第15話 忸怩たる(じくじたる)
彩葉が逃げ帰った数時間後、柾人は目を覚ました。
ベッドに裸で一人でいる状況で、一瞬戸惑う。
しかしすぐに思い出した。
昨夜は、彩葉と共にベッドに入った筈だ。
しかし隣に彩葉は居ない。
とりあえずズボンを身に着け、ベッドから出る。
フラリと部屋から出て玄関に行けば、柾人の靴以外見当たらない。
彩葉は、柾人に声を掛ける事もなく帰ってしまったという事は分かった。
不思議と落胆したような気分を味わいながら、柾人はリビングへ向かう。
別に今日、彩葉と二人で過ごそうと約束していた訳でもなければ考えていた訳でもない。
彩葉自身、今日は特に予定は無いと言っていた。
そんなに急いで帰る必要も無かっただろうに。
柾人は小さく溜息をつきながら、冷蔵庫を開ける。
冷やしていたミネラルウォーターを取ろうと、冷蔵庫の中に目をやる。
そこには、昨日買ったケーキがそのままあった。
持ち手の隙間から中のケーキが少し見える。
熟れた苺やマスカットが乗ったフルーツケーキは、手をつけられることも無くそのまま残されていた。
それを見て、柾人の気持ちが落ちていく。
声を掛けられることも無く、放置するかのように彩葉に立ち去られた柾人。
全く触れられることも無く、持ち帰ってもらえなかったケーキ。
「...せっかく買ったのにな...」
ミネラルウォーターを手にすると冷蔵庫を閉め、柾人はダイニングチェアに荒々しく腰掛ける。
ミネラルウォーターで喉を潤わせながら、再び彩葉の事を思い出す。
昨夜の彩葉は、いつもと違って僅かながらも笑顔を見せていた。
彩葉がアリシマ・ファニチャーに就職し、柾人の側で自然に笑っていたことは無かった。
多少酔っていたが、素直に“可愛らしい“と感じた。
素直に感情を表に出す事は出来ず“戯れ“等と口にしたが、彩葉が笑ってくれた事が嬉しくて、そして近付きたくなった。触れたくなった。
やっと少し近付けた気がしたのに、その分、彩葉が1歩下がった気がした。
柾人は、もう一度冷蔵庫に視線をやった。
大体あのホールケーキ、どうすんだよ。
彩葉の予定も確認せずに購入したのは自分なのに、そう考えると少しイラついてきた。
そしてしばらく考え、柾人はスマートフォンを手にした。
◇◇◇◇◇
冬雷が空に響き渡った翌日は雪が舞っていた。
霙が雪に変わったようで、路面に落ちた雪はすぐに溶け、足を進めると汚れた水が少し跳ねる。
未だに雪は舞っている為、外気温は夜より更に下がっている。
そんな中、慌てていたとはいえフレアスカートにストッキング、チェスターコート、ヒールで出掛けてしまった彩葉は震えながら歩いていた。
目前には柾人の自宅があるマンションが見えている。
寒くて冷えた身体を擦りながら、それでも中に入る事を躊躇っていた。
自分のアパートに逃げ帰った彩葉のスマートフォンに、柾人から連絡があった。
責任を取ってケーキ食べに来いと端的に告げられ、電話は切られた。
断る時間すら与えられなかった。
そして彩葉は見栄えを重視し、この寒空の下歩いて来た。
いくら嫌われていると思っても、やはり好きな相手に逢いに行くのだ。出来る限り可愛い格好をしたい。
無駄な足掻きだとしても、他に選択肢は無かった。
とは言え、この寒空に適した格好ではなかった。手先が赤くなり、身体が震えて止まらない。
なのに動悸も激しい。
しかしこうしている訳にもいかず、重い足を動かしてマンション内へと入っていった。
◇◇◇◇◇◇
再び柾人の自宅を訪れた彩葉は、僅かにカタカタ震えて、鼻の頭を真っ赤にして不機嫌な柾人と対峙した。
玄関の扉を開けると、柾人は「...どうぞ」と短く彩葉に伝える。
しかし動こうとしない彩葉に、柾人は壁に身体を寄りかからせ、腕を組んで框の上から見下ろす。
「...入らないのか?」
「...あ...あの...昨夜の...事でしたら...」
次第に俯きながら、彩葉は口を開き出した。
「...とりあえず中に入れ。外で話す事でもないだろう」
柾人にそう言われ、確かに情事の事など他人に聞かれたい訳でもないと、やっと中に入る。
そして中に入り、ヒールを脱ぐより先に話そうと彩葉は顔を柾人に向けたが、柾人はスタスタと奥に歩いていく。
そしてダイニングのある部屋の入口で振り返り、「さっさと入ってこい」と告げるとまたしても彩葉を置いて部屋の中に入ってしまった。
