第3話 楽器と保健室

 吹奏楽部の一年は忙しい。練習はもちろん毎日放課後あるし、土日も練習や本番であっという間にすぎていく。夏のコンクールを終え三年生は引退し、美紅たち二年生が部活を率いていく立場になるのもすぐだった。

 新体制になってすぐの九月末に行われる文化祭は各文化部にとって大きな舞台の一つで、梓とゆっくり話す時間もなかなかとれない。美紅が気にかけているのをよそに、梓は実行委員に立候補し毎日慌ただしく過ごしているようである。

「委員会どうだった?」

 初回の集まりの翌日、教室で会った梓に聞くと、意外なことがあったと報告してくれた。

「えー上総が? 意外ー!」

 中学の頃を思い出してもそういう系に立候補するキャラではない。

「そうなの、じゃんけんで負けたんだって」

 くすくすと笑う梓は楽しそうで美紅はほっと安心する。知り合いが誰もいない状況で参加する委員会活動ほどつまらないものはないのだ。人当たりのいい上総といれば、部活に入らずバイトもしていない美紅の交友関係も広がるかもしれない。

(上総、梓を頼んだよ)

 勝手に願ったその願いは半分叶っていたようで、文化祭が終わる頃にはすっかり二人は友人になり、連絡先の交換もしているようだった。楽しそうに上総家の猫の話をする梓はとても可愛い。こんな顔してんのあいつ知ってんのかなーと美紅は心の中でニヤリと笑う。


 時期は過ぎて年が明け、校内ですれ違った上総から映画のチケットを貰った翌週末。日曜の試写会を控えた土曜日はアンサンブルコンテストの県大会予選だった。去年の年末はアルバイトしてたなと懐かしく思いながら、今年もこの日の為に練習を重ね美紅たちのチームも無事演奏を終えることができた。結果はまあそこそこといったところだったが、無事に終わった安堵感と開放感で学校に戻ってからの楽器の片付けも浮き足立っている。なんせこれさえ終わればしばらく大きな舞台はないのだ。新年度を迎えるまで、ようやく一息つくことができる。引率していた顧問の教師はコンテスト運営に携わっており、片付けの手伝いがあるからと会場に残っていた。先に学校に戻った部員たちは、手伝いにきていたOBと共に楽器をトラックから運び下ろし手分けして楽器室まで搬入する。

「無事終わってよかったね」

「あの学校今年もすごかった」

「県大会行きたかったなー」

 顧問がいないこともあり、どこか緩い雰囲気で片付けをする部員たち。美紅も細々した部品や小さめの楽器を抱えては運び階段を上り下りしていた。

「大きいの通るよー」

 廊下の端から大柄の男子生徒たちが数人でマリンバを運んでくる。進路を開けようと数歩後ずさった美紅の後ろは不運にも階段だった。 

「あっ」

 縁で足が滑る。がくんと体が沈む感覚。このままでは落ちる、と、頭では理解しているのに体が動かない。

(クラ!)

 高校で吹奏楽部に入り、クラリネットにパートが決まったと報告した時に、従姉妹からもらったクラリネット。中高と強豪校で活躍していた彼女は既に社会人になり、今は楽器を手にする暇もないのだという。愛用の楽器を引き継いでもらえるなら嬉しい、よかったら使って、という言葉と共に渡されたそれは、お下がりでも、古くても、美紅にとっては掛け替えのない大事な大事な一本だ。

 ケースを胸に抱え込む。その動きで踵が滑り止めにひっかかって、右の足首から先が変な方向を向いた。

「い゛」

 痛い、と言葉が出る前に視界が変わった。天井が見える。

「美紅!?」

「信濃っ」

「きゃー!!」

「先輩!」

 みんなの声がする。悲鳴も聞こえる。しかしどうすることもできない。身を縮め来るであろう衝撃と痛みに備えて目を閉じた。

「信濃!!」

 一際大きな声がしたと同時にがつん、と後頭部に衝撃が………こなかった。

「セーーーーーフ」

 大きな手が倒れる寸前の背中を支え、そのままゆっくりと座らされた。階段の段に腰かける格好になった美紅を上から覗き込むのは。

「大丈夫か」

「日向…先輩」

「よかった。頭を打ったら大ごとだから」

 ほっとして頬を緩めた崇史の眼鏡が斜めにずれている。普段きちんとしている彼には珍しいことだ。目の前に見慣れないものがあるのと驚きのあまり反応が鈍くなっているのとで、美紅は呆然としたまま崇史の顔を見つめていた。

「美紅、美紅っ! 大丈夫?」

「保健室って開いてるかな」

「見てくる」

「先輩、早く早く」

「なんやなんや」

 部員の一人が純哉を呼んできたらしい。友人の到着に崇史の視線が自分から外れ、ようやく美紅も首を動かした。

「大丈夫か信濃」

「は、はい」

 純哉の声に応え立ち上がろうとしたが

「痛!」

足首に力が入らずよろめいてしまう。さっとその体を支えたのはすぐ脇にいた崇史だった。

「捻った?」

「これくらい、大丈夫です」

 とは言ったものの。

 足首の捻挫は初めてではない。中学時代陸上をやっていた時に何度か経験している。そして、その経験が今回のは酷いと告げていた。

「動かさないほうがいい」

「崇史の言うとおりや。とりあえず保健室運ぼか」

 純哉の声に頷いた崇史が「ごめん」、と一言言ったかと思うと、さっと美紅を横抱きにして抱え上げた。

「えっ」

(えええええ!!??)

