三章 色の無いアジサイ

第18話 二人で始める王国崩し

     ~~革命から十四年前~~


 馬が暴れて荷車が横転した。自殺しかねない勢いで謝り倒す御者に顔を上げてくださいと励ますのが私のご主人様。御者の態度は決して大げさということもない。ご主人様は腐っても我が国の姫なのだ。

 分家の、末端の、その身体に流れる血の他に何の価値もない姫とはいえ。


 私は散らばった姫の私物を集めていた。服などの柔らかいものは無事だが、化粧品を始めとした衝撃に弱いものは全滅だった。


 手鏡を取り上げる。映るのはそばかすの目立つ、腫れぼったい瞼の女。髪は濃いめの茶色、瞳も同じ色だ。割れ鏡越しの顔はピシリと亀裂が入っていた。姫の影が如きただの一般人にはお誂え向きである。


 姫が覗き込んでくる。杖を握っているので御者に回復魔法を施してきたらしい。私はへへっと陰気に笑って鏡を見せた。


「国境を越える前から幸先が悪いですね」

「ええ。心機一転、新たな自分として生まれ変われということでしょう」


 私にも回復魔法をかける姫に、私はというと白い目を向けていた。


「大層前向きなことですね」

「それは当然! 私は以前から王都に赴いてみたかったのです」


 私は感謝の言葉を一つで済まし、御者のケツを蹴りに行った。


「ほら、さっさと仕事してください。一緒に荷車を起こしますよ」


 荷車を起こすのに姫も協力したのは言うまでもない。御者と一緒に手を叩いて喜んでいる。なんなら混乱していた馬もいつの間にか姫に懐いている。


「やりましたね! イリヤ!」

「はあ、そうですね」


 溌剌と楽しげな姫の姿は、これからのことを思えば空元気にしか見えず、なんなら滑稽にすら受け取られた。





 王都潜入から三ヶ月。


「あ、イリヤ! お帰りなさい!」


 メイド業から帰宅した私を、姫はエプロン姿で出迎えた。既に調理は始まっている。


「あの、姫。困ります。私の仕事がないではないですか」

「いいえ! イリヤは疲れてるんだからゆっくりしててください!」

「ええー……」

「それに、私もじきにメイドになるのでしょう? ならば給餌を練習しておかなければ!」

「それはそうですけど」


 事前の計画では姫が使用人として潜入し国王のお手つきをもらうということになっていたが、まずはそれが現実的に可能なのかを私が偵察に出ることにした。

 75点のスープを飲みつつ、調査結果を報告する。


「結論から言うと、無理そうです」

「ええーっ!?」


 姫は思いっきり驚いている。こんなに驚かれるとこっちも興が乗ってきてしまう。まるでワクワクする秘密を出し渋るようにして、私は王宮の内情を暴露した。


「理由は三つあります」

「三つも!?」


「はい。一つは、いくら使用人としての腕が卓越していようとも経歴不詳では王族の居住区に配属されないし入る余地もないということ」

「それは困ったわね!」


「二つ目は、次期国王が真面目な堅物で女遊びの気配なんてなく、なんなら王妃にかなり入れこんでいるということ」

「夫婦円満ね!」


「三つ目が一番の問題です。顧問魔法使いであるイェナという女があまりに目ざとい。私は隙あらば軍事会議などを立ち聞きしようとしているのですが、私がそうしようと思った場面に限って必ずヤツは現れます。小細工一つ許されません。ヤツの監視の目を逃れて工作を行うのは不可能に思えます」

「優秀な人がいるのね!」


 フフンと鼻を鳴らし、十秒経って、別になんにも面白くないことを思い出した。顔色を窺う。


「あの、すみません、全く使えない情報ばかり持ち帰って」


 不安が伝わってしまったのだろう。姫は柔らかく微笑んで私の指を取った。


「いいえ。問題を把握しなければ解決のしようもありません。これは大きな一歩ですよ」

「ど、どうも」

「そして私には、そのうちの少なくとも二つを一挙に解決する妙案があります!」





 そんな計画が上手く行くのか。私は疑って仕方なかったしなんなら遺書を両親に送ったりもしたのだが、しかし対談は意外とスムーズに進んだ。


「凄く面白いわ! 大きなことをしてるって感じがする!」

「そうでしょう! これこそイェナ様の力を十二分に発揮できる機会! 妹様より名実ともに偉くもなれて一石二鳥! さあさあ乗るっきゃないっ!」

「わーっ! 乗ったわ! よろしくね!」

「よろしくお願いします!」


 姫とイェナは仲良く手を繋いでるんるんと回っていた。イェナのはしゃぎようは少女のようだ。言うまでもなく姫が手玉に取っている。いくつも歳上である人間の人柄を瞬時に見抜き籠絡して見せた。


