3-3 本当に――ありがとう
マンシュタイン殿がご家族を溺愛しているらしいことは、ご自宅に辿り着くまでの道中でハッキリ分かった。
私とニーナを引き連れて自宅へと向かう途中、御仁の足取りは完全にお昼休みはウキウキ状態。事前に注文していたらしい奥方と娘さんへのプレゼントを店で受け取って以降は、ご家族が如何に可愛いかを存分に論じて頂いた。それも娘さんだけでなく奥方についても、だ。最初は私だってキチンと相槌を打っていたのだが、そのあまりに甘い話に途中から白目を剥き、たまらず相手役をニーナに押し付けてしまった。
が、そこは可愛いちびっこが大好きニーナである。無事にどころか逆に食い込んでいく勢いでマンシュタイン殿と話に花を咲かせ、ご自宅にたどり着いても二人の会話は一向に終わる気配を見せなかった。よくもまあ、そこまで話が続くものだ。
「マンシュタイン殿、早くプレゼントをお渡しするのではないのですか?」
「おっと、そうだった。マリエンヌっ! エリーっ! 帰ったぞーっ!」
ご自宅のドアを勢いよく開けて叫ぶ。すると、髪の長い年若い奥方、そして「とっとことー」という擬音がよく似合いそうな小さな女の子が飛び出して我々を出迎えてくれた。
「おかえりなさーいっ!」
「ただいま、エリー。いい子にしてたか?」
「うんっ! ちゃんとママのお手伝いもしたよー!」
「そーかそーか! 偉いぞー。じゃあ、そんなエリーに……プレゼントだっ! もちろんマリエンヌにも」
「うわぁ! ありがとう、パパ!」
「ありがとう、フランツ。いらっしゃいませ。貴女がシェヴェロウスカヤさんかしら?」
「はじめまして」微笑む奥方に、帽子を取ってこちらも表情を崩す。「アーシェ・シェヴェロウスカヤです。こちらは部下のニーナ・トリベール」
「はじめまして。いつもフランツがお世話になっております」
マンシュタイン殿の奥方は品があって実に感じの良い御方だった。歳は私と一回りくらいしか離れてないんじゃないだろうか。彼が五十過ぎだから――まあ隅に置けない方だ。
と、そこで足元から視線を感じた。
「……」
エリーと言ったか。マンシュタイン家の娘さんが奥方に似たクリっとして可愛らしい瞳で見上げていた。なのでこちらも負けずにニコっと天使も裸足で逃げ出すと自負する笑顔を浮かべてやったのだが、奥方の後ろに逃げられた。なぜだ。
「……お姉ちゃんも軍人さんなの?」
「ああ、そう――」
「そうだよ、エリー」マンシュタイン殿がエリーを抱いて微笑みかけた。「このお姉さんたちのおかげでエリーやママが元気に過ごせてるんだ。だから今日はしっかりおもてなししてあげるんだぞ?」
「……うん、分かった!」
マンシュタイン殿の言葉にエリーは満面の笑みで応えると、彼の腕から降りて私、そしてニーナの手を引いてダイニングへと向かっていく。さすがに幼女の手を振り払うわけにもいかないから素直について行くは行くんだが。
(なんだろうな、この……)
むずがゆさと胸に過る疼痛。決して不快ではない。だが、この場を楽しみたいという思いと同時に早く立ち去りたいという、相反する感情がこみ上げてくる。それを押し隠して、私は小さな淑女が引いてくれた椅子に腰を下ろした。
そんな私の葛藤とは裏腹に、食事会は非常に和やかで楽しいものだった。
マンシュタイン殿が理知的で個性的なのは知っていたが、奥方もなかなかどうしてウィットに富んでいて、かつ、社交的な御方だというのがよく分かる時間だった。なにせ私が毒を吐くこともなく、かつ、ストレス無く会話が弾むのだからな。おまけに酒についても造詣が深いようで、まったく、素晴らしい奥方を見つけたものだと感心するしかない。
「しかしだ、ニーナ君。あそこをそんなふうにしてしまうと――」
