第3話
大変だ誠一、と慌てた声に顔を向けると、雄太があんぱんを頬張ってリスみたいになっていた。
真剣な面持ちで「あんぱんが無くなった」と咀嚼しながら器用に喋る。
僕は返答する気も起きずに無視して再び下駄箱に視線を戻した。今日――月曜日の朝は結局誰も僕の下駄箱を開ける者はいなかった。2つ隣の下級生の下駄箱スペースに身を隠して張り込みをしていたので、間違いない。
下級生は皆、物凄く怪訝そうな顔でこちらを見るが、上級生に苦情を言える者はおらず無言で通り過ぎて行った
そして、放課後がやって来て、再び張り込みをスタートさせたのだが、帰宅組がどっとやって来た後は部活組がちらほら通るだけでやっぱりラブレターを投下する者は現れない。
「牛乳なら無駄に余ってる」と雄太が1リットルパックの牛乳を掲げ上げて見せた。
「お前、真面目にやらないなら帰れよ」と僕がぼやくと「ほんとそれ」とさおりが同意した。
「そうカリカリするなよ。牛乳飲むか?」
僕はさおりに顔を向けて、何なのこいつ、と答えを求めたが、さおりは肩をすくめてかぶりを振った。僕の訴えに応える代わりに「帰宅組なら、放課後すぐにラブレター入れると思うから、多分、犯人は部活組かな?」と口にした。
「犯人て」
「部活組だとしたら、部活終わる時間までは来ないよなぁ」雄太がぼやきながら、でかい音量でスマホゲームを起動した。
「バカ、お前、隠れてる意味なくなるだろ」
「そもそも張り込んでる意味がない気ガス」
それは僕も同感だった。月曜日にラブレターが投下される根拠だってないわけだし、1回目の投下から2回目の投下までは2週間も開いていた。それならば、次の投下はさらに2週間後くらいではなかろうか。既に今日はハズレのような気がしていた。
だけど、雄太に言われると腹が立つ。さおりも同じ気持ちだったのか、雄太のスマホを取り上げてつるつるの塩ビシート床をカーリングの如く滑らせて飛ばした。雄太は「あぁぁ」と情けない声を上げながら、スマホを捨いに行く。
戻って来た雄太は「でもやっぱ、当てもなく張り込むのはだるいよな。刑事さんってまじすごいわ」と愚痴りながら座った。
「じゃ帰れよ」という僕の声は雄太の耳には入らなかったらしく、雄太は音を消してスマホゲームを楽しみながら「ていうかさ」と言う。「多分この娘かな〜って娘、いないわけ?」
僕は視線を横に流してたっぷりと考えてから「強いて言えば」とためらいながら口にした。「2組の美川さんかな」
「あー、美人だもんね」とさおりが手を叩いて頷く。
「それただの願望入ってね?」
「うるさいな。願望だけじゃないから」
「じゃあ、何を根拠に?」雄太は顎を上げて尊大な態度で僕を見下ろした。
「......この前の2組との合同授業の小テストの時」と僕が話し出すと、さおりがうんうん、と小さく2,3度頷いた。女子は恋バナが好き、というのはどうやら本当のようだ。
「途中で間違った答えを書いちゃって、修正しようとしたんだよ。で、そこで気が付いたわけ。消しゴム忘れたって」
「バカだな」と雄太が僕をこき下ろし、さおりは「で、消しゴム貸してくれたのが、美川さん、ってオチじゃないよね?」と僕の言おうとした結末を口走った。
僕が黙っていると「え、ほんとにそうなの?!」とさおりは両方の眉毛を上げて目を丸くした。
「消しゴム貸してくれたから僕ちゃんのことが好き、ってか? ぷっくく、あはははは、小学生かよ」雄太が大声で笑う。ムカつく。ムカつくが、さおりの顔を見るにどうやら雄太の指摘は真っ当らしかった。顔が熱い。顔を俯けて雄太の揶揄に耐えた。
下駄箱に美川さんがやって来たのは、丁度そんな時だった。僕は慌てて雄太の口を手で塞ぐ。若干ばっちいと思ったが背に腹は代えられない。僕の名誉のためにも、ラブレターの差出人がどうか美川さんであってくれ。祈りながら、こっそりと美川さんの様子を窺った。
美川さんは橙色と紺色が鮮やかなバドミントン部のユニフォームに身を包み、下駄箱の前に立っていた。美川さんが首を左右に動かすと、艶やかな黒髪が滑らかに揺れた。少し挙動不審な動きをしている。ように見える。そこはかとなく。