 姫がイェナと交わした取引。それはイェナの全面的な協力を取り付ける代わりに、公国が王国を支配するときに、イェナに然るべき身分を与えるというものだった。


 しかし当然こんな契約を本国に黙ってすることはできない。本国の許可を得る必要があった。





 当時、私たちは本国からの返報の封を恐る恐る切った。中の書類は二種類。

 一枚は魔法の契約印だ。女王陛下の血印が刻まれている。イェナと交わすための契約書であろう。これはいい、私たちの要請を受け入れていただいたわけだから。問題はもう一つの方の便箋である。


「よ、読みますね、姫」

「お、おお、お願いします」





 親愛なる貴方へ、


 貴方からの報告を拝受し、重要な任務を引き受けてくださったことに、改めて感謝の念が深まるばかりです。


 こちらの季節は相も変わらず雪景色でございますが、そちらはもう少し温かいことでしょう。とはいえ数日前には温かい日があり、私たちが初めて出会った日を思い出しました。あの日の庭園も汗ばむほど暖かでしたね。兄君と共に過ごした時間が懐かしい。彼はこちらで元気にしており、大切にお預かりしておりますので、どうぞご安心ください。


 内容につきましては拝見いたしました。貴方が置かれている状況の重大さを理解しておりますし、同時に期待も大いに高まっております。今回の要請は、王位継承者の暗殺です。王宮内部への潜入が成功していれば、機会も巡ってくるでしょう。


 私たちの未来は、貴方の勇気と行動によって示されます。皆の期待が貴方の肩にかかっています。より良い明日のために、最善を尽くしていただくことを心から願っています。





 ——要求が増えてる!


 元々私たちに課された任務は子供一人作るだけだった。それ以上でも以下でもない。だというのに今回「王位継承者一名の暗殺」だなんて要求が追加されてしまった。きっちり人質の兄君の存在も強調されている。


「ひ、姫、これは……」

「暗殺……ですか」


 流石の姫とてやや曇った表情を浮かべていた。


 躊躇うのも仕方ない。我々は人を殺しに来たわけではないのだ。子供一人作ることに成功すれば分家のみなが救われるという提案を受けてきただけ。外様の冷遇をやめ、兄君の犯したかの罪も帳消しにしてくれるという甘言に乗ってきただけ。


 もちろん私はこんな性格だから、正味なところで言うと、私利のために人を産むことと私欲のために人を殺すことに何の違いがあるのかなどと考えたりもする。どちらも命を恣意的に操ろうとしている点においては大差ないし、そう考えると、今さら暗殺を躊躇するのはおかしな話だ。などと納得できる。実態は置いておいて屁理屈の上で一応の納得に到れる。


「いやー! しょうがありませんよイリヤ。やりましょう、暗殺!」


 けれど姫は優しすぎる。きっと人を殺すだなんてことはできない。あるいはそれをしてしまった姫はもう姫ではない。理想主義を掲げる自己犠牲の精神を持った私の癇に障る小癪な娘ではなくなってしまう。





 イェナの特権の元で、私たちは王族居住区への立ち入りが可能になった。

 門扉の前にて。


「姫、ここからは姫ともお呼びできないことをお許しください」

「これで初めて対等な友人ってことよね! 嬉しい!」

「いや、言葉の上でだけですよ。敬意は忘れません」

「あらー、残念だわー」


 最後に改めて確認した。


「その魔力でもって本名を使えばたちまち素性がバレてしまうでしょう。偽名が必要ですね」

「偽名……ですか」


 姫は少し悩んでから、どこからかその名前を取り出した。


「ではクレースと名乗ります」

「何か所以が?」


 そうしてクレースは王宮に立ち入った。


「いいえ! なんとなく!」


 不幸の雨の中にあって、アジサイは未だ鮮やかだった。

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