「仰ることは分かります。けど、そこを解決できれば――」
そして私を招いたはずのマンシュタイン殿はニーナと先程から喧々囂々の白熱議論を交わしていた。予想通り私そっちのけで。二人とも私ほどではないにしろ、それなりにアルコールが入ってるだろうによく頭が回るものだとこちらにも感心するばかりだ。
とはいえ、私も不満はない。料理もマンシュタイン殿が私を招くダシに使った酒もすばらしいし、何より奥方がすばらしい御方だからな。このおっさんには実にもったいない。
「ごめんなさいね。あの人、お酒が入るとああなのよ」
私が一人でのんびり酒を楽しんでいると、お嬢さんを寝かしつけた奥方が隣に座って申し訳無さそうに笑った。
「構いませんよ。マンシュタイン殿が用意してくださった美味い酒にマリエンヌ殿の美味しい料理。文句などありようがありません」
「ふふ、ありがとうございます」
「マンシュタイン殿は普段もああして技術的なお話を?」
「そうなのよ。専門的な話なんて私にされたって分からないのにね。でも今日はニーナさんがいてくれて助かるわ」
やれやれ、と呆れたような仕草を見せるが、だからと言って嫌がってるような素振りはなく、どちらかと言えば普段のそんなやり取りを楽しんでるように私には思えた。
「マンシュタイン殿は良い奥方を見つけられた。夫婦仲が良いことは素晴らしいことです」
「ありがとう。でも今みたいに仲良くなったのは結構最近なのよ」
「そうなのですか? てっきり昔から愛妻家だとばかり」
「とんでもないわ」マリエンヌ殿は笑った。「あの人はいつも研究、研究で……起きてる時間に帰ってくることなんて殆ど無かったわ」
彼女は懐かしむようにワイングラスを眺めて、それを飲み干した。
アルコールに背を押されて語ってくれたところによれば、結婚した当初――十数年前は殆ど家庭を省みることは無かったらしい。生活の中心も頭の中も全て研究が占めていて、帰ればすぐに倒れ込むようにして眠りにつき、起きればすぐに研究所へ出勤していく毎日。彼女も寂しかったとのことだが、マンシュタイン殿の事を誇りにも思っていたようで。
「人伝てにしか私も聞いてないけれど、色んな技術の開発に成功してたんですって。他の誰も追いつけないくらいに……悔しいけれど、きっと私と過ごすよりも研究の方がずっと楽しかったんでしょうね」
それはそうかもしれないな。好きな仕事で、しかもやればやるだけ成果が出る。難問が立ち塞がろうと自分の叡智が上回る。楽しくないはずがない。
仕事ができて、なにより王国を守るのに貢献している人物。それが自分の夫なのだ。誰だって誇らしいだろうさ。
「でもある頃から――」
徐々に仕事が上手くいかなくなった。それは加齢のせいかもしれないし、或いは当然に訪れるべきだった壁がようやくやってきたのかもしれない。なまじ自分の能力に自信を抱いていたから他の研究員の意見に耳を傾けず、自分だけで解決しようと抱え込み、やがて――マンシュタイン殿は壊れた。
「やせ細ってボロボロになって――首を吊って自殺しようとしたこともあったかしら。かろうじて止めたけど……あの頃は、彼を見ているだけで辛かったわ」
「そんな事が……」
「今のあの人見てるとそんな風に思えないでしょ?」
確かに。あのおっさんはこちらがどんなにダメ出ししたところで堪えること無く、次の評価を依頼してくるからな。他の連中に比べてよっぽど鋼の心臓を持ってそうだったが。
「そんなあの人が立ち直ったのはね、アーシェさん、貴女のおかげなの」
「私、ですか?」
はて、そんなボロボロな頃のマンシュタイン殿に会ったことはないし、何かをしたこともないはずだが。怪訝な顔をした私を見て、マリエンヌ殿はクスリと笑ってリビングの壁に掲げられている、この温和な家庭に似つかわしくない魔導銃に顔を向けた。アレは――
