを吸って持って帰って来た。それがフールの体に吸い込まれていく。実に数日ぶりの食事だった。歓喜のあまり震えた。

 いくら食べても食べてもすぐに腹が空く。これっぽっちじゃ足りない。もっと食わせろ。

 先ほどから抵抗する目障りなこの4本足の生き物は、何だったっけ?


「見つけた。正太郎」

 ガル子が鼻先で方角を示す。すでにガル子の体には影がいくつも張り付いていた。その影響でぐったりとしていた。

「早く行って」

「ダメだ。ガル子を置いていけない」

 正太郎にも影が張り付いていた。体を包んでいた雷猿の光が消えていた。もう影を弾く力が残っていない。

「ここから狙う。この一撃に全てを賭ける」

 正太郎は尾に意識を集中させた。

『壱尾槍(いちおやり)』

 正太郎の尾が黄色く輝き、真っ直ぐにガル子の示す方向に伸びていく。黒い影を貫き、障害物を通り抜けて、伸びるほどに細くなっていった。

「もう少し左・・・」

 正太郎はガル子の指示に従い、壱尾槍の進路を修正した。

 ガル子はすでに体の大半を影に覆われていた。ひとつだけでもケモ力が吸い取られるというのに、ガル子は意識を保つのがやっとだった。

 正太郎の体に取り付く黒い影の数も増えていた。もう一発の雷猿も出なかった。

 フールのいる建物に入った。相手に逃げられれば元も子もない。確実に仕留めるには急所を一撃で貫くしかない。正太郎は呼吸を止めて神経を更に集中させた。

 尾からフールの気配をはっきりと捉えた。相手にも見えているはずだった。それなのにフールはそこから動かなかった。それともその場から動けないのか?

