第5話 強ばる
彩葉が社長付き秘書になって半年。
試用期間の3ヶ月も無事に経過し、指導員として側にいた三上とも少し離れ、業務に就いていた。
彩葉は内勤で、社長の秘書として業務を行っていた。
そして三上は外回りを中心とした、社長の業務の補助を行った。
業務としては、概ね順調といえた。
勿論、まだ一年にも満たない新入社員が仕事をするので、不手際もあった。しかし社長や三上からのフォローがあり、大きな失敗に繋がった事は無い。
ただ一つ。
彩葉は柾人を前にすると、強ばった、引き攣った笑顔を見せる。
コレだけは、どう頑張っても治せなかった。
仕事が出来るのが素敵。
声も良い。
スタイルも抜群。何でも週に2回はジムに通っているらしい。
そして顔が良い。
彩葉はこれまで、恋人が全くいなかった訳ではなかった。
1人だけだが、付き合った事がある。
大学在学中。
言い寄られた先輩。背が高く、身なりも良かった。
それなりに『好き』だと思った。
一度だけだが、身体を重ねたこともあった。
その彼氏と別れたのは、交際して二週間後。
どうやら、元々本命はいたらしい。しかし上手くいかずにいた時期、声を掛けた彩葉と付き合うようになった。
しかしそれをきっかけに、本命の彼女が彩葉の彼氏に傾倒したようだ。
『…別に…お前もそんなに俺の事好きでもないだろ?』
そう言われた彩葉は、『確かに』と納得してしまった。
本命の女性と闘ってまでの執着を持てなかった。
そして呆気なく別れた。
そんな恋愛しかしてこなかった彩葉は、あの夏に恋に落ちた。
一度しか会ったことも無い格上の男性なのに、それでもひたすら募る恋情を抑えることが出来なかった。
そして鈴原部長との出会いから、入職までの流れ。
好きすぎて、でもバレているかもしれないという焦り。
入職への手段も、仕事に一心不乱の柾人からすれば不順極まりないことだろう。
そう思うと、緊張して顔が強ばるのだ。
最初は『そんなに緊張しないで』と声を掛けてくれていたが、流石にもう半年だ。
最近では怪訝そうな顔付きで見てくる。
どうにかしたいが、どうにもならない。
ジレンマで、彩葉は益々身動きが取れなくなっていた。
◇◇◇◇◇◇
「庭木…この封書の中身、コピーして桐人の所に…」
手にした開封済みの封筒と中身の書類を渡す相手を見る為に、柾人は顔を上げた。
相手は内勤秘書の彩葉だ。
目を合わせた彩葉は相変わらず引き攣った笑顔をしている。
俺が一体何をしたというのか。
柾人は長期に渡る彩葉の緊張具合に、少しずつ苛立ちを覚えていた。
そして本人に確認こそしてはいなかったが、自分の中で彩葉が入職する前から思っていた事が間違っていなかったのではないかと思っていた。
柾人に秘書として就いたのは不本意で、本当はデザイナーになりたかった。
現に、彼女は桐人の元ではデザインについて楽しそうに笑いながら語る。
引き攣った笑顔を見せるのは自分に対してだけだ。
最初に出会った日は、戸惑いながらも可愛らしい笑顔を見せたというのに。
苛立ちは募るばかりだ。
そんなに桐人の側が良いなら…と、一瞬考えた事もあったが、桐人と彩葉が仲良く語っている姿が頭を過った。
よく分からない、見えない『棘』が刺激される感触がした。
まるで刺さった棘を取り除けなかった為に、棘が刺さった周りが赤みを帯びて膿んでいくような、とても不快な感覚だ。
そして、そんな個人的な感情を優先させて人員を配置する訳にもいかないと考え直した。
『棘』は桐人への劣等感だ。
解決するものでもない。であれば、ソレは覆い隠して過ごすしかないのだ。幼少期より、毎日していた事だ。今更不快に感じる方がおかしい。
そんな、絡んで解れないモノに振り回される時でもない。
日々、業務に追われて忙しいのだ。
