第12話 冬雷
これまでの柾人との関係を考えると、夢のような時間だった。
自分が失態を繰り返し、最早修繕不可能かと思えるほどの気まずさを感じる二人の時間。
それが今日は少し和らいでいる。
立ち入ったこともなかった柾人のプライベートスペースに招かれ、飲んだこともなかった白ワインが入ったワイングラスを渡された。
初めて持つワイングラス。どう持つか戸惑っていると、ソファの隣に座った柾人が小さく笑った。
「飲み口の所がリム。」
ワイングラスの飲み口から、少し太めの柾人の指が滑り降りていく。
「ボール、下の脚の所がステム、そして台座のボトム。お上品な食事の場ならステムの下の方を持てば間違いないが、プライベートならボールの部分を持って気軽に飲む奴も多い。」
アルコールが入ったからなのか、柾人の表情も何故か優しい。
気付かないうちに、彩葉自身も少し表情が緩んでいた。
ただただ、嬉しかった。
もしかしたらコレは夢かもしれない。
酔いが少しずつ深くなるにつれ、本気でそう思った。
だって柾人が隣で座って、会話をして、そして笑っている。
小さい頃に飼っていた白い犬の話。
中学の時の誕生日に祖父から図鑑をプレゼントされ、ゲームじゃなくてガッカリした事。
高校の時に交通事故にあい、大怪我をした事。
知らなかったプライベートの話を聞ける事が嬉しくて、最初に2人で座った時にあった距離は、気付けば拳一つ程も無い。
彩葉が近付いたのか、柾人が近付いたのか。
若しくは二人が近付いたのか。
「交通事故の時の大怪我というのは...」
飲み口の良い白ワインは抵抗感すらなく、彩葉の体内に吸い込まれていく。
白い頬は紅を差したかのように朱を帯び、瞳を潤ませる。
「...肋骨を2本やったな。鎖骨は傷だけで骨折はしなかった。」
彩葉は言葉に導かれるように、柾人の鎖骨の辺りに目にやると、セーターの首元から僅かに傷跡が見えた気がした。
無意識に、彩葉の指先が柾人の鎖骨に伸びていく。
その指先の辿り着くさまを、柾人は見つめた。
無意識に吐き出された息は僅かに熱が籠った。
そしてその指先が触れた。
その時、雨足が強くなっていた外から“ピカッ!!“と光が室内に入り、大して時間を置かずに“ドンッ!!“と音が響き渡った。
その瞬間に部屋の照明が落ちた。
彩葉の指先がビクッと僅かに後戻った。
そして自分のしていた行動に気付き、彩葉は柾人を見上げた。
暗闇の中で、彩葉から柾人の表情は見えなかった。
その次の瞬間、室内は更に“ピカッ!!“と光り、“ドンッ!!“と雷鳴が部屋を満たした。
雷の光で、暗闇の中で二人がどのような顔をしていたか、互いが認識した。
向かい合った二人。
彩葉は潤んだ瞳で柾人を見つめ、まるで柾人を欲するかのように手を伸ばしていた。
柾人は、彩葉の指先に触れられるのを待ち構える
彩葉の瞳に映し出されたのは、獰猛なその瞳。
「...男と二人で居て、その肌に触れる意味を...分かっているか?」
ついさっきまで二人の間に存在したはずの穏やかな空気は、普段は有り得ない筈の冬雷が描き消したのか。
突然現れた闇によってもたらされたのは、心の端を巣食っていた、無自覚の欲望か。
「...あ...」
男というものを、まるで今知ったとばかりに、彩葉の指先は震えた。
でも。
目の前の男は、彩葉が恋焦がれた男。
手に入らないと思っていた男が、今、手を伸ばせば届く。
心は手に入らずとも、男の欲望に触れる事が出来る。
その強烈な誘惑に抗える女などいる訳が無い。
柾人を見つめる彩葉の口元が僅かに緩んだ。
パッと、室内の照明が点いた。
しかしそれすら、二人を正気に戻すことは無かった。
柾人の手が彩葉の頬を滑った。
「...我が秘書殿は...戯れをご所望か?」
“戯れ“と柾人は言う。
それでも良いと思った。
「...はい...」
彩葉は誘われるように、柾人の手をそっと掴み、その中指を口に含んだ。
その行動に、柾人は短く、熱い息を吐き出す。
「...お前...処女か?」
「...いえ...」
躊躇いがちに答えた彩葉の言葉に、一瞬柾人の眉根が寄るが直ぐに戻る。
そして肩を掴まれ、彩葉はあっという間に引き寄せられる。
噛み付くように口付けられる。
開いた唇に柾人の唇が重なったかと思った直ぐに、肉厚の舌が差し込まれた。
腕を回され後ろから伸ばされた柾人の大きな手に顎を捕らえられ、痛い程に首を伸ばされる。
柾人の舌で彩葉の口腔内は蹂躙される。
こんな荒々しいキスは知らない。
吐息すら奪われ、翻弄される。
苦しさのせいか、柾人の背に回した彩葉の両手は衣服を握り締められる。
幾度となく角度を変えては繰り返されるキスは、アルコールよりも強烈な酩酊を二人にもたらした。
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