「――八五式魔導銃、ですか? 懐かしいですね」
アップデートが激しい魔導銃の世界で、それはかなりの骨董品だ。あまり魔導銃を使わない私だが、八五式だけはよく使っていた。私だけでなくアレクセイたち前線で共に闘った古参連中もアイツを手放そうとしなかった。おそらく今も時々使ってるはずだ。伝導効率、重量バランス、射程距離に馴染みの良さに整備性。どれをとっても傑作だったと思う。
ひょっとして。
「あれはね、あの人がまだ一人前になりたての頃に開発した物なの」
「なんと! マンシュタイン殿が開発したものでしたか」
「アーシェさんの部隊、あれをずっと使ってたでしょう? ある時に表彰される貴女と部下の人たちが大事そうにあの銃を持っているのをたまたま見かけて気づいたんですって。『技術は誰が開発したかよりも、誰を守ったか。それこそが一番重要なんだ』って。
それ以来、夫はがむしゃらなのは変わらないけれど、でも前と違って色んな人と一緒に、頻繁に意見を交換しながら研究するようにしたらしいの。そうしたら新鮮な発見が多くてまた仕事が楽しくなったって、毎日笑うようになったわ」
「なるほど……ですが私はただ、あの銃が傑作だったから使い続けただけです」
「それでも、よ」ふわりとマリエンヌ殿は笑った。「貴女が使い続けてくれたから夫は立ち直れたの。偶然だとしても、貴女があの日あの場所であの銃を持っていてくれたから。だから話を聞いて、ぜひ御礼を言いたくて夫に招いてもらったのよ。本当に――ありがとう」
マリエンヌ殿はグラスを握ったままの私の手を包み、そう心からの感謝を伝えてきた。
別に私が意図してマンシュタイン殿を立ち直らせたわけではないから正直、礼を言われても困惑が勝つ。だがまあ……嬉しくないわけでもない。ありがたく頂いておくとしよう。
とはいえ……きっとマンシュタイン殿が立ち直れたのは私よりマリエンヌ殿の献身のおかげだ。でなければ、プレゼントを選ぶ彼の柔らかい微笑みも、帰りしなに笑顔で出迎える娘さんも、わざわざその程度の理由で私を招こうというマリエンヌ殿のゆとりも生まれまい。こんなにも……愛にあふれた暖かい家庭が生まれることは無かっただろうさ。
(暖かい、家庭……家族……)
そんなもの、この世界には存在してなかったな。気がついた時には孤児院にいてクソみたいな扱いだったし、その後に引き取られた場所でも悪くはないがロクな記憶はない。
でも――暖かい家族の存在は知っている。だがそれは奪われ、そして未だ取り戻せていない。
グラスの中で私の顔が揺れる。顔を上げてマンシュタイン殿を見れば、真っ赤な顔で未だニーナと議論を交わしていた。マリエンヌ殿もそんな夫に優しい眼差しを向けている。
ここにあるのは、間違いなく素晴らしい愛だ。きっとこのご夫婦にとってこの場所は何にも代えがたい場所で、だからこそ――私という異物が混じり込んで良いわけがない。
左手をつい握り、ふとぬるりとした感触を覚えて手のひらを見れば、料理の赤いソースで汚れていた。瞬きすればそれが一瞬で赤い血に変わり、背筋が凍るような心地がして目を擦ればまた元のソースへと戻っていた。
(やはり――)
どうにもこんなキレイな場所はなじまない。汚れをズボンに擦りつけ、グラスに残っていた高価な酒を一気に飲み干す。しかし先程まであった香りはどこにもなくて、ただ善良な人間を喰った時のような苦々しい味わいだけが、喉の奥にいつまでも張り付いていた。
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