第4話  迫りくる影


 たまの休日。

 公園のわきを通ると、子どもたちの賑やかな声が聞こえてくる。

 青空の下、上機嫌な雅人は軽快な足取りで歩いていく。


 休みの日は必ずある場所へ足を運んでいた。

 それが雅人にとって一番の楽しみであり、幸せだった。

 

 雅人は色とりどりの花で飾られた花束を嬉しそうに見つめ、大切そうに抱え歩いた。

 向かう先は都内の病院。


 病室のドアを開けると、綺麗な女性が雅人に微笑んだ。


「雅人、いらっしゃい」


 雅人は慣れた手つきで花瓶に花を飾ると、彼女の側にある椅子に座った。そして、ベッドに座る彼女の華奢な手をそっと握る。


「なかなか、来れなくてごめん」


 雅人が申し訳なさそうに眉を寄せると、由紀ゆきは可愛らしい笑顔で首を振る。


「仕事忙しいんでしょ? 大丈夫」


 由紀は小さい頃から体が弱く、普段から入退院を繰り返していた。


 彼女とは大学の頃に出会った。

 とても芯が強く、心優しい女性。動物好きで、出会ったときも犬を追いかけていた。


 あれはいつだったか。

 僕が道を歩いていると、突然ゴールデンレトリバーに突き飛ばされた。

 腰を抜かし座りこんでいると、犬を追いかけてきた可愛い女性が僕に声をかけてきた。


「ごめんなさい、大丈夫ですか?」


 その姿は僕の視線をくぎ付けにした。

 すごく可愛らしい笑顔に透明感のあるその肌と声。瞳にはきらきらとした輝きが宿り、まるで天使が舞い降りてきたのかと思った。


 僕の一目惚れだった。


 それからというもの、僕は何かしら口実をつけては由紀を誘い出し、幾度も逢瀬おうせを重ねていった。


 いつしか、僕の猛烈アプローチが功を奏したのか、由紀と付き合えることになった。

 そのときの気持ちは今でもはっきりと覚えている。

 いわゆる天に昇る気持ちとは、こういうことをいうのかと生まれてはじめて実感した。


 しかし、由紀は体が弱く、思うように会ったりデートすることはできなかった。


 僕はそんなことはどうでもよかった。由紀と一緒にいるだけで幸せだったから。

 誰かと一緒にいることがこんなに心地よく幸せなことだなんて、僕は由紀に出会ってはじめて知った。


 これからも彼女とずっと一緒に生きていきたい、そう願っていた。




 そのとき、ガラガラっと病室のドアが開く音がした。


「あ、先生」


 由紀が微笑む。


「やあ、お客さんですか?」


 その声に雅人の心臓は一瞬止まった。


 この声は……まさか。


 ゆっくりと振り返る。

 そこには白衣を着た空良が立っていた。


「雅人じゃないか」


 空良の爽やかな笑顔を見ながら雅人の頭は真っ白になった。


「二人とも知り合いだったの?」


 由紀は驚きながらも嬉しそうに二人を見つめ笑っている。


 一時停止状態だった雅人の脳が何とか稼働しはじめる。


「……空良、ここで働いているのか? ていうか、医者だったんだ?」

「そういえば、言ってなかった。俺、医者になったんだ」


 昔から空良は頭が良かった、医者になろうと思えばなれるだろう。

 しかし、由紀の病院に勤めているなんて……これは偶然なのか?


「それで、今度から由紀さんの主治医になったから」


 さらっと恐ろしい事を言う空良。

 雅人はゆっくりと空良に目を向ける。


 再会してから雅人ははじめて空良の目をしっかりと見た。

 空良の瞳はどこまでも深く底がないように感じられ、奥底で何を考えているのかなんて雅人にわかるわけもなかった。


「雅人、由紀さんの恋人なんだろ?

 これからまた会う機会も増えるかもしれないし、よろしく」


 空良が手を差し出した。


 由紀が笑顔で二人を見守る中、雅人は小刻みに震える手で空良と握手を交わした。






 俊介は帰宅のタクシーの中で、空良のことを思い返していた。


 あいつのことなんてとうの昔に忘れていたが、本人を目撃するといろいろ思い出しちまうもんだな。


 俊介自身、あの時のことは馬鹿なことをしたと思っている。

 今さら謝る気もないし真実を言うつもりもなかったが、若気の至りとは恐ろしいものだ。


 あんな奴のせいで人生棒に振ってたまるか、絶対あのときのことはバレないようにしないと。


 自宅に到着し、玄関の扉を開けるとそこには見慣れない靴があった。


 誰だ? 父さんの客か?


 リビングから笑い声がする。

 足音を立てないようにゆっくりと近づいていき、そっと様子を覗く。


 俊介は目を疑った。


 空良だ、空良がいる!


 リビングのソファに座り、笑顔で父と母と妹と楽しそうに談笑している。


 なぜ、どうして、あいつが俺の家にいるんだ?


 俊介が混乱して動けずにいると、


「どなたですか?」


 空良が声を発した。

 家族も空良の視線の先を追うように、みんながリビングの入口に目を向けた。


 俊介はこれ以上隠れていても意味がないので、みんなの前に姿を現す。


「なんだ、帰ってたのか?」

「そうなら、声かけてよ、もう」

「お兄ちゃん、お帰り」


 家族が声をかける中、俊介は空良をじっと睨み続ける。


「あ、すみません、挨拶が遅れまして。この度、お父様の主治医になりました、蒼井空良と申します」


 空良は俊介に向かって丁寧にお辞儀する。


 なんだと? 父の主治医?

 確かに父は体が悪く、前から往診に来ている医者がいたが……。


 俊介が考え込んでいると、空良が顔をじっと見つめてきた。


「あの……俊介くんですよね? 同じ中学だった」


 こいつ! やっぱり覚えてる。

 しかし、俺とあの事件は無関係だと思っているはずだ。大丈夫だ、狼狽うろたえなければ。


 俊介は動揺を隠しながら平然と返す。


「そうだったな、覚えてるぜ。元気だったか」


 そう問われた空良は一瞬間をおいてから答える。


「ええ……おかげさまで」


 その言い方に妙な違和感を覚えたが、そのときの俊介は気にならなかった。


「ねえ、お兄ちゃんなんか放っといて、私の相手してよ」


 妹が空良に腕を絡ませる。

 それを上手くかわして爽やかに微笑む空良。


「家族団欒だんらんを邪魔してはいけませんね、私はこれで失礼します」


 父も母もとても残念そうな表情になり、空良との別れを惜しんでいる。妹はというと必死に絡んで女をアピールしていた。

 空良はそれらをすべてやんわりとかわし、優しく諭している。


 なんなんだ……いったいどうなっている?

 こいつ、もしかして……。


 疑惑の思いを抱え、空良を睨む俊介。

 その眼差しに気づいた空良は何事もないように微笑み返す。


 今の空良の様子を見ていると、とてもそこに恨みや憎悪があるようには感じられない。



 20年も前の話だ。

 復讐だったら、とっくの昔に実行しているはず。


 俊介は湧いてきた恐ろしい考えをかき消すように頭を振った。

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