それでも彩葉を見ると、その『棘』が刺激される。
嫌な感触だ。
だから今、たかだか書類を桐人に届けさせる事も躊躇ったのか。
バカバカしい。
柾人は気を取り直して、言葉を続けた。
「これのコピーを桐人の元に届けてくれ。原本は此方で保管する。」
「…承知しました。」
彩葉はそう言うと、直ぐに書類をコピーし桐人の元へと向かった。
彩葉が部屋を出てすぐ、足元に1枚の紙が落ちていることに柾人は気付いた。
今、彩葉に手渡した書類の中身の一部だ。
何をやっているのか。
ため息をついて、柾人は立ち上がった。
もちろん彩葉を追いかけるためだ。
午前中を座り通しで仕事をしていた。もうすぐ昼休みに入る頃だ。
息抜きを兼ねて、動くか。
柾人は自分の失敗を誤魔化すかのようにそう考え、書類を手に立ち上がった。
桐人がいる『デザイン部』は役員フロアの一つ下の階にある。
部長は別の者が務め、桐人はデザイン部内の『Oggiチーム』のリーダーで主任を務めていた。
元々、桐人は会社勤めには向かないタイプで、人付き合いにも偏りのあるタイプだ。
そして業務に着くも、デザインを描く以外には本人もヤル気を起こせない。
だからこれ以上の役職や業務を与える訳にもいかなかった。
但し、アリシマ・ファニチャーにはキリト・アリシマは欠かせない。
だからデザイナーとして集中出来るように、デザイン部の最奥にキリト・アリシマとして篭もれる個室を用意した。
完全な個室ではなく、ガラス張りの仕切った個室ではあったが、周りの騒音が遮断できるので桐人は満足しているようだった。
「あれ?社長!お疲れ様です。さっきこそ庭木さんがブースに到着したと思ったら、今度は社長なんて…。何かありました?」
デザイン部のフロアに柾人が入っていくと、最初に会った社員が声を掛けてきた。
柾人が大学を卒業し、有島家具に入社して9年。10年を待たずに社長に就任した。
なので柾人は今年で32歳だ。
元々の会社も小さかったし、何より年齢が近いので、社長と言っても社員との距離感も近い。
流石に店舗の従業員とは接する機会も少ないが、本社勤務の者とは気軽に話す。
なので、今もデザイン部の社員が気軽に話しかけてきた。
「いや、庭木に託けた書類が1枚渡し損ねてしまったんで、追いかけて来た。」
そういう柾人を社員は『意外に社長もおっちょこちょいですね』と笑って離れた。
そうして訪れたのは、桐人に与えた『ブース』だ。
仕事中、基本的には桐人はこの『ブース』に籠る。
そしてデザイン画を描いたり、デザイン部の社員がこの部屋で桐人を交えて話し合ったりするのだ。
この部屋は桐人の為の一人部屋。だから『ブース』と呼ばれていた。
そのブース内で、桐人と彩葉は立ったまま話をしていた。
ほら見ろ。
柾人は心の中で悪態をつくように呟いた。
桐人の前では顔を強ばらせる事もなく、彩葉は笑顔だ。
しかも何なら少し顔が赤い。
その現場を目の当たりにし、柾人は苛立った。
苛立ちは柾人の中の『棘』を刺激した。
棘の周りは赤みを持ち、次第にその皮膚の内側に膿を貯めていく。熱を持ち、それは棘のみの痛みではなくなっていく。
炎症を起こし、やがてソコは潰瘍になっていく。
グズグズになっていく皮膚の感触は痛みを伴い、不快だけのものではなくなっていく。
イラつきながら、柾人はブースの扉に手をかけた。
「兄さん!」
嬉しそうに、桐人が笑顔で出迎えた。
対照的に、彩葉は柾人を認識した途端に顔を強ばらせた。
柾人の苛立ちはピークに達した。
そして感情のままに、呪いを吐き出した。
「そのブサイクな笑顔、どうにかしろ」
彩葉の強ばった笑顔が固まり、顔色を失った。
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