彼を知った日
テレサと言う名前は偽名だ。
昔はテレジアと言う名前を使っていた時もあるし、おちゃらけてテリテリと名乗った事もある。
名前に対して特に思い入れはなく、だからテレサと言う名前に関してもあと数年もすれば飽きて違う名前を使っていると思っていた。
ただ、人間の社会に混ざる為には定期的に同じ名前を使わなくてはならないし、少なくともその街にいる間はテレサと言う名前を使い続ける必要があった。
……私にとって誤算だったのは、ちょっとした好奇心でその街にしばらく留まる事を選んだ事。
そして、すべての始まりはたった一つのパンであった事を、私は今でも覚えている。
ただ――しかしながら当時の私にとってそのパンというものはあくまで興味を引いたもののひとつでしかなく、そもそも「真祖」である私にとってそう言った食事は不要だ。
ただの娯楽であり、久遠に等しい死へと続く道のりで見つけた輝かしい石ころの一つ、その程度の認識でしかなかったのだ。
だから――多分。
私にとって重要なのは、それがパンである事ではなく。
――それが、彼の手によって作られた作品である事、なのだろう。
彼と出会ったのはある晴れた日の午後だった。
昨日、雨が降ったから路地の所々に水たまりがあってそれがキラキラと輝いていた。
たまたまその街に訪れた私はその時利用していた宿屋の主人にその店のパンを勧められ、仕方なしにその場所まで向かってみたのである。
しかしながら、そのパンは主人の言葉通り人気の商品だったらしく既に品切れ。
ただ――私にとって重要なのは手に入れるつもりだったパンが既にない事ではなく、目の前で申し訳なさそうに頭を下げる彼の事だった。
黒髪、長身、痩躯。
特に珍しい見た目はしていない平々凡々とした青年。
例によって宿屋の主人らしく「生真面目で優しい、最近では珍しい好青年」。
ただ、その人柄が私の好奇心を引いたのかどうかは正直分からない。
なにせ私はそもそもとして人を食らう「真祖」。
人々から見れば上位存在であり、そしてその「上位」というのは捕食者という側面を持っている。
だから私にとって彼はただの都合のいい、美味しそうな「餌」だったのか。
あるいはそう――
月並な言葉を使うのならば、一目惚れだったのか。
なんにしても、私には沢山の時間が有り余るほどある。
だからこそその気持ちの正体については特に考えずに、しばらく彼と付き合ってみる事にしたのである。
……まあ、パンはパンで美味しかったし、それを食べる為というのもあるにはあるのだろう。
「パンにとって重要なのはやはり熱、そして発酵の手間だ。使っている小麦や水はこの街の人間ならばみんな同じものを使っているからな」
「そうなんですか? その割に結構味が違う気がするのですが」
「まあ、隠し味も入れてはいるけど。俺は特に食感を重視しているからな、兎に角カリッとした表面にしてがりっと噛みしめる事が出来るパンに仕上げたい」
「ふぅん……」
あまり、興味はなかった。
私の好奇心はあくまで目の前の彼にしかなく、彼の口から発せられる言葉に相槌を打つのはあくまでそうすると彼が喜ぶからだった。
パンは美味しいけどそれだけだし、ただ、食べると胸がポカポカするのは確か。
不可解な現象だ。
彼と同じ工程を踏み私が作ったものを食べたとしてもそういった事はあまり起きないのに。
同時に。
もし仮に私がここで彼を襲ったらどうなるのだろうとも考える。
「真祖」として彼を捕食する。
喉笛を引き裂き血潮を飲み干す。
きっとそれは、素晴らしい事だろう。
しかしそれに意味はない。
食事をとる事と同じくらいにそういう吸血行為も私にはあまり必要のない行為であり、だから彼の命を奪う事に意味はない。
彼がここで死ぬ事に意味はなく、そして彼がここで生きている事も……
「……」
「どうかしたか、テレサ」
「い、え……その、ところで。貴方はいろいろな人から好かれていますよね」
「唐突だな。別に好かれているって程ではないよ、ただみんなに美味しいパンを食べて貰いたいってだけだ。嫌いな奴からパンを貰ったところでそれを美味しいとは思えないだろうからな」
「貴方って本当に」
「なんだ?」
「パンばっかりなんですね」
少し、イラっとする。
パンが嫌いになりそうだった。
彼にこんなにも思われている、パンが嫌だ。
目の前で粉々にしてやりたいけど、食べ物を粗末にする事は出来ないし……
「いた」
だから私は、仕方がないので彼の足を優しく蹴ってやることにした。
えいえい。
それでも彼は困った顔をして「どうかしたのか?」とか言ってきて、だから私の気持ちは猶更ざわつく。
本当に、この気持ちの正体は何なのだろう?
その答えを知る為の時間は、そう。
残念ながら、あまり残ってはいなかったのだろう。
「私の事を好きになるなんて、1000年早いっ!」
結論から言うのならば、私はどうしようもない程に弱虫だった。
彼の言葉の真意、それを知りたくなかった。
恐かった。
何故彼は私にプロポーズして来たのか。
その理由が分からなかった。
なんで、こんな女に対してそんな事をしたのか。
悪戯だったのか。
それに――どうせそんな行為に意味はないんだ。
だって、どうせ彼は死ぬのだから。
時間は残酷で、私がみんなからどんどん置いて行かれる事は産まれた時から決まっていた。
安らかな眠り、生命の終焉。
その意味は分からない、ただ私にとってそれらはただの別れでしかなかった。
だから、有体に言うのならば。
私は、彼と別れたりしたくなかったから、一方的に彼の事を忘れる事にした。
忘却、白紙。
時間は優しく、嫌な事でも放置しておけばどんどん過去のものとして記憶から抜け落ちていく。
だからこそ私は彼から離れ、そして時間が私の心を癒してくれる事を待ったのである。
1年。
彼が隣にいない事が辛かった。
2年。
彼の声が恋しくなった。
3年。
彼の元に戻りたくなった。
5年。
彼と出会う資格がない事を悟った。
10年
……それでも彼を忘れられなかった。
長い年月だった。
140歳を超える私が190歳になり、その年月の意味がどんどんと希薄なものになっていく。
しかしながら彼と一緒にいない時間はどうしようもない程に重たく、長く、まるで永遠のようにずしりと身体に圧し掛かって来た。
彼は今、どこで何をしているのだろう?
