第16話 公国のスパイ

 国王ウォルモンドは王妃ドレシアを追って玉座の間へと入った。


 滑らかな石から微かに冷気が立ち上り、部屋全体がひんやりとしている。

 風が一つ強く吹いて窓を一斉に鳴らした。厚いベルベットのカーテンも僅かにその身を揺らしている。歴代の王たちの肖像画が一つ、ガタリと音を立てて床に落下した。


 天井まで届くタペストリーには王国の歴史とそこに連なる血脈が描かれる。タペストリーの足元、水より濃い血の川の果て——玉座の前に立った一人の女性を、ドレシアは見上げていた。

 雲が晴れる。天井の大窓から月明かりが差し込んで、空気中のホコリを青く浮かばせた。


 水色の髪、桃色の瞳。雨の中でも溌剌と。


『クレース』


 ウォルモンドとドレシアはそれぞれ彼女の名前を呼んだ。前者は尋ねる様子で、後者は確信した調子で。


「はい。お二方とも、御機嫌よう」


 このときのクレースの微笑みは、妖艶な気配が強かった。この底冷えする石造りの空間においては、地獄の川の渡し守のような、恐ろしくも儚い印象を与えた。


「やはり生きていたのね」

「ドレシア様。いいえ、私は誹りに堪え切れず自殺したのです」


 ドレシアはすぐさま右手を向けて雷を放った。燃え上がる玉座を背にクレースは健在。


「私はもう死んだ身、二度と殺すことは叶いませんよ」


 ウォルモンドは何かに思い至って周囲を見渡したが、目当てのものは見当たらない。それどころか、着いてきていたはずの従者たちの姿も見えないことに、このときになって初めて気づいた。


 ドレシアはわなわなと握った拳を空で振り下ろしてから、再び玉座を見上げた。彼女の喉は震えていた。怒りによるもの——ではなく。クレースが自殺したあの日からドレシアを襲い続けていた、膨らみ続ける黒雲の不安によって——震えていた。


「そう、ですか。では、私はあなたに、尋ねなければならないことがあります」

「まあ、ドレシア様が私にそんな言葉遣いをするだなんて。一体如何様な質問で?」

「あなたは……ほ、本当に、売女、では、なかったのですか」


 この質問を受けて、クレースは一度驚いた様子を見せたが、すぐに元の微笑みに戻った。


「はい。何度も言うように、私はあなたの友人でありましたし、あなたを裏切る気なんてこれっぽっちもありませんでしたよ。けれど私はあの日、無理やりに襲われたのです」


「それは違う!!」と声を挙げたのはウォルモンド。


「それは嘘だ! 自分は君と寝たことは一度たりともない!! あのパーティーの日の夜だって、自分には記憶が残っている!! 確かに自分は君に部屋へと送り届けられたが、その後、絶対に、間違いなく、すぐに床に着いたんだ!! 君を外に返し、部屋に鍵をかけて!!」


 クレースは眉をひそめた。


「酷い、酷いです、ウォルモンド様。私は覚えています。それにどうしたって、ガーレイドはあなたの子どもです。〝身体走査ステータス〟の血縁関係は嘘をつきません」

「それは……っ……!」


 ドレシアは早まる鼓動に肩を揺らしながら、怯えに歯を鳴らしつつ、不意に力が抜けたように膝を着いた。それから、腰を下ろし、膝を揃え、手を着き、頭を下げて——。

 土下座した。燃える玉座の前に立って全てを見下ろすクレースに向かって、額を床に付けた。


「もう、しわけ、ありませんでした。私が間違っていました」

「……え?」


「本当に……本当に、ごめんなさい。あ、ああ、謝って……謝って、済まされることでは、ない。無いわ。け、けれど、謝る、謝るしか。あなたは、私の話を退屈がらずに、聞いてくれた初めての子で、そっ、それも私の身分を考慮しての態度には、見えなくって、私があの子を失って、自暴自棄になっていた時も、親身になって世話してくれて、私を見捨てないでいて、いて、くれて。な、なのに、私、私……なんで……私っ……」