 至近距離に崇史の横顔がきて、一気に頬が熱くなる。練習用のジャージを着ていたのがまだ救いか。いや、足の太さがわかるぶん、これはこれでスカートより恥ずかしいかもしれない。

「や、降ろしてくださいすぐ降ります」

 意識すれば余計に恥ずかしくなって、強引に降りようともがく。

「危ないからじっとしてて」

「いやいやいや降りる降ります」

 周囲の部員たちも眼前の光景をからかうどころではなくハラハラしているようで

「美紅、ダメだって!」

「ここは先輩に甘えときなよ」

「無理に動かすともっと酷くなるぞ」

口々に言うものだから、降りるに降りられなくなってしまった。

「うー…」

「ほな俺先行って、保健の先生に言うてくるわ」

 ぴょんと階段を数段一気に飛び降りて踊り場を回ると、純哉の姿は階下に消えていった。

「ゆっくり降りるから掴まってて」

「はい…」

 それきり言葉を出すこともできず、思考だけが美紅の頭の中でぐるぐると回っていく。


 連日の練習に疲れが溜まっていたとはいえ。寒い校舎で体が冷えていたとはいえ。

 中学の時はあれだけ動いていた、動かせていた自分の体が言うことを聞かなかったという事実。優男にしか見えない崇史に軽々と持ち上げられたこと。色々な感情が一気に押し寄せてきて鼻の奥が痛くなってきた。

「痛い」

「うん」

「明日、梓と映画観に行くのに。ふわふわパンケーキ、食べる約束もしてたのに」

「映画はまた行けるよ。パンケーキも」

 美紅はいやいやをするように首を横にふった。

「せっかく試写会の券もらったのに」

「今度俺が奢ってやるから」

 冗談なのか本気なのか。声が耳だけじゃなく背中に回された腕を通しても伝わってくる。

「梓と行きたかった。のに」

 視界が滲んで、つんとした鼻が声を濁らせる。

「…約束は確かに残念だったけど。俺はお前のことすごいと思う」

「なんにもすごくない。だってこんな」 

「一瞬の判断で楽器を守った。偉い。俺にはあんな反射神経ないから」

 咄嗟の判断を褒められて、最後の堤防が決壊してしまった。痛いのと悲しいのと情けないのと、認めたくはないけど嬉しいのと、色んな感情が混ざって爆発しそうで、でも全部を痛みのせいにしてしまうことにした。

「いたい」

「泣くほど痛いのか」

 こくりと無言で頷いた。

 崇史から返事はない。そのまま歩みに任せ、美紅は目を閉じた。


 保健室に到着したが、扉は開いておらず中に人の気配もない。

「誰もいないのかな」

「もう着いたんだからおろしてください」

 いろんな感情が限界に達して、美紅は精一杯の抵抗を込めて訴えた。

「わかった、わかったからちょっと待って」

 この状態で抱き続けるのは逆に危ないと判断し、崇史は少し腰を落として左肩を下げ、美紅の足を降ろした。

「!」

 足が着いた瞬間に美紅は痛みで声を上げる。

「ほらやっぱりまだ」

「いえ! 大丈夫、です!」

「おーい」

「あれ」

 純哉が慌てて走ってくるのが見えた。保健教諭はおらず一人だ。手には鍵を持っていてぶんぶん振り回している。

「いなかったのか」

「おう。先に鍵だけもろてきた。開けて入っとってやって」

 崇史の問いに答え、早速保健室の鍵をがちゃがちゃと回す純哉。

「丹波が後から行くってゆうとったで」

「丹波先生か」

 丹波というのは陸上部の顧問で、若い体育の教師である。姉御肌で面倒見がよく、女生徒たちからは人気が高い。

「なら安心かな」

「そうは言うても信濃一人にしておけん。俺部活に戻って後やっとくから、お前はここでついとったってくれ」

「わかった」

 勝手に話をすすめる二人に美紅は申し訳なくなってくる。

「ええんやって。これも三年の仕事や。明日報告もせなあかんし」

 確かにそうだ。よりによって顧問がいないタイミングで部員が怪我をしてしまったのなら、引退しているとはいえ最年長の三年生も説明を求められるだろう。

 よく喋る純哉が出て行くと、保健室はいきなり静かになった。

「………」

 居心地の悪そうな崇史にかまわず、美紅は足をひきずりながら奥の冷蔵庫に向かうと、冷凍室から保冷剤を取り出した。その辺にあった丸椅子に腰掛け足首を冷やす。捻挫の応急処置は冷やすのが最優先だ。

