2-8 ああ、ご存じないのでしたね



――Bystander


 静まり返った深夜の研究所を、太った男が一人歩いていた。

 彼はでっぷりとした腹を突き出すようにして廊下を進む。軍靴が床を叩いて控えめなコツコツという音を立て、他に音を奏でる物もないからその足音はよく反響した。

 足音が止まる。そこは資料保管室だった。これまでヘルヴェティア王国が研究・開発した魔装具類に関して、最近の研究資料がこの部屋に保管されている。

鍵をゆっくり開ける。中に入ると、棚一杯にぎっしりと報告書のファイルが並べられていた。しかし彼はそこには見向きもしない。


「……」


 彼が向かったのは部屋の一番奥だ。そこには大きな金庫が鎮座していて、前に立つと彼はポケットから別の鍵を取り出して鍵穴に差し込む。そして取り出したメモをライトで照らしながら、ダイヤルロックの数字を合わせていく。

 やがてカチリ、と音が響いた。彼はその口元を醜悪に歪ませた。

 金庫の中にあった報告書と設計図面が入ったファイルを鷲掴みにすると、彼はすぐに鍵を掛けて部屋から飛び出した。興奮と疲労に息を荒げながら暗い廊下を駆け抜けていく。

 乱れる息を抑え込み、流れる脂汗を拭いながら建物を出る。ちょうど居合わせた、深夜まで研究に励んで退勤する研究員たちに紛れ、ことさらに威圧的な様子を振りまきながら堂々と門を通過していく。そうして、彼は研究所を脱出することに成功した。

 それでもまだ安心はできない。彼は足早に離れると、停めてあった自動車に飛び乗って深夜の街を猛スピードで走らせる。途中何度か振り返ってみたが、追手が来る気配はない。彼はようやく安心して車の速度を緩めた。


「……ぬふふ」


 成し遂げた高揚感が満ちていく。そしてこれから手に入れるであろう見返りに胸を膨らませ、あれこれ妄想を膨らませながら彼が向かったのは北東の九番街だった。

 車を停め、トランクからアタッシュケースと封筒を取り出す。ここまで来れば息を潜める必要さえない。いつものようにふんぞり返り、どすどすと地面を踏み鳴らしながら封筒と重い荷物を持って待ち合わせ場所へ向かった。

 建物の隙間を縫って生ぬるい風が吹き抜ける。季節はもう初夏だ。標高が高いため朝晩は冷えるが、今日は先程まで雨が降っていたからか、冷え込みは厳しくなかった。代わりに空気は湿って粘り気があった。まとわりつくその風が不愉快で、額の汗を太い指が拭う。

 まだか。彼は懐中時計をにらみながら苛立たしげに脚を踏み鳴らした。約束の時間まではまだ数分あるが、報酬の待ち遠しさに苛立ちを感じていた。

 そうして待つこと十五分。未だに彼の元には誰もやって来ない。待ち合わせの時間は過ぎていた。雲に隠れていた三日月が不気味な笑みを覗かせる。誰かが近寄ってくる気配は一向になかった。


「おい! いつまで我輩を待たせるつもりだッ! 近くにいるのは分かってるのだぞッ!」


 我慢できず彼――アスペルマイヤーは誰もいない場所へ怒鳴りつけた。だが身を竦ませるような怒声は虚空へと吸い込まれていくだけ。苛立ちのせいか息苦しさを覚えると、彼はポケットから錠剤を一つ取り出して噛み砕く。そうすると幾分息苦しさが引いていき、持っていたアタッシュケースの上にドシンと大きな尻を置いて座った。

 そこに、可愛らしい少女の声が夜の街に響いた。


「――おやおやぁ?」


 幾分舌っ足らず。だがその声は、無垢な少女にしてはあまりに皮肉と嫌味に満ちていた。

 突然の声にアスペルマイヤーは驚いて鈍重な体を宙に浮かせた。立ち上がってライトを浴びせると、彼女を覆っていたベールが引き剥がされた。


「き、貴様はッ……!」

「こんな夜更けにデートですかな? いやはや、大尉殿も隅に置けませんなぁ」


 暗闇の中からアーシェが姿を現す。風に雲が流され月明かりが街を照らす中、後ろにアレクセイ、カミルそしてニーナを付き従えて彼女は嘲笑していた。


「異国の交際相手ですからねぇ。気に入ってもらうのに相応のプレゼントが必要だというのは理解します。が、我が国の機密を売り渡すのは感心しませんなぁ」

「な、何を言っておるのだ? 我輩はそんなこと――」

「気づいておられますか? そのファイルの中身――全てダミーなのですよ」


 軽く鼻を鳴らしてアーシェがそう言い放つと、アスペルマイヤーは目を丸くしてファイルの技術報告書を引っ張り出した。


「おや、気づいておりませんでしたか? まあ気づいてたらそんなに驚きはしないでしょうね。それではもう一つ驚いて頂きましょう。実は資料保管室の天井にはカメラが仕掛けられておりましてね。ウチのニーナが頑張ってくれたんですが、人を感知したら自動でシャッターが切られ、信号が我々に送られるように魔導回路が組み込まれているのですよ」