 クレースはまあまあと口元を隠した。嬉しさを隠しきれないままドレシアに微笑みかける。


「分かっていますよドレシア様。分かっています。お顔を上げてください。薬をお飲みになって。そうすればきっと気分が落ち着きます」

「え、ええ。そう……する、わ」


 ドレシアは身体を起こし、ポケットから薬ビンを取り出した。手の平の上で雑に何度も振り、そのまま口に持っていき飲み込む。


「はあ……はあ」


 フラフラと立ち上がると、だらりと腕を下ろしたまま、ウォルモンドの方へ振り返った。


「陛下。私は、あなたを愛していました」


 ウォルモンドは苦虫を噛み殺したような表情でドレシアの手元を睨んでいる。


「ドレシア、ずっとその薬を飲んでいたのか?」

「本当のことを話してください、陛下」

「答えてくれドレシア。その、それで、飲んだつもりでいたのか? いつから?」

「話を逸らさないで!!!」


 玉座の間全体に浮かび上がった無数の魔法陣。対してウォルモンドの頭上に発生したのは金色の魔力の糸だ。一瞬のうちに照り輝く王冠が織り上げられる。

 〝永劫無限の血印パーペチュアル・チェック〟。エリン王国の正当後継者に発現する「血に刻まれた祝福」の一種。予見される攻撃を凌ぐに足る魔力を使い手に提供する姿無き宝具。


 ——来る!


 全方位から襲い掛かった雷に、ウォルモンドの防御魔法〝位相の塗り替えロールバック〟は完璧に間に合っていた。はずなのに、彼の右腕は直撃の熱量に爆発してしまう。


「——!!」


 ダクダクと血を吐き出し始めた右肩を強く睨む。


 ——見えていたものよりも、本物は寸秒早く到達していた……のか!!


「陛下。私は、私はクレースに報いるため、には、もう……!」


 ウォルモンドはクレースに向かって怒声を上げた。


「きっ……貴様!! 貴様、よくもドレシアにこんな所業を!! 許してたまるもの——」


 次の雷はウォルモンドの視界には全く映っていなかった。胸元を貫き、続けて爆発。ウォルモンドの身体が四散する。


「あっ……え。あ、あれ?」


 ドレシアは不意に正気に戻った。しかし正気でもって夢だとしか思えなかった。


 ウォルモンドは病に心を蝕まれるドレシアのことを心の底から慮っていた。無差別に暴れる時も、自殺しようとするときも、ウォルモンドは必死にドレシアのことを救ってきた。ドレシアが抵抗のあまり攻撃したとしても、ウォルモンドは完璧に防御して、無傷で取り押さえていたのだ。


 だからこそ、ドレシアはこのときもまた、力の限り攻撃してしまった。


「あれ。えっ……え? うそ、うそよ。うそ……」


 慌ててポケットのビンを取り出す。再び薬を手の平に出そうとするが、しかし出てこない。


「え? さ、さっきはもっと、もっとあったはずなのに、あれ、あれ?」


 狂ったように空のビンを振り続けている。


「ふふ」


 階段を下りるクレースの姿は空気中に溶けて、代わりに別の女性が靄の中から現れた。

 ぴょこぴょこと跳ねるロングの黒髪。寝ているようにも見える垂れた糸目。翡翠の首飾り。魔法使いとしては正装に当たるローブ。黒を基調としてレースを利かせた高級品。細くたなびく炎を羽衣のように纏う魔法使い。

 世界の頂点八人にしか許されない「大賢者」の肩書きを掲げる者。

 パゼス・イェナ・フォン・サーカミー。


 彼女はドレシアの傍にひたりと立って、耳元でこう囁いた。


「私の貸しを反故にしたらどうなるか、知っていたはずでしょう、ね?」


 そのとき丁度現れた人物が一人。大扉に手を着いて固まる男子。間違いなくウォルモンドとクレースの子であるガーレイドは驚きのまま尋ねた。


「イ……イェナさん!?」

「よし、きちんと予定通りに来てくれたわねガーレちゃん」

「あ、あの。イェナさんがどうしてここにいらっしゃるのですか? 追放されたはずじゃ——」

「ガーレちゃん、ほら、これ」


 イェナが背中を軽く押すと、ドレシアは為すすべなく床に倒れ込んだ。転がる空きビンに手を伸ばすも届かない。ガーレイドには、宿敵であるはずのドレシアが、このときばかりは弱弱しい存在に見えた。


