第2話 ガル子、フールと戦う
栗毛のトイプードルは地面を蹴って、そのまま空を駆けた。
大きく旋回してフールの口から吐き出す大礫を躱した。背後にあった街路樹を轟音と共になぎ倒していく。
あんなの一発でも食らったらひとたまりもない。
次弾が吐き出されるまでの僅かな間にガル子は相手との距離を詰める。
礫を吐き出す前に下から潜り込んで下顎に体当たりした。礫はあらぬ方へと飛んでいく。
ガル子はさらに体当たりを繰り返した。ガル子の頭のてっぺんから尻尾の先まで毛が薄緑色に輝いていた。ぶつかるたびにフールの黒い影を削り取っていく。
『大樹の羽衣(グリーンフィル)』
身体能力が大幅に上昇し、体毛から相手のケモ力を吸い取っていく。フールは徐々にやせ細っていった。
ガル子は隙を付いて相手の臀部に噛み付いた。
『乙女のくちづけ (エネジードレイン)』
体毛から吸い取るグリーンフィルよりも威力は何倍も強い。
フールは跡形もなく霧散した。
「へー、すごいや。もうケモ力を使いこなしてる。勇者になってからまだ1週間も経っていないのに・・・」
巻き込まれないように隠れていた背の高い細目の男は、感嘆の声をあげた。
「よくやってくれる気になったね、勇者。なかなかなり手がないんだよ」
「別に好きでやってるわけじゃない。このチカラであいつらの臭いが分かるようになったから、臭くて鼻が曲がりそう」
おかげで熟睡できないじゃない。
フールはカビ臭い湿った土の匂いに似ている。ジメジメした感じがする。
ケモ力を発動したガル子の嗅覚で探知できる範囲は半径約3km。
こんなヤバいやつらに近所でうろつかれたら迷惑だ。安全に歩けないとなると飼い主が散歩にも行けなくなる。いつも買い物に行く店が襲われたら飼い主が困る。近所の子供がいなくなったら飼い主にあいさつしてくれる人がいなくなる。
「私が戦うのは飼い主のため。私が守るのはこの町内だけよ」
「全く問題ない。うちにはそういう子が多いから」
男は細い目を更に細め、ガル子を撫でようと手を伸ばした。
「勇者になったんだから貸し借りはチャラよ。気安く触らないで」
ガル子はガルガルと唸る。
「おー恐っ」
男は手を引っ込めた。
この男の手は大きくて暖かい。でも、多くのイヌの匂いが混ざり合っていて何かキライだ。
「頼むからもう止めてくれ」
年老いたシベリアンハスキーは叫んだ。
体中を殴られてあちこちが痛んだ。ノライヌになってからというもの、なるべく人間には関わらないようにしていたというのに・・・。
ブルテリアの子供が人間にからまれていたのを辛抱できずに助けに入った。その子供は人間の子にボロボロになるまで殴られて、地面に転がっていた。
3人の人間の子供に取り囲まれていた。子どもたちは不敵な笑みを浮かべ、各々に木の棒を持っている。
「◎〇▽◆□×〇、▽△◇◆」
「〇●××〇」
イヌには人間の言葉は分からない。こちらの言葉も全く通じていない。
そのうち1人が老犬に木の棒を振り下ろした。振り降ろされた木の棒をひらりと躱し、木の棒にしっかりと噛み付いた。でもそこまでだった。
残りの二方向から木の棒が降り降ろされる。躱せるはずがなかった。
鈍い痛みが体を突き抜ける。木の棒を咥えたまま、やられ放題だった。
「×△◇〇◆」
「○○◆▼△◇」
「△▼〇」
一方的な暴行を終えると、人の子どもたちは木の棒を投げ捨てその場から去っていった。
頭から出血していた。前足が変な方向に歪んでいた。呼吸すると胸が痛かった。きっと骨が折れているのだろう。
体中を襲う痛みで立ち上がないどころか頭を動かすこともできなかった。
