第20話 水は血より薄いけれど

「あの子を殺しましょう」


 大事な話があると改められた時点で、この提案を受けることは分かっていた。

 魔法の明かりも暗めの、向かい合った机で。


「もうそれしかありません。そうすれば夫妻はまた子作りを始めるはず」


 実際のところ、殺害自体は簡単だった。私たちは乳母の次にその子に近い立場だったからだ。ベッドに寝る赤ん坊をひっくり返せばいいだけ。しかし故意だとバレなくたって監督責任は問われるだろう。そうなれば最善の場合で二度とこの街の土を踏めなくなり、最悪の場合で命を失う。そうなっては子供を作るという当初の作戦が不可能になる以上、実行犯は——。


「お願いできますか」


 クレースはただ、頭を下げた。喉から絞り出すような声だった。痛々しかった。クレースほどに前向きな人間が、ただ頭を下げて人に死ぬことを強要している。そうせざるを得なくなっている。


 私はクレースの隣に傅いて、彼女の膝の手に自分の手を重ねた。不思議そうに見つめる彼女の両目にはかつてあった覇気がない。目の下のクマはもう無い時の方が珍しい。


「クレース」

「なんですか」

「逃げましょう」


 真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。


「こんなのおかしいです」


 クレースの表情は変わらない。熱の無い、無気力な。


「家の名誉がそんなに大事ですか。兄君だって不慮のこととはいえ火事で要人を五人も殺してしまったのですよ。それにクレースは兄君には嫌がらせを受けていたじゃないですか。こんな仕打ちを施した両親にも、兄君にももはや義理はありません。彼らのためにクレースが赤子殺しにまで手を染める必要はないのではないですか?」


 私は静かに訴えた。クレースは手を返して私の手を取り、目を落とした。


「イリヤには長く付き合わせてしまいましたからね。本当に、申し訳ありません」

「クレース」

「私は頭がどうかしていましたね。あなたを従者扱いしないと言ったのは、私だっていうのに、それがまさか人殺しを、ましてや赤子殺しを指示しようだなんて、ごめんなさい忘れてください。私が自分の手でやってきます」


 自嘲の笑いをこぼすクレースの肩に手を着く。


「クレース、やめましょう。どうしてそこまでクレースが身を削る必要があるんですか」

「私が殺しますから、イリヤが気にする必要はありません」

「理由を聞いているんです。理由が無いのですか? 意地で殺そうだなんていうのですか?」


 クレースは首を傾けながら、僅かに微笑んだ。


「赤ん坊の今が一番殺しやすくて、なおかつ、私たちの手に届くところにあるからですよ」

「違います。クレースは何に突き動かされてそれをやろうとしているのか、です」

「当初の計画である子どもを作ることはできなかったとしても、王位継承者を一人消したなら十分な功績です。何の褒章も受けられないだなんて道理は無いでしょう」


「しかしその恩恵をクレースが受けることは無いでしょう。家の者たちがあなたの犠牲を享受するだけです」

「それが?」

「それが問題でしょう。そこまでして家を繁栄させたいのですか」


「はい。私には血が流れていますから。歴史のある血です。王国設立時から連綿と続く血脈です。かつて公国が王国から分裂したとき、すぐには公国につかず静観を取った、慎重を貴ぶ家系なのです。七代。七代続いた家系なのです。私の代で没落させるわけにはいきません」

「理解できません」

「はい。イリヤには理解できないと思います」


 クレースは私を立たせながら自分も立ち上がって、再び頭を下げた。


「今まで、ありがとうございました」

「一蓮托生と言ったでしょう」

「それもここまでのようです」


 こんなにも弱弱しい人間を放っておける人間がいるだろうか? いやできたはずだ。以前の私にならできた。もっと何事に対しても斜に構えて冷笑を浴びせるのが私という人間だったはずなのだ。


 なら私はなぜこれほどまでにこだわっているのか? 私を縛るものは無い。逃げればいい。逃げればいいんだ。こんな人は放って逃げればいい。私はさっきこの人に義理を語ったな。それを言うなら私はこの人にこそ義理が無い。従者として一人傍に着けられただけだ。きっと私がいようがいなくなろうが公国の者は誰一人だって気にしない。何の憂いも無い。自分の命欲しさに逃げればいい。それを凌駕できる理由が——。


 ない。何の理由も思いつかない。本当に、私とこの人の繋がりを示すものも何もない。理由でこじつけられないなら、納得できないならこの人に付き合う意味が無い。こんな他人相手に命を懸けることなんてできはしない——。


