2-7 なんですかね、これ?
「んん~? どこへ逃げたのだぁ? そう嫌がるフリをせずとも良いのだぞぉ?」
たるみきった腹の肉を震わせ、酒で真っ赤になっただらしない顔を惜しげもなく晒して来たのはあの豚――カールハインツ・アスペルマイヤーだった。クソが。さっきまでそこそこいい気分だったのに、一瞬で最低最悪の一日になりやがった。
グラス片手に、うねうねと気持ち悪い指の動きをしながら逃げた嬢を探しているようだったが、私の姿を見つけるとその口元がニィと気色悪く歪んだ。反射的にその口めがけて爆裂魔導を発射してやりたい衝動に襲われたが、堪えきった私を誰か褒めてほしい。
「んん~? なんだ、シェヴェロウスカヤ。ここは貴様のような子どもが来るような場所ではないのだぞぅ?」
「ですね。出直してきましょう」
即座に回れ右。一刻も早く望み通り消えてやろうと思ったのだが、豚に呼び止められた。
「いつもならばすぐに目の前から消え失せろ、と言うところなのだがな。喜ぶが良い。今日の我輩はすこぶる機嫌が良いのだ。特別に酌を許してやろう」
そう言って空のグラスを当たり前のように私の目の前に突き出してきた。なるほど、これは珍しい。自分で言っているようにさぞ気分が良いんだろう。だが答えなぞ決まってる。
「お断りします」
即答してやると鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしやがった。逆にどこにそんな驚く要素があったのか聞きたいわ。
ポカンとした後、酒でほのかに赤らんでいた顔色があっという間に湯沸かし器になった。頭にヤカンを置いたら何秒で沸騰するか測ったら面白そうだな。
「貴様……何を言っているのか分かっているのか? この我輩が命令しているのだぞ?」
「ええ、十分存じていますとも。私もニーナもすでに職務時間外です。養豚家でもないのにわざわざプライベートな時間に『豚』の餌やりなんて酔狂な趣味は持ってませんので」
「豚」の部分を強調して鼻で笑ってやると、アスペルマイヤーの顔がいよいよ溶けた鉄みたいな色になった。なんだ、一応自分を「豚」と認識するだけの知能はあったんだな。
「貴様ぁぁッッッ! 我輩を侮辱したなッ!?」
「ああ、失礼。場もわきまえず女性を傷つけるような輩と一緒なんて、豚に失礼でしたね」
さらに煽るともう言葉も出ないのか、豚は口をパクパクさせるとグラスを床に叩きつけ、いよいよ拳を振り上げ殴りかかってきた。これが職務中であればわざと殴られてやって相手を気分良くさせてハイサヨナラしてるところだが、あいにく今はプライベートである。
のろまな一撃をすっと横に避ける。踏み込んだ奴の顔面をそのままつかんで脚を蹴り払えば、軍人とは思えない鈍重さであっさりと背中から床に転がった。
「がっ!? このっ……!」
おまけとして奴の股間ギリギリに貫通魔導をお見舞いしてやる。青白く光る魔導の刃を股間の手前におっ立ててやれば、さすがのアスペルマイヤーも一気に顔が青ざめていった。
「さあさあどうぞ。豚はとっとと豚舎へおかえりください」
「き、き、き、きさ、貴様……!」
丁寧に私が出口の扉を開けてやったのだが、どうやらこの豚は帰る気はないらしい。ヨロヨロしながら立ち上がり、なおも私と一戦やりあおうという雰囲気なのだが――
「お客様」
「なんだっ! 我輩は今、貴様の相手をしてる暇など――」
声掛けしたマスターにアスペルマイヤーが食ってかかるが、店内を見回して黙り込んだ。客全員がコイツをにらみつけ、出て行けと言わんばかりの空気にいまさら気づいたらしい。
「っ……ふ、ふん! このような低俗な店、我輩の方からお断りだッッ!」
よくもまあこうも負け惜しみを吐けるもんだ。妙に感心してしまった。ドシドシと足音を立てて奴は店を出て行こうとするが、その背中にマスターがもう一度声をかけた。
「なんだっ!」
「まだ代金を頂いておりません」
「っ……! 我輩はアスペルマイヤー伯爵家の人間であるッ! 金など後からいくらでも送りつけてやるわッ!」
冷静なマスターにそう怒鳴りつけると、ドアを蹴破る勢いで出ていった。まったく、出ていく時まで騒がしいやつだ。
「……というか、もしかしなくても金も持たずに飲んでたのか?」
まさか伯爵家だからとツケで飲むつもりだったのか。貴族の権力なぞもう歴史に埋もれてしまおうとしてるっているのに、アイツはいつまでそれに気づかずに生きてるんだか。
「お金……ちゃんと送られてくるんでしょうか?」
「無理でしょうね」
ニーナが心配そうにつぶやくと、マスターはあっさりとそう口にした。
「我々の界隈では、飲み代を踏み倒すことで有名ですので」