「おい・・・、大丈夫か?」
シベリアンハスキーが声をかける。ブルテリアの子犬からの返事はない。
地面に腹を這わせながら子犬に近づく。しかしすでに子犬は息をしていなかった。
「もっとわたしに力があったら・・・、あんなやつら」
地面に顔をこすりつけたまま、老犬は悔しくて涙を零した。
「・・・力を・・・」
どこからか声が聞こえた。打たれ過ぎて痛みで距離感がつかめない。すぐ近くに気配を感じるが、その姿は見えなかった。
「・・・その願い。叶えてやろう」
次の瞬間、燃えるような熱が体の奥底から広がっていく。
視界が黒く歪んだ。
アイスのお金を支払うとキョウイチの財布の残金が残り少なくなっていた。こづかいをもらえるまでの残り日数を考えると少し足りない。自然とため息が出た。
コンビニから外に出ると何かの気配を感じてビクッとした。そこに黒い影が立っていた。
夕方で長くなった陰に紛れてよく見えなかったが、徐々に目が慣れてくるとそれは灰色のシベリアンハスキーだった。
「なんだ?さっきの犬に似てるな?」
「バカ。違う犬だろ。さっきの犬はもう死んだだろ」
ハルキはキョウイチの背中を叩きながら大声で笑った。
「おれ、またやっていいか?ホントはヤリ足りねえんだよ」
「おまえは好きだな、弱い者イジメ」
キョウイチは傘立てから誰かの傘を勝手に拝借する。もちろん返すつもりなどない。素振りするとビュンビュンと風を切る音が鳴った。
「あれ?またやってんの?ここじゃまずいっしょ」
店から出てきたユウはカラアゲを口に頬張っていた。ユウはカラアゲを手にし、シベリアンハスキーの目の前に差し出した。
シベリアンハスキーは見向きもしない。
ユウは顔をしかめた。よっぽど躾がいいのか、こんな犬は見たことがない。
鼻先まで近づけるとシベリアンハスキーはようやく食べ出した。
「美味しいだろ。もっとあげるからこっちにおいで」
シベリアンハスキーはユウの後を静かに追いかける。
「いい子だね」
3人はコンビニから離れ、暗い路地へと進んでいく。コンビニのゴミ置き場からハルキは放置されていた鉄パイプを手にした。長年放置されていたようで地面に打ち付けると、ポロポロと錆が剥がれ落ちた。
メイン道路から離れにつれて家も人の気配も薄れていく。やがて三人の口数が減り、互いに目を合わせた。
「もうこのあたりでいいんじゃね」
ユウはシベリアンハスキーの口元まで近づけていたカラアゲを、自分の口に放り込んだ。歯を立てると肉汁が口一杯に広がった。
「おれ、もう我慢できねえよ」
凶器の眼を宿したハルキは鉄パイプを持って、シベリアンハスキーに近付く。地面を当たるたびに乾いた音が辺りに響く。
「ちょっと待って」
ユウはポケットからスマートフォンを取り出し、動画の録画が開始のボタンを押した。そこには何十匹という同類の動画が保存されていた。
「ホント好きだな、おまえ。後でおれにも送ってくれよ」
言い終わらないうちにハルキが鉄パイプを振り下ろす。鉄パイプはシベリアンハスキーの頭に当たり鈍い音を立てた。
「・・・?」
目の前の犬は微動だにしなかった。
鉄パイプだぞ。こいつ、何かおかしい・・・。
「何やってんだ、ハルキ。手加減してんじゃねえよ。見本をみせてやる」
キョウイチがシベリアンハスキーに向かって尖った傘の先を突き立てる。手ごたえはあったが、シベリアンハスキーは痛がる素振りも見せず仁王立ちしたままだった。
キョウイチは更に力を込めて傘を何度も突き立てた。横腹に何度も当たり、傘の先端がぐにゃりと曲がった。
「おい、この犬なんか変だぞ」