仕方なく、彩葉は柾人を追いかけるようにして中に入った。
室内に入ると暖房が効いており、寒さで
雪で少し濡れたコートを、柾人が強引に預かる。
そして勧められたダイニングチェアに腰掛ける頃には、冷えていた手先に温もりが急速に戻りつつあり、ジンジンとしてきた。
「...ブラック...飲めたよな?」
そう言うと、柾人はホットコーヒーを彩葉の前に置き、続けて大皿に載せられたケーキが置かれる。
ダイナミックにも、半分にカットされただけのケーキだ。
量で言えば、カットされて売られているケーキの2個分くらいか。
「...どうぞ。」
「...いた...だきます...」
気まずさ、恥ずかしさ、居た堪れなさ。
目の前に座る柾人を見る事すら出来ない。
俯いたまま、彩葉は勧められたケーキに手を付ける。
「...あ、美味し...」
「...そうだな。思ったより甘くなくて良かった。」
柾人の口にも合ったのか、チラリと柾人の手元のケーキを見ると、どんどん皿の上から消費されている。
追いつく必要は無いのだが、中々のハイスピードで、彩葉は慌てて自分も食べ始める。
実を言うと、今日は強烈な柾人との出来事にパニック状態で食事を一切していなかった。
いきなり甘味という点ではキツい所もあるが、それでも空腹なのでカットケーキ2つ分くらいなら食べきれそうだった。
合間にコーヒーを口にしながら、柾人が食べ終わるタイミングとあまり誤差がないように、彩葉は必死になって食べ始める。
柾人は自分のノルマでもあったケーキを食べ終わると、目の前で必死になってケーキを食べている彩葉を見た。
「...別に俺に合わせる必要は無い。ゆっくり食べろ」
「...はい、すみませ...」
柾人に話しかけられ動揺してしまったのか、彩葉は途中で“ゴホッゴホッ”とむせ始めた。
「...だから慌てるなと言ったのに...」
彩葉の様子に、柾人は小さくため息をつきながらその場を立って彩葉の背後に来た。
そして気休めに背中を軽く叩く。
「...ゴホッ...す、すみません...。大丈夫です」
彩葉は制止を示す為に、柾人に向かって手のひらを向けた。
その手の人差し指に小さく生クリームが付いていた。
それを見ると、柾人はその指先を小さく咥え、そして軽く吸った。
「ひゃっ!!...しゃ、社長!?」
「...慌てなくてもイイのに...。と言っても、あと一口か。」
そう言うと、皿の上に置かれたフォークで残った一口分のケーキを掬って彩葉の口元に持っていく。
「...いえ...、あの...社長...」
躊躇う彩葉に構うこと無く、柾人は口元で小さくフォークを揺らした。
そのフォークに掬われたケーキ。
柾人には一口分だが、彩葉には少し大きかった。
入らないわけではなかったが、全てを口に入れるにはかなり大きな口を開ける必要があった。
しかし柾人は引く気がないようで、彩葉をじっとみて構えている。
躊躇いながらも彩葉は口を開ける。
「...大きいか?...入らない訳でもないか。もう少し口開けろ」
頤を掴まれ、顔を強制的に上げられる。
彩葉は逆らえず、更に口を開ける。
口の中に入れられたケーキをそのままの体勢で咀嚼する。
その様子を見ていた柾人は、彩葉の口の端についた生クリームを抵抗する時間を与えず、ペロッと舐めとった。
「...社長ッ!!」
「...何で動揺してるんだよ?...昨日は...もっとすごい事をしただろう?」
彩葉は、柾人の視線から逃げるように顔を横に背けた。
柾人が、何故このような行動をするかも分からない。
「あ...あの...その、昨日の...事ですが...。」
本当に申し訳無い事をした。どう償えばと考える彩葉は言葉を続けた。
「...申し訳ありませんでした。...酔ってしまったとは言え、あのような事を...。」
柾人の顔を見る事が出来ない。
彩葉は瞼をギュッと閉じ、話し始めた勢いのまま続ける。
「...私は...!!...その...“一夜の過ち”で...忘れるので、...業務に支障をきたさないようにしますので...!!」
彩葉の言葉に、その小さな頤を掴んでいた柾人の手が少し緩んだ。
「...“一夜の過ち“...」
呟く柾人の表情を、彩葉の閉ざされた瞳が見る事は無かった。
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