「なっ!?」

「ついでに言えば、大尉殿に研究所の入構許可を出すよう依頼したのも我々です。餌を撒けば喰い付くとは思ってましたが、思った以上に早かったので我々も驚いています。まあ、そういうわけで、研究所からずっと私が空から尾行していたのでいつ、どこからどういう経路を辿ってそのダミーの報告書を持ってきたのか、全て筒抜けなのですよ」

「う……くっ……!」


 アーシェがネタバラシをすると、アスペルマイヤーは目に見えてうろたえた。

 タバコに火を点け一吸い。アーシェは三日月を見上げて言葉を続けた。


「ずいぶんとになった大尉殿のためです。こちらの情報もお伝えしておきましょう。

 ――デートのお相手はもういらっしゃいませんよ」

「……なんだとっ?」

「我々に感づかれたと気づいたのでしょう。踏み込んだ時にはすでに潜伏先はもぬけの殻。見切りの早さはさすがプロフェッショナル、と敵ながら称賛に値しますな。もっとも、それに気づかずノコノコとやってきた間抜けな豚は居たようですし、すでに証拠は押さえてありますから、あっちはあっちで撤収したって無駄なんですが」

「ぬ、うっ……!」

「さて、大尉殿。私から二つの選択肢を提示しましょう」


 そう言ってアーシェは指を二本立て、アスペルマイヤーに近づいていく。


「一つは全てを諦めて罪を認め、然るべき処罰を受けること。そしてもう一つはここで我々に全力で抗い、その濁りきったプライドごと食い潰されること。

 さあ、どちらを選ばれますか?」

「貴様ぁ……! 我輩は貴様より格上の大尉であり、名誉あるアスペルマイヤー伯爵家の人間であるぞッ! そのような……そのような無礼な扱い、認められるものかッ!」


 アスペルマイヤーは腰にぶら下がっていた警棒を引き抜き、頭を砕かんばかりの勢いでアーシェに殴りかかった。だがそれを、彼女はタバコを吸いながら指先で受け止めた。

 顔を真赤にしてアスペルマイヤーは何とか警棒を押し込もうとする。だが、ピクリとも動かない。その様子を眺めつつ、彼女は冷めた口調で事実を告げた。


「ああ、ご存じないのでしたね。もう大尉でも伯爵家でもありませんよ、大尉殿は」

「なん、だと……?」

「名前が長ったらしいんでまだ『大尉殿』と呼ばせてもらいますが、本日の日付変更をもって陸軍の職を懲戒解雇されました。数日前にも今日と同じ様に機密を盗んだでしょう? バッチリ証拠が残ってましてね、伯爵家と懇意にされていた将軍のお歴々もさすがに庇い切れないと思ったんでしょうな。あっさりと首を切る書類にサインしてましたよ」

「そ、そんな馬鹿な……」

「伯爵家にしてもそうです。これまでずいぶんとご迷惑をお掛けしたようですね。ご兄妹で大尉殿をかばう人間は誰一人いらっしゃいませんでした。話を聞くやいなや、待ってましたとばかりに現伯爵様は決断されましたね。伯爵家に三男は。いやはや、さすがは伝統ある伯爵家。没落しても最低限の損得勘定には優れていらっしゃる」


 つまり、それだけ縁を切りたがっていたということ。事実、すでに金も権力も失っている伯爵家では、アスペルマイヤーが毎度もたらす醜聞や借金の肩代わりに辟易していた。

 伯爵家は凄い。伯爵家である自分は偉い。市井の人間とは生まれながらに違うのだ。幼い頃に刷り込まれたそんな感覚を未だに引きずっていたアスペルマイヤーは、アーシェからもたらされた話に衝撃を受けて自失していた。膝から崩れ落ち、地面に両腕をついてうなだれ、しばしその姿勢のまま動かなかったが、やがて体を震わせ始めた。


「さて」アーシェが改めて尋ねた。「諦めるか、抵抗するか。どちらにしますか?」

「……ふ、ふふ、ふ」

「もう夜も遅いんです。夜明け後も仕事なのでさっさと決めて頂けたら助かるのですが」

「ふぅざけぇるなぁぁぁッッッ!!」


 激昂。まさにその言葉が当てはまる怒鳴り声を街に響かせると、アスペルマイヤーは拳を地面に叩きつけて立ち上がる。そしてしわくちゃの技術報告書を放り捨てると、アタッシュケースをこじ開けて彼は金属の塊を取り出した。

 太腿の上にそれを乗せる。それは円周状に幾つも銃身が並んだ巨大な銃だった。長い銃身一つ一つに魔法陣が刻まれ、それがかすかに発光してアーシェたちを威嚇していた。



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