第19話 地獄
私たちは早い段階でお手つき作戦が不可能であることを思い知った。
ウォルモンドという男は本当に細君ドレシアのことを愛していて、ドレシア浮気疑惑などの噂を立てても全く動じる様子が無かった。では酒の勢いだとかで誤魔化せやしないかと思うものの真面目に過ぎて全く酔っぱらいやしない。はっきりいって隙がない。
クレースとともに夫妻のベッドのシーツを取り替える。私はシーツにこべりついた液体を——カピカピと乾ききったそれを、顔から遠のけながらじとりと睨んだ。
「こうやって目にすることはできるのに。難しいものですね。これで妊娠できたら楽なのに」
クレースはせっせとカゴにシーツ類を放り込んでいる。
「シーツに染み込んだ精液を再び取り出して子宮に送り届けるだけでも至難の業ですよ」
「でも頑張れば物理的には可能そうですよね」
「そもそも精子は長く生きて四、五時間と聞いています。日光も受けてしまっていますしね。もう死んでいるでしょう」
姫は育ちがいいのでこういう話題にはやや難色を示す。むっと早口な感じだ。こんな任務に配された以上そろそろ慣れてもらわないと困るのだが。
「死にたてほやほやなんですね、こいつら。もう少し長く生きてくれてたらなあ」
「ほらまったくイリヤったら、行きますよ」
二人でカゴを抱え出て洗濯に向かう。
とはいえ私たちは行き詰まっていた。マトモではない手段を夢想するくらいには。
「この精子が生き返ってくれたらいいのに」
クレースはダンと音を立てて立ち止まった。
流石に生々しい話題を引きずり過ぎたか、怒らせてしまったかもしれない。
「ごめんなさいクレース、しつこかったですね——」
慌てて振り返るが——。
「生き返——らせる」
彼女の表情は思っていたものとは違っていた。目をぱちくりとさせて。
「あ、あの? クレース?」
クレースは突然足早になって私を追い越していった。慌てて後を追う。
「クレース?」
「イリヤ。いいことを言ってくれました」
「えぇ?」
「シーツのこの部分、切って持って帰りましょう」
精子も生き物。小さな生き物。蘇生の魔法が通用するはずなのだ。
またたく間に私たちの部屋には粗製のシャーレが積み上げられていった。今晩もまたクレースはシャーレの一つに向かって魔法を唱えている。
「クレース……もう今日は遅いですし、寝ないと明日に響きますよ」
クレースは目にクマを作りながら杖をシャーレに当てつつ、逆の手でスポイトを取った。
「いえ……今日の分はやっておかなければ」
確かにこれは私たちに射し込んだ唯一の光ではある。とはいえ……。
「ではすみませんイリヤ。今日もお願いします」
「は、はい」
スポイトを受け取る。
「どうしました?」
「いえ……なんでもありません。失礼します」
クレースの足の間に蹲る。スポイトを横から食んで唾液で湿らせる。
「では、入れますね」
「はい」
挿入すれば、うっと小さな音がクレースの口から洩れた。
「はい、終わりました」
スポイトを水に浸して作業は終わり。クレースはうーんと伸びてあくびをした。
「ふわあ。ちょっと根を詰めすぎましたね」
「全くですよ」
「でも時期がありますからね。機会は無駄にしたくないし」
クレースはじゃあねと手を振って先に布団に潜っていった。
私は机上に残されたシャーレをぼんやりとして眺めていた。
——これでいいのか?
おそらく私たちは、越えてはいけない倫理の一線を越えている。こんな、母体を実験体にするような所業を繰り返しては、きっとクレースの感覚は蝕まれていくことだろう。
けれどこれ以外にできることは何もなかった。
二か月後、クレースは子犬のように跳ねまわりながら生理が来ないことを報告した。
一週間後、生理は来た。ただの生理不順だったのだ。きっと願望が身体に影響してしまったのだろう。このときのクレースの落ち込みようは酷いものだった。
それからクレースの生理周期は安定しなくなった。こうなっては排卵日を上手く把握できているのかも分からない。精子を送入するタイミングが合っていなければ妊娠のしようもない。
夫妻が行為を行った翌朝に都合よく私たちに寝室の掃除が指示されて、なおかつ精子が残されているだなんて機会——これだってそう何回もあるものではない。精子のストックはいつもギリギリだった。
蘇生の魔法も曲者だった。目に見て分からないから、本当に蘇生できているのか分からないのだ。一体いくつ蘇生できているのか。百個でも本来の射精の何千分の一の数である。あるいは一個たりとも蘇生できておらず、私たちは無駄な時間を過ごしているのではないか。
クレースは生理が来るたびに謝った。そのたび私はクレースを励ました、私たちは一蓮托生だと。
一か月。二か月。三か月。四か月。五か月。六か月。
時間だけが過ぎる。いつ足抜けと判断され兄君を殺されるかも分からない。ただただ焦燥感だけが募っていく。ストレスは嵩むばかり。クレースは見る見る間に疲弊していった。
いつの間にか二年も経っていて。
そして、産まれてしまった。取り上げたのは、なんと私だった。そんな場に立ち会えるほどに、私とクレースはドレシアから信頼されていたのである。
「ドレシア様。女の子です」
クレースはへその緒を切りながら、ちゃんと王妃に笑いかけた。
「おめでとうございます、ドレシア様」
ドレシアは念願の第二子を抱いて喜びの涙を流した。
もちろん、こちらとしては絶望の限りだった。
私たちは王位継承者——ウルフリック王子の暗殺を後回しにしていた。それは痕跡を残さずに殺せる手段を見つけられていなかったというのもあるが、やはり精神的な抵抗感も大きかった。私たちは願っていたのである。ウルフリック王子が体質に負けてどこか私たちの関知しないところで勝手に死んでくれと。そうすれば私たちが殺すべき人間がいなくなり、女王陛下の要求に応えようがなくなるから。
だが、この健康な赤ん坊だ。今にして思えばわざわざ「王位継承者一名」だなんて指定——当時は一人しかいなかったというのに——をしてきた陛下は、この展開を予想していたのだろう。
この頃、国王が退いて、予定通りにウォルモンドが王位を継いだ。
国王夫妻の子作りの機会は当初に比べて激減していた。精子のストックも底を着く。
私たちは進退窮まった。
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