「あのっ」

「ん?」

「その、ありがとう…ございました」

 あんな状態を見られてしまった。恥ずかしくて顔をみられない。しかし勇気を振り絞って言葉を口にする。

「ちゃんとお礼、言えてなかったので」

「いや、こっちこそ、あー、ごめん」

「え?」

「許可もなくあんなことして」

 状況が状況だっただけに揶揄ったりするような者はいないだろうが、なにせお姫様抱っこである。同世代の男の子にされたのはもちろん人生初。美紅の顔がさらに赤くなった。

「心配で、ついとっさに」 

 普段の冷静さはどこへやら、しどろもどろで言い訳を始めた崇史になんと言ってやろうかと美紅が答えあぐねていると、

「ごめんね、お待たせ」

がらりと戸があいて長身の若い教師が入ってきた。手には救急箱を持っている。

「保健室どこに何があるかわからないから、陸上部の持ってきちゃった」

 言いながら机の上で蓋をあけ、足首を冷やしている美紅に声をかけた。

「大丈夫?かなり痛む?」

 しゃがんで足の様子を見る。

「すぐに冷やしたのね。よかった」

「はい。そこの冷凍庫にあったやつを借りました」

「うんうん、まず冷やすのが大事だからね。大正解よ。動ける? こっちに座って」

 丹波は美紅をベッドに移動させ、伸ばした足を確認する。空いた丸椅子の方は崇史に勧めた。

 出血や傷がないことを確かめて、丹波は持ってきた箱から肌色のテープを取りだしくるくると手早く巻きつけていく。

「とりあえず応急処置としてやっておくけど…テーピング、自分でもできる?」

「はい。中学の時陸上部だったので」

「そかそか、なら大丈夫ね。とにかく今日は安静にして明日…は日曜か。月曜には病院に行ってね」

「あー…やっぱりそうなりますよね」

 丹波の言葉にがっくりとうなだれる美紅。

「結構腫れてるし、今晩もっとひどくなるかもしれないから必ず行くのよ。最悪折れてる可能性も覚悟しといてね。月曜休むことは伝えておくから。担任誰だっけ?」

 その場で親に連絡を取り迎えに来てもらえることを確認すると、学校内での怪我に対する書類を用意してくると言い残して丹波は職員室に戻っていった。

 そしてまた、二人で保健室に残される。丸椅子を移動させ、崇史がベッドの側に座り直した。

 夕方の日差しがカーテン越しに室内を照らし、少しだけ開けた窓から入る風が保健室特有の消毒薬の匂いを運んでくる。冬にしては暖かな空気が保健室を満たしていた。

「…前に」

「え?」

「夏前にさ、信濃の友達からの告白断って、なんでって聞かれた時」

「ああ、梓の」

「あの時、受験終わったら告白したい相手がいるって俺が言ったの、覚えてる?」

「そういえば、そんなこと言ってましたね」

 首を傾げて記憶を辿りながら、思い出す美紅。

「あれって、信濃のことなんだ」

「へー…」

 じんじんと痛む足首にタオルを巻いた保冷剤を当てながら美紅が返事をした後、しばらく沈黙が続いた。

「へっ!?」

 先ほどの言葉を反芻しようやく飲み込んで、美紅は顔を上げる。普段は冷静な崇史だが、こちらを直視できないのだろう。運動部の掛け声を聞くかのように顔を窓側に向けている。その横顔が赤く染まっていた。

「先輩、今なんて」

「だから」

 思い切って顔を向け、美紅をまっすぐ見つめた崇史は言う。

「俺が告白したい相手は信濃、お前なんだ」

 美紅は耳を疑った。返事をしようにもあまりのことに声がでない。

「俺と付き合ってくれないか」

「な、なななな、なんで今」

「本当は卒業直前に言うつもりだったんだよ。卒業したらつきあってほしいって。でも。今がチャンスかなって」

 怪我したところを助けられた。誰にも見せない弱音を見られた。卒業前に三年生が登校する日はもうほとんどない。そして休日の静かな保健室に二人きり。

 確かに、確かにまたとないタイミングだろう。しかし。

「あーーーー、ちょちょちょ、すみません、ちょっと待ってください」

 美紅は頭を押さえた。足首を押さえたまま頭を押さえたので前のめりでおかしな格好になる。

 心臓の音がうるさい。どんなに走りこんでも、大きな大会の代表になっても、ここまでどきどきと暴れたことはなかった心臓が。

(ど、どうしよう、どうしよう、どうしたらいいの~!?)

 思考が頭をぐるぐるにして痛みを忘れそうになった時、保健室の扉が空いて部員たちが次々に顔を出した。

「おまたせ~片付いたよ!」

「これ楽器と鞄。持って帰れる?」

「どんな具合? 大丈夫?」

「先輩、ありがとうございました」

「えっ、ちょ、美紅顔真っ赤じゃん、熱とかない?」

 あっという間にベッドが取り囲まれる。崇史には純哉が話かけている。

 そうこうしているうちに丹波が戻り書類を渡され、迎えにきた親の車に乗せられて、美紅はうやむやのうちに帰宅となってしまった。

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