「何やってんだよ、貸せ」
ユウがハルキの手から鉄パイプを奪い取り、片手でスマホで撮影しながら鉄パイプで何度も殴打する。
「我慢すんな。キャンキャン泣けよ。つまんねんだろ」
それでも、シベリアンハスキーは鳴くこともその場から動くこともしなかった。
ユウの振り下ろした鉄パイプがシベリアンハスキーの体に当たる前に空中で止まった。
「なっ・・・!?」
黒い影がシベリアンハスキーの背から伸びていた。引き戻せないどころか、それは凄まじい力でユウから鉄パイプを奪い取った。
次の瞬間、ユウの右腕がおかしな方向に曲がっていた。手からスマホが滑り落ちた。
間髪入れずに鉄パイプが縦横無尽に打たれた。その場にいた二人には何が起こっているのか、理解できなかった。
ユウは体中の骨を砕かれ膝から崩れ落ちた。
「マジやべえよ・・・」
ハルキとキョウイチはその場から逃げ出した。
走る勢いのまま、キョウイチは前のめりに顔面から派手に転んでしまった。頬をすりむき赤い血が滲む。
すぐに体を立とうとするが、その足首に影の手がしっかりと掴まれていた。
「やめろ、近づくな」
キョウイチは持っていた傘を何度も振り下ろす。足首を掴んだ影の手はゴムのようにフニャフニャとして全く手応えがない。
シベリアンハスキーの背から更に影の手が伸びてきて、キョウイチの首を掴む。
「やめて・・。助けて・・・」
振りほどけない強い力だった。首をギリギリと締め上げられて、瞬く間にキョウイチの意識が飛んだ。
その間もハルキは走り続けていた。急に隣を走っていたキョウイチの姿が消えた。捕まったのか。振り返る余裕もなかった。
いったい何だ?あの犬は?
息が苦しかった。学校の体育の授業でもこんなに全力疾走したことが無い。もう少しで大通りに出る。
これで助かっ・・・。
ズドンと背中から衝撃があった。転びそうになるのを辛うじて耐えた。
後ろを振り返ると、キョウイチが地面に転がっていた。
その奥からシベリアンハスキーが近づいてくるのが見えた。大通りまであと10m足らず。足の震えが止まらなかった。
ハルキはすぐに大通りへ逃げたかった。が、深呼吸して呼吸を整えた。
ダメだ。逃げても大通りに出る前に間違いなく追いつかれる。
地面に伏したキョウイチの姿を見た。生きているのか死んでいるのかも分からない。その手の袖に傘の柄が引っかかっていた。
背後からやられるくらいなら相手の姿を捉えていた方がまだ心構えができる。その方が逃れるチャンスがある。
ハルキは覚悟を決めた。
「なあ、悪かったよ。ちょっと嫌なことがあってほんの出来心だったんだ。朝からむしゃくしゃするって兄貴に殴られるわ」
シベリアンハスキーが徐々にその距離が近づいてくる。まだ遠い。
「学校では女どもから因縁つけられるわ。ごめん。ちゃんと謝るから・・・」
今だ。
ハルキは頭を下げると同時にキョウイチが手の袖に引っかかっていた傘を拾った。
そして、シベリアンハスキーに向かって突進した。
真っ直ぐな軌跡を描いて頭部に突き刺さった、かのように見えたが、頭部に当たる直前で黒い影の手が傘を捉えた。
黒い影の手から傘を奪われ、それは目の前から消えた。
次の瞬間、ハルキの左足に激痛が走った。
「ぎゃあああーー」
ハルキは絶叫した。傘はハルキの左太ももに深々と突き刺さっていた。
黒い影がそれを引き抜き、更なる痛みが生じる。尖った先には赤い血のりがべったりと付いていた。
それで終わりではなかった。
黒い影の手はハルキの全身に穴だらけにしていく。全身を駆け抜ける痛みにハルキは気を失って、その場に倒れた。