今もパンを作っているのだろう?
彼にも、好きな人が出来たのだろうか?
そうだとしたら――泣いちゃいそうだ。
ああ、そうだ。
いつからなのだろう。
彼の事がどうしようもない程に好きになっていた。
彼の事が愛おしく思える様になってしまっていた。
あまりにも、あまりにも長命種として致命的な間違い。
だって彼は私を置いていなくなる事は分かっていたのに、だから彼から離れたのに。
50年。
今でも私は、彼の事が好きだ。
それでも、嗚呼。
この心の衝動を身体は押さえてくれない。
だから、51年目。
私は彼の場所へと戻る事を決めた。
50年と言う年月は世界を万化させ、そして彼のモノだった筈の店は看板を下ろしボロボロになった建造物と化していた。
まるで人の気配のないその場所に、しかしパンの匂いが今でも残っている事にほっとする。
私は恐る恐る店の中に入り、そしてどこかで人の気配が動いた事を察する。
まるで、今にも風が吹けば崩れ落ちそうなほどの頼りないそれ。
私は、気づけば走るように建物の中を移動していた。
彼は――朽ち果てる過程にいた。
ベッドから唯一出ている顔は痩せこけまるで枯れ木の様。
その身体からは一切の生命力が感じられず、病に侵されている事を理解する。
しかし私が現れた事の彼は、どうしようもない程に喜んでくれた。
その事に私は――意味もなく心をときめかせてしまう。
「貴方は、もう長くないんですね」
「いや、俺はまだまだだよ」
彼は笑って答えてくれた。
「1000年後、俺はまた君に恋をするのだから」
そして――
その答えを言って満足したかのように、彼はこの世を去った。
墓は、彼の遺言通り作らずに遺骸は棺桶ごと海に放流した。
遠のいていく彼だったもの。
しかし私はそれがどこかへと流れていくのを最期まで見守る事はせず、すぐにこの場から立ち去る事にする。
あれは彼だったもの。
成れの果て。
あそこに彼は残っていない。
彼は、1000年後にまた、私に恋をしてくれると約束してくれたのだから。
だから待とう。
1000年先の未来、その時に何が待っているのか分からないけど。
長い年月だ。
私はそれほどの長い年月、一人で過ごさなくてはならない。
年月は私の隣人達をどんどん過去の人としていく。
この手をずっと握り返してくれる人はおらず、それでも。
遠い未来、近い先。
私はいずれ、彼と再会する。
だから――
▽
予感がした。
世界の歴史は煉瓦のように積み上げられていって壁となり、その先にある風景一切を隠して見せないようにする。
現実はなにで事実はどこにあるのか、それを知らずに伝聞のみで世界を知った気でいる人々は多くいる。
今では掌に収まるサイズのデバイスで世界と繋がる事が出来るが、しかし人々は過去よりもずっとずっと盲目的になった気がする。
ただ、それでも私にとってはそれらは些事な事である。
人々がどうなろうと私にとってはどうでも良い事であり、明日世界が滅んだとしても別に問題がなかった。
ただまあ――彼が暮らすべきなのは人々の中であり、だからそれだけの理由で残ってはいて欲しかった。
「もう、1000年経ちましたよ」
私の呟きは春の風に呑まれて消える。
桜吹雪。
薄桃色の花弁が宙を舞って私の髪に張り付く。
それを手で取りつつ空を見上げる。
嗚呼、空の色は昔と――あの時彼と出会い過ごした日々、あの時に見上げた時と全く変わらない。
結局――私は彼の事しか見ていなかったので、当時は空を見上げる余裕なんてなかったけど。
「君は……」
胸が。
ずきんと痛んだ。
振り返り、そこにいたのは一人の男子高校生。
黒髪、長身、痩躯。
そんな、あり触れた外見の少年。
私は、言う。
「人を」
「うん」
「人を、待っていて」
「うん」
「私の事を好きになってくれた人……1000年経ったから、きっとここに来てくれると思って」
何を期待しているのだろう。
彼は違う。
彼とは違う。
それでも、彼ととてもよく似た雰囲気を纏う少年。
「俺の、恋人になってくれませんか?」
その告白もまたまるで予定調和のようで、まるで1000年前からその言葉を待っているかのようだった。
そして私の回答もまた1000年前から決まっているかのようで――
「ごめんなさい」
「私、好きな人が、いるの」
私の答えを、しかし彼は特に驚いた様子もなく受け入れた。
「その人は、どんな人なんだ?」
「そう、ですね……私よりも大きくて、私の事を大切にしてくれて、私の事が大好きだった、そんな人です。ずっとずっと私の事を好きでいてくれた、そんな素敵な人です」
だから、ごめんなさいと私は答える。
「その人が私の運命の相手。その人の想いに応える為に、私は今、ここで待っているんです」
「そっか……」
少年は、しかし大して驚いた様子はなくむしろ嬉しそうに頷いて見せた。
「貴方は、今もその人が好きなんだな」
「ええ」
私は。
胸を張って答えられた。
「今も、彼の事が大好きです」
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