「……? どうしました?」


 ——繋がりだなんて。


「私は、クレースにとって他人ですか?」

「えっ……いえ。他人では……ないです」

「私にとっても、他人ではありません。私たちには血縁は無いけれど、他人ではないです」

「そ……れは……」


 血の繋がりだけが人の繋がりじゃないはずだ。血の繋がりがなくたって、血の繋がりを残さなくたって、誰かは誰かと他人以上の関係になれるはずだ。私たちは血も繋がらない誰かを想って命を賭けられる。

 どこにでもありふれている水だろう。血よりは薄い。けれどその味は少しずつ違うし、私たちは同じ水を共有した仲だ。それが色が同じなだけの薄汚い繋がりに劣る理由なんてない。


 そのために私が死ぬのだとしても。


「そのお願い、聞き入れましょう。私たちの仲に誓って」





 けれど一点だけ。いつか。いつかクレースがかつての自分に戻れるように、人を殺してはやらない。誰一人も彼女の手で殺させない。


 これが私の折衷案にして最期の仕事だ。





 城下町を駆ける。ばしゃばしゃと水たまりを蹴って息を切らして駆け抜ける。冷たい雨に晒されて——腕の中に一人の赤ん坊を抱きながら。


「はあ、はあ」


 私は赤ん坊を殺すのではなく、誘拐した。

 私はイェナに殺されるだろう。一度王宮に踏み込んだ以上は逃れられない。

 けれど、赤ん坊はきっと生き残る。


「はあ……。あれ……?」


 ふと嫌な気配に視線を下ろすと、赤ん坊が目を開いてふるふると唇を震わせていた。


「あっ」


 ——マズい。


「ふっ、ええ、ふえええ——」


 すぐに泣き始めてしまう。雨の跳ねる夜の大通り。私は慌てて裏路地に入った。


「おしめ、じゃない。揺すってもなだめられない——」


 母乳だ。そうそれが問題だった。この子を生かそうと思うならば、誰か本当の母親に預けなけらばならないのだ。


「ど、どうしよう、どうしよう」


 狭い路地でおろおろとするしかなかった私に、声をかける人間が一人いた。扉を半分開いて顔を見せている。


「おいおいうるさいんだけど何事だい。うちの子も起きちゃったじゃんかあ」


 私はびしょびしょのまま、彼女の傍まで駆けよった。


「あ、あなたも子供がいるんですか!?」

「え? いるけど。夜泣きへの理解がなきゃあもっとキツい言葉をかけてたろうね」

「まだ母乳が出ますか!?」

「え……まあ出るよ。アタシ一歳までは絶対に母乳をあげるって決めててさあ」

「で、出るならば、この子に乳を分けてくれませんかっ……!」


 私は水たまりに膝を着いて、赤ん坊を抱いたまま額を地面に叩きつけた。


「えっ、なんだよ」

「り、理由は説明できないのですが……お願い、します……!」


 女性は私に怪訝な目を向けつつも。


「ほらお入り」


 そう言って家の中を示した。


「えっ……い、いいんですか」

「なんだよそっちが頼んだんだろうが。訳アリなんだろ。いいよあげるよ」

「あっ、あ、ありがとうございます。ありがとうございます!!」


 頭を下げる私に彼女は早く入れと催促する。


「あの、遅れて申し訳ありません、お名前を伺ってもよろしいですか」


 女性は私から赤ん坊を受けとりながら、得意げに笑った。


「アタシのことはリリーって呼んでくれればいいよ、アンタのことは何て呼ぼうか?」





**





 イェナのもとに密書が届く。公国の女王からのものだ。イェナは、クレースもイリヤも知らないうちに、女王から直接の命令を受けるほどの存在になっていた。

 内容に目を通せば、イリヤと赤ん坊を殺せという指示である。


「まあ、後顧の憂いは断っておくのが普通よね」


 イェナの手元にはイリヤの正確な〝身体走査ステータス〟がある。この情報があればどこに逃げおおせようとも殺せる。

 しかしこのとき既に事件から二か月が経っていた。赤ん坊の最後の〝身体走査ステータス〟は信頼できない。そもそも生後数か月の赤ん坊は視覚機能に不安があるので、幻覚で殺せる自信がイェナには無かった。


「せめてあと半年くらい経って脳機能が発達しなきゃあ可能性すらないわね」





 そうして、赤ん坊が生まれてからもうすぐで一年という頃に。イェナは王宮の誰も知らぬ間にイリヤに火をつけた。側にいる赤ん坊も殺すため〝燃え移る幻覚〟でもって。





 その身に余る雨にも耐えた、ただの無色のアジサイは、一年にも満たない僅かな時間、しかし確かにベルガーリャの母親であった。

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