第41話 癒しの手
開いていた扉が、小さな音を立てて更に開いた。
椅子を覆っていた布を持った柾人は、その扉の方向に向き直った。
そこには、柾人のカーディガンを身につけた彩葉が立っていた。
「…あ、あの…ごめんなさい、社長が何処に行ったのかと…探してて」
申し訳なさそうに、彩葉はドアノブを握ったまま身を小さくして立っている。
「入ってはいけないお部屋なのは知っていたんですけど…社長がいらっしゃるようだったので…」
「…いや、構わない。…椅子が置いているだけの部屋だ。…見るか?」
桐人の作品が置いている。
彩葉も、目にしてしまったのなら気になるだろうと、柾人は彩葉を招く。
彩葉は、身につけたカーディガンの前を気にしながら中に入ってくる。
そのカーディガンは、寝室の椅子に掛けていた柾人のモノだ。
V字に大きく前が開いたメンズもののカーディガンは、前を留めても彩葉の胸の谷間を隠すことは無い。
辛うじて胸は隠れているが、むしろ谷間は強調されている。
ジッと見た柾人の視線に、彩葉は慌てる。
「ごめんなさいっ、身につける物が無くて…流石に裸で動くのも躊躇われてしまって、お借りしました」
「良いよ。別に構わない」
そう言いながら、寝室で脱いだはずの彩葉の服が見当たらないとは?と柾人は考える。
もしかすると、柾人が脱いだ服が被さって隠れていたのかもしれない。
今、柾人もズボンを履いただけの簡単な格好だった。
ただ、彩葉のその扇情的な格好は、今の柾人には多少辛かったが。
「…このチェア…、桐人さんの作品ですか?」
彩葉の言葉に、柾人の意識がチェアに戻る。
「…あぁ。初期の物だ。」
「…そうなんですね。」
彩葉はそう言うと、桐人の作品をチラッと見ただけで、すぐに視線を部屋の奥にやった。
「…そちらは…?」
そう言うと、彩葉は柾人が造ったチェアに近寄った。
無言のまま、柾人は何も言わない。
言えなかった。
このチェアは、柾人の剥き出しの心そのモノだ。
まだ夢を見れた幼い頃の心の形であり、今の、柾人の心の深部そのものでもあった。
その、柾人の心の深部にあるモノ。
ソレは両親から言われて刺さった棘。
その棘が刺さった部分は、今や膿を吐き続け、爛れている。
その剥き出しの、治すことが出来ない傷は過去の汚点だ。
そんな話を彩葉にして、仮に慰められたとしても、柾人はきっと傷付く。
もう今更、何を言われても無理な程、柾人の中で大きな傷となっていた。
だから何も言えなかった。
「…可愛い…」
しかし彩葉は『可愛い』と呟いた。
「…座っても…良いです…か?」
柾人の様子に、躊躇いながらも彩葉は聞く。
「あ…あ…ぁ、良いよ」
そんな彩葉の様子を見ながら、柾人は言葉を詰まらせた。
彩葉は嬉しそうに、その小さなチェアに腰掛けた。
クッションがある訳でもない。布張りがしている訳でもない。
子供が工作で造った様な椅子。
その椅子に座り、肘置きを優しい手つきで彩葉は撫でる。
ただ、彩葉は椅子を撫でていただけだ。
なのにも拘わらず、柾人は己の心を労わってもらったような錯覚に陥る。
まるで幼い柾人が撫でられているかのようだ。
造りが小さい為、彩葉が腰掛けても膝が少し上に上がる。
「…私…、こういったデザインの方が好きなんです…」
彩葉は静かに語る。
その声が、柾人の心に染み入るかのようだ。
「…だから…『デザイナー』には向かなかったんですが…。」
ふと、彩葉の視線が柾人に向いた。
二人の視線が絡む。
柾人は、何かが貫かれた様な気持ちになった。
いや、寧ろその視線は、傷を抱えた心を剥き出しにしてしまう。
「…だから『
柾人のチェアに座り、彩葉は小さく微笑んだ。
柾人の意思に反して、目頭が熱っていく。
別に、彩葉が柾人の作品を認めてくれた訳でも無い。
慰めてくれた訳でもない。
だが、その小さな椅子を『好き』だと言って、彩葉が優しく撫でた。
そして、柾人に微笑んでくれた。
『Semper』は、柾人の心の隅で消えずにあった、彩葉を想う柾人の『心』を表したそのものだった。
常に、柾人の近くに居て欲しい。
そんな、叶わない願い。
しかし彩葉の、意図しない行動や言動に『癒された』。
長年、どうもがいても取り除けなかった『棘』が取れたような感覚。
まだ剥き出しの心は爛れている。
でも原因の棘が落ちた。
柾人は熱くなった目頭をそっと指で触れながら、彩葉に背を向けた。
「…な、何か…食おうか…」
誤魔化すかのように、柾人は全く違う話を口にする。
そしてその場から離れようと、離れたくないと駄々をこねるかのように強ばる身体を動かす。
これ以上はダメだ。
そう思った。
泣きそうだった。
何故。
よりにもよって、一番弱い箇所を癒したのが彩葉なのか。
何故、今なのか。
今日で、彩葉とは職場の上司と部下に戻らなければならないのに。
本当は、手離したくないと思っている。
その心に、やっとほんの少しだけ折り合いを付けた所なのに。
離れなければ。
決心した心が瓦解してしまう。
彩葉にとって、柾人は害を成すだけの存在だ。
もう、離れると決めたのだ。
柾人は、足を一歩踏み出した。
「あ、あの!…社長…話の続き…」
彩葉はそう口にした。
きっと、それは彩葉を抱く前にしていた話だ。
追い掛けるように、彩葉は立ち上がった。
そして焦りを滲ませ、柾人の側に駆け寄る。
柾人は、そんな彩葉が近付く気配に振り返り、そして抱き締めた。
それは、無意識の行動だった。
でも心で、彩葉を『どうしても離したくない』と思った。
ひと目で惹かれ、笑顔を見せてくれない彩葉に、ただひたすら恋焦がれた。
彩葉を独り占めしたいのに、出来なくて。
締め付ける胸の苦しさ。
どうすることも出来ないやるせなさ。
それらは、どれ程柾人に切ない夜を齎したか。
やっと見せてくれた彩葉の笑顔に喜び、そして再び強く惹かれた。
そして今、柾人の柔らかい心の箇所を、彩葉はいとも容易く、何も知らないまま触れずに癒した。
どうして手放せるものか。
どうして、一瞬でも『離れても大丈夫』だと思えたのか。
腕の中に捕らえた彩葉を、力強く抱き締めた。
そして柾人は、彩葉の耳元に唇を寄せた。
瓦解した心が、ダメだと思う柾人の理性を無視して溢れ出す。
駄目だと思う心とは矛盾した声が、柾人の口から発せられる。
「…嫌だ…。」
「…え?」
彩葉は訳も分からずに、抱き締められた柾人の背中に手を回す。
止める事など、もう出来なかった。
柾人の全てが、彩葉を求めた。
「…離したくない…。…好きなんだ…、お前の事が…。堪らなく…」
少し低い、柾人の熱情が籠った声が、彩葉の小さな耳元で囁かれた。
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