なおも黒い影は傘を突き立てる。抜き差しする度に鮮血が辺りを染めていく。
シベリアンハスキーはふいに気配を感じて顔をあげた。すぐ鼻先に何かがあると認識した次の瞬間には、それがめり込んだ。
四肢の足先がアスファルトにめり込むほどの強烈な頭突きだった。
「硬っっ。それ以上やったら、そのひと死んじゃうよ」
一回り以上小柄で小さいトイプードルが目の前に立っていた。癖のある栗毛が全身を覆っている。
そのトイプードルの背後から背の高い細目の若い男が現れた。ゼイゼイと息を切らした。
「・・・わ・・・悪くない。・・・そいつら、・・って・・・またやる・・・」
シベリアンハスキーは声を絞り出そうとする。しかし思うように言葉を発することができなかった。
「は、話ができるってことはまだフールに寄生されて間もない。今ならまだ戻せるかもしれない」
なぜかその男の発する言葉の意味が分かった。こんなことは今まで初めてだった。
「・・・わ・・・このチカラで・・・人間たちを・・・懲らしめ・・・最期の・・・」
燃えるように体の奥底が熱くなり身体を包む黒い影が濃さを増した。
「それ以上はダメだ。そのチカラは君を取り込んで君が君で失くなってしまうよ」
背の高い男は言った。
「・・・・邪・・するな」
黒い影の手が背の高い細目の男に向かって伸びた。人間が憎い。
男の目前まで伸ばした手を、間に入ってきた栗毛のトイプードルが食い千切られた。
「助かったよ、ガル子ちゃん。僕は何も役立てそうもないからあとは任せたよ」
そう言って男は姿を消した。
邪魔したトイプードルを捉えようと手が伸ばして、その前足を掴む。
『大樹の羽衣(グリーンフィール)』
トイプードルの栗毛は逆立ち、薄緑色に発光した。掴んでいた影の手はその光に飲み込まれて消えた。
いったいどういうことだ?それならば・・・。
また新たな影の手が伸ばして落ちていた傘を拾い上げた。トイプードルもこちらに向かって一気に間合いを詰めてきた。
トイプードルの鼻先に向かって突き出された傘の先端は、体をひねって体勢を変えた耳介を掠めた。
シベリアンハスキーの喉元にトイプードルは喰らい付いていた。
『乙女のくちづけ (エネジードレイン)』
一気に力が抜けていく。
「ごめんね・・・」
ガル子が老いたシベリアンハスキーの残りの命を吸い取るのに十秒もかからなかった。
黒い夜空から雨が降り出していた。
サイレンのけたたましい音とパトライトの赤い光が辺りを包んでいた。
倒れていた人間の子供たちを大人の人間たちが運んでいく。その光景を栗毛のトイプードルと背の高い細目の若い男が離れた場所から見ていた。
「ねえ、君。耳から血が出てるよ。前にも言ったけど、僕自身にチカラは何もないから止血もしてやれないよ。治癒できる犬を呼ぼうか?」
「いい。大丈夫」
血は出ているものの傷の痛みは無かった。
「君ならあの老犬を救うこともできたんじゃないのかい?」
イヌ神の見つめる先には老犬のシベリアンハスキーが横たわっていた。人間の視線は倒れていた人間の子どもたちに向けられ、誰もがすぐ傍を通り過ぎていくのに誰も気にもかけない。
「この方があのイヌにとっては、幸せだと思うから」
わずかに残された熱をシベリアンハスキーから容赦なく奪い取っていく。
事の一部始終を捉えていたスマートフォンの充電が切れた。気付かれることなく誰かの足に蹴飛ばされ、排水溝に落ちた。
雨は一層激しさを増す。ガル子はブルブルと体を震わせて雨飛沫を飛ばした。
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