「ちょっとちょっとちょっとぉ! 本当に美川さんがラブレターの主なんじゃない?!」とさおりが興奮して更に大きく顔を乗り出し、美川さんの様子を探った。
「ちょ、バレるバレる」とさおりを引っ張る僕の隣で「『ラブレターの主』て、『池の主』みたいじゃね」と雄太は関係ないことにはしゃいでいた。
一瞬、美川さんがこちらを見た気がした。だが、美川さんの視線は僕らに留まることなく流れていき、やがて下駄箱に戻った。そして、下駄箱から上履きを1足取り出すと、駆け足で体育館の方へ去って行った。
美川さんが去った後、僕らは下駄箱の前にでた。物陰からでは、美川さんの動きがはっきり見えたわけではない。もしかしたら、こっそり僕の下駄箱にラブレターを投下していたかもしれない。僕は騒ぐ心臓を押さえるように胸に手を当てて、下駄箱の小扉に手を掛けた。そして、頼む、と願掛けをしながら勢いよく下駄箱を開ける。
「はい、ざんねーん」と茶化す雄太の声が背中から聞こえた。
「美川さんじゃなかったみたいだね」とさおりも気まずそうに言う。
「別に? 別に全然残念じゃないし? はじめから違うと思ってたし?」
「涙拭けよ」
「泣いてねぇよ!」
動揺する僕の代わりにさおりがそっと下駄箱を閉めた。「きっと部活の友達に上履き持ってきて、とか頼まれたのかもね」
さもありなん。さおりの言葉を聞いた後にはもうそうとしか思えなくなっていた。きょろきょろしていたのは、友人の下駄箱を探していたからだ。僕らと目が合っても平然としていたのも、ラブレターとは無関係だから。すべてが腑に落ちる。
「何落ち込んでんだよ。元気出せよ。美川さんがお前如きを相手にする可能性はじめから皆無だったろ?」
「人を励ます言葉のチョイスがおかしい。てか、落ち込んでないし」
僕らは元いた下級生の下駄箱まで戻り、張り込みを再開した。だが結局、外が暗くなってもラブレターを投下する者は現れなかった。
外から野球部の「お疲れ様っしたぁ!」と部員全員の合わさった声が響いてきた。終わりのミーティングでもしていたのだろう。
僕が「そろそろ僕らも帰るか」と言おうとした時だった。校舎内の方から大声で「こらぁ!」と怒鳴られた。
肩を震わせてから、慌てて振り向くと、ベージュのカーディガンを羽織った教頭先生が蟹股でこちらに近づいてくるところだった。
「いつまで校舎内にいる! 早く帰りなさい!」
怒られているというのに雄太はのんきな声で「先生〜、もう鍵閉めるんですか?」と挙手して質問した。
「当たり前だろ! 何時だと思ってる! 早く帰らないと親御さんに連絡するぞ」
「はーい」
雄太が目で『これ以降のラブレター投下は物理的に無理』と僕に訴えかけてきた。僕も頷いて、雄太と並んで昇降口を出た。後ろから「まったく、夜遊びもほどほどにしろよ」と愚痴る教頭の声が聞こえた。
あれ、さおりは? と気付き、僕はもう一度昇降口に振り返った。丁度さおりが駆けてくるところだった。
「結局、現れなかったな」と雄太が言った。
僕が「そうだな」と返答しようと口を開きかけた時、さおりが「まだ分からないよ」と先に答えた。
「分かるよ。だって来なかったじゃん」
「いーや。まだ明日の早朝って可能性もあるじゃん」なんでそんなに意地になっているのか不明だが、あの無意味な張り込みを経て尚、さおりはやる気に満ちあふれていた。
「えー……朝、来るの?」と雄太が嫌そうな顔を見せる。僕だって嫌だった。朝はぎりぎりまで寝ていたいのに、なんでこんな無駄な張り込みのために早起きしなければならないのか。
だけど、さおりはしつこかった。
「ねぇ、お願い。これで最後にするから。ね? 自黒はっきりさせないとムズムズするよぅ」
僕は雄太と顔を見合わせて、どちらからともなく、はぁ、とため息をついた。
そして翌朝、事件は起こった。
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