マスターに聞くところによると、この近隣店舗でまともに金を支払われた試しがないらしい。いつも贅沢に飲み食いし、伯爵家であることを理由に強引に踏み倒すのだとか。
「曲りなりにも伯爵家だろう? 踏み倒すなどとケチくさいことする必要もないだろうに」
「お金はもう無いらしいですよ?」
曰く、伯爵家そのものが金銭的に厳しい状況にあるんだとか。にもかかわらずあの豚がこうして散財するものだから、最近は奴へほとんど金を渡さないらしい。おかげで今みたいに飲食代を踏み倒されるのだが、たまに景気よく支払ってくれることもあるんだとか。
「ひょっとして……」
この間見つけた、奴の落とした借用書。アレは奴が貸すんじゃなくて、奴が借りようとしてたのか? そしてその借りた金でまた贅沢をすると。バカじゃないだろうか。
「というか、それを知っててどうして店に入れたんだ?」
「所詮人伝ての話でしたから。鵜呑みにせず、自分の目で確かめてみようと思いまして」
最初から踏み倒されることは織り込み済みだったというわけか。結構長くこの店に通ってるが、相変わらずよく分からん不思議な御仁だ。
「ああ、そのままで結構ですよ。私が拾いますので」
「いえいえ、お手伝いさせてください」
振り向けば、奴が叩きつけたグラスの破片をニーナが拾い集めていた。ニーナが割ったわけじゃあるまいしそこまでしなくてもいいだろうとは思うが、人の良いことだ。
「では私はホウキを持ってきます。お怪我だけはされませんよう」
「あ、えっと、アーシェさんは別にいいですよ?」
「バカ。この状況でボサッと突っ立っておけるか」
手伝わずに酒を飲み続けるなんざ、はたから見たらとんだ気が利かない人間じゃないか。私は気を利かせる人間じゃあないが空気は読めると自負しているんだ。
「……あれ? なんですかね、これ?」
粗方拾い終わって、さて飲み直そうかと立ち上がろうとしたところでニーナが何かを見つけたらしかった。見ればグラスの破片に混ざって一つ、小さな錠剤が転がっていた。
「お薬、ですかね?」
かもしれんな。あのぶよぶよに太った体だ。体の一つや二つ壊してても不思議じゃない。なら飲むなよ、と思わないでもないが、それでも抗えない魅力があるのが酒である。
拾い上げてみるが、特に変わったところはない。匂いを嗅いでみると、なんとも善人の魂を思い起こさせるようなエグい匂いがして、思わず鼻をつまんでしまう。
「そんな顔するほど臭いんですか?」
どうやら私の表情がニーナの好奇心をそそってしまったらしい。物好きな奴め。だがまあ別に拒否する理由も無いので差し出し、ニーナが私の手のひらにあるそれを掴んだ。
「――え?」
その瞬間、突如として光があふれ出した。目も眩むような金色の光が私とニーナを瞬く間に包み込んでいき、そして――不可思議な光景が目の前に広がった。
私たちは店内にいる。にもかかわらず映し出されたのは木々生い茂る外の景色だ。まるで無声映画を高速で巻き戻しているかのような光景で、そこで見覚えのある二人が何かを手渡していた。一人は先日ドブ臭い地下で見つけたB/Sのスパイ。そしてもう一人は――
「……アーシェさん」
程なく光が収まり、広がっていた光景も消え失せていた。店にいた他の連中は私たちに注目するでもなく、平常通り銘々に酒を飲んでいて、まるで私が酒に飲まれて夢でも見たのかとも思ったが、どうやら今の光景を見たのは私だけじゃないらしい。ニーナもまた心ここにあらずといった表情で私を見つめていた。
「今の……何なんですか?」
分からん。正直、さっぱりだ。狐か狸にでも化かされた気分だが、夢や幻の類じゃないのなら何らかの魔装具、あるいは魔導が発動したというところだろうか。
ふと自分の手を見下ろす。乗っていた錠剤らしいものはまだそこにある。が、焦げたみたいに黒く変色して、わずかな吐息でサラサラと何処かへと飛んでいってしまった。
今見えた光景は、果たして現実なのか。それは定かじゃあない。だが……もし真実の可能性があるなら、少なくとも奴を追いかけてみる価値はありそうだな。
「ニーナ」
「はい?」
「仕事から引き剥がしておいてなんだが――明日から至急作ってもらいたいものがある」
ニーナにそう伝えると心底嬉しそうにコイツは顔を綻ばせ、そして元気よく「分っかりましたぁ!」と頼もしい返事をしてくれたのだった。
ちなみに。
「……マジか」
いつの間にかニーナがたらふく飲んでたおかげで、会計金額が凄いことになっていた。
私は呆然と立ち尽くし、そして誓った。
二度とコイツにおごるのはやめよう。
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