 壱尾鎗はフールの心臓を貫いた。

「痛いだろ。もう楽になれよ」

 正太郎は壱尾鎗を引き抜いた。その瞬間、周りの黒い影が一斉に消えた。

「やってやったぜ、ガル子」

 ガル子の身体に取り付いていた影が消えていた。

 正太郎はケモ力を使い果たし、その場に倒れた。


 締め切れていない蛇口から水滴が落ちる音が響く。

 ぴちょん。ぴちょん。ぴちょん。

 黒ぶちのダルメシアンの周りに黒い影が集まってきた。再び黒い影が身体から浮遊し始める。

 壱尾鎗がわずかに心臓から逸れていた。

「気持ちは分かるよ」

 ダルメシアンの背後に、黄金色のゴールデンレトリバーが立っていた。

「でもいい子だからもう寝てなさい」

『青白い炎(インブレス)』

 ココは青白い炎を吐いた。檻の中にいたフールはその炎に包まれ、完全に消滅した。


 気が付くと、地面が揺れていた。誰かに背負われているようだった。フワフワの毛が心地いい。それは知っている匂いだった。もう辺りにフールのイヤな匂いは無かった。

 栗毛のトイプードルが空を見上げると月が出ていた。満月より少しだけ端が欠けている。

 ガル子が体を起こそうとすると、電撃のようにガル子の体中に痛みが走り抜けた。戦いのダメージがまだ残っている。ケモ力もすっかり空っぽだった。

「まだ楽にしてろよ。家まで送ってやるから」

 銀毛のトイプードルの背中越しに話しかけた。正太郎もケモ力がもう残っていなかった。

「ごめん、すぐ降りるよ。重いでしょ」

 正太郎は、ハアハアと息が荒い。

「いやいいんだ。そんなことよりもっと体を密着させてくれ。そうすれば背中におまえの胸が・・・」

 正太郎の息が更に荒くなる。

「死ね」

 ガル子は背後から正太郎を前足で踏み潰した。

 こいつ・・・、さっきエネルギーを全部吸い取ってやればよかった。


 ***

 その日は暑いくらいの昼下がりだった。

 菫色のフード付きのカバーオールを着た銀毛のトイプードルは飼い主にリードを引かれていた。

 この道には覚えがある。多くのイヌの匂いが入り混じった匂いにも記憶にあった。この先にあるには・・・。

 柵に囲まれていてここに入ると邪魔くさいリードから解放される。他の犬たちもたくさんいて、まさに天国。ドッグラン、万歳。

 正太郎はリードから解放されると全速力で原っぱを駆けた。そして壁際に残された匂いを嗅ぎまくる。特にメス犬の残り香は溜まらない。

「この匂いは前に出会ったマルチーズのマロンちゃーん♡、かすかにレナちゃんの匂いもする♡こっちは誰だろう?」

 正太郎は後ろの片足を上げた。オス犬にとってマーキングは大事な仕事だ。相手のことを知るためでもあり、相手に自分の存在を示すためでもある。

 超かわいい嫁を見つけてたくさんの子どもたちに囲まれて暮らすのがおれの夢だ。飼い主も犬が好きだし問題ないだろう。

 向こうから少し年上の女性のダックスフンドが歩いてきた。

「ねぇねぇそこのお姉さん。オレとハフハフしませんか」

 ハフハフとは体を寄せ合いスリスリすること。

 ダックスフンドは正太郎の目の前を無視してさっさと通り過ぎた。正太郎が追いかけようとすると、

「おいおい、誰の女に声かけてんだ、てめえ」

 野太い声の方へ振り返ると、黄土色の秋田犬が立っていた。

 で、でかい。筋肉が隆々としていた。丸太のように太い脚。立っているだけでまるで壁。こんなでかい犬に出会ったのは初めてだった。

「あのお姉さんはあなたのヨメですか?付き合ってるんですか?」

 見上げる相手に声が自然と震えてしまう。秋田犬は更に凄みを利かせてくる。

「オレが先に目を付けてたんだ、なんか文句あるのか。おい、なんとか言え。チビ」

 尻尾がだんだんと下がってくる。

 下がるな、尻尾。

「みっともない」

 そこに、黒い瞳、濡れた鼻先、短い尻尾、栗毛のトイプードルが近づいてきた。

「ここはみんなが楽しくする場所でしょ。こんなところでケンカなんてしないで。周りを見てみなよ、空気が悪くなる」

 ドッグランに来ていた犬たちが白い目でこちらを見ていた。

「何、見てんだよ」

 秋田犬は吠え立てて威嚇する。

「弱い犬程よく吠える」

 栗毛のトイプードルは呟いた。

「なんだと。捻りつぶしてやろうか、チビ」

「やれるもんならやってみろ。このウドの大木が」

 胴回りが秋田犬の足の一本分しかないというのに栗毛のトイプードルは一歩も引かなかった。

 互いに真正面から一ミリも目を逸らさずに睨み合っている。一触即発だった。見ている方がハラハラする。

 栗毛のトイプードルの眼力に押され、秋田犬は目を逸らした。

「わかったよ。おれが悪かっ・・・」

 次の瞬間、栗毛のトイプードルはジャンプして、秋田犬の鼻先に噛み付いた。

「きゃん」という鳴き声が辺りにこだました。慌てて互いの飼い主が止めに入る。

 秋田犬の飼い主は、頭を下げてこっぴどく秋田犬を叱りつけ、尻尾はずっと下を向いたままだった。

 その間、栗毛のトイプードルは老人に抱きかかえられていた。この人間が飼い主なのだろうか。

 秋田犬が飼い主に連れられて去り、いつものドッグランの光景に戻った。犬たちは走ったりじゃれ合ったりしている。

 正太郎は、先ほどの栗毛のトイプードルに話しかけた。

「ねぇねぇ。どこから来たの?ねえってば。キミ、いい匂いがするね。シャンプー何使ってるの?」

 完全に無視された。

「ねえ、おれとハフハフしようよ」

 正太郎が体を寄せると、

「ぎゃーーーーー」

 栗毛のトイプードルは正太郎の首元にいきなり噛み付いた。一切の手加減が無い。首がもげそうだった。

 それがガル子との出会いだった。

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