「殺すなら今しかないわよ?」

「あっ……いえ、あの……ガーレは、お父様と、この、ドレシアさんが玉座に向かったと聞いて、やってきたのですが……ドレシアさんのこの様子は、一体?」

「ウォルモンドちゃんを自分の手で殺しちゃったから、こんな感じになってるの」

「……え?」


「まあやる気がないなら、私が殺すけれど」

「こっ、殺します! けれどその前に、状況を、教えてもらえますか!?」

「はあ。まあいいけれど。——ガーレちゃん、この国を継ぐ者、その正当性を示すものは何かしら?」


「……? 〝永劫無限の血印パーペチュアル・チェック〟を戴くこと、でしょうか?」

「その通りね。その冠さえ身体に刻まれていれば、この国の王になることが認められる。誰にだって文句をつけることができない」

「そ、それはそうですが、お父様は死んで——死んでしまった?」


 ガーレイドはとある事実に気付いた。イェナは足を止めて口角を上げる。


「そう。〝永劫無限の血印パーペチュアル・チェック〟は平和的な授与が行われなかった場合、最も近くにいた『後継者』に憑りつくわ。それこそが——」


 ガーレイドは自分の胸に手を置いた。イェナはその仕草を見て微笑む。燃える玉座を背景に。


「そう、貴方よ、ガーレちゃん」


 ガーレイドには今のところ実感が無かった。自分に〝永劫無限の血印パーペチュアル・チェック〟が刻まれている実感も無かったし、その事実自体もどう受け取って良いものか分からなかった。だからどうしろというのか、イェナが何を言いたいのかが分からなかったのだ。


「さあ、これで全てを手に入れたわ、ガーレちゃん。あなたは——」


 イェナはガーレイドの両手を包む。


「公国の血を引く王として、この国を公国の名のもとに支配するのよ」


 この場に来てからずっと、ガーレイドは思考が現実にまったく追いついていない。反応すべき事実の多くを見逃してきている。

 しかしこのイェナの言葉だけは、聞き捨てならなかった。


「——は?」

「ね、手始めにこの女を殺しましょうか」


 赤ん坊のように地面を這って逃げようとするドレシアを、イェナは踏みつけた。


「ほら、殺したかったんでしょう? やっちゃいましょう」

「まっ……待ってください」


 ガーレイドの額に汗が浮かんだ。冷たい汗。表情も強張ってくる。


「あんまり悠長にはしてられないのよね。だってドレシアちゃんがいつ正気を取り戻すか分からないもの。正気を取り戻しちゃったら、正直言うと、ガーレちゃんなんて一瞬で蒸発しちゃうわ。今以上の好機なんて無いんだから。殺さなきゃ、ね」


「いえ。ガーレは、今、何か訳のわからないことを聞いたと思います」


 ガーレイドの鼓動は彼の全身に嫌というほど大きく響いていた。


「ガーレが、ガーレが公国の血を引いている?」


「ええそうよ。公国を支配するアーシェリーデ家の血を引いているわ。だからあなたは公国の王族として振舞えるし、同時にこの国の王としても振る舞える。一石二鳥ね」


 ガーレイドは首を傾げた。眉はひそめ震わせながら歪に笑う。


「あ、あの、えっと、何を言っているのか、分からない、んですけれど……」


 イェナはつまらなさそうにため息を吐いた。


「ちなみに貴方の聞き分けが悪い場合、洗脳していいって指示が出てるから」

「それは、公国の女王の指示、ですか?」

「それはそうよね」

「つまりガーレの存在は、ユルガンド女王の、計画のうち、ということ……なんですか?」


 泣きつくような悲壮な声で、縋りつくようにして質問を続ける。


「そ、それはつまり、ああ、あの、その、ガーレの母さんも? 母さんも、ユルガンド女王の指示で、この国に、えっと、その——」

「——潜入していた。というか私をこの計画に巻き込んだのもクレースちゃんね」


 ガーレイドはイェナのローブを掴みながら、力無く崩れ落ちていった。もう誰に尋ねるでもなく、ただぽつぽつと地面に向かって涙を落とす。左腕に無数に刻まれた白い傷跡が、今となっては彼を嗤うようだった。


「じゃあ……母さんはガーレを作るために……スパイ、として……」

「だからそう言ってるじゃない」


 イェナはガーレイドの額を指差した。


「は……は。そうですか。ああ、ガーレったら、なんて滑稽、な……」


 指先から魔力の光がほとばしり、ガーレイドは意識を失った。

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