第1話 魔法少女

 自転車を漕ぎながら、俺はのんびりと帰り道を進んでいた。

 俺の通う公立香文かぶん高校は部活動に力を入れており、この時間に下校する生徒は少ない。まばらに学校を出る者の姿もあるが、それも家に近づくほど少なくなっていく。

 大通りを抜けて近道としていつも利用している路地裏に入る。人がいないのもいつもどおり、日常の光景だ。

 だが。

 変化は何の前触れもなく、突然訪れた。


「……は?」


 曲がり角を一つ抜けたその先。

 道の真ん中に大きな影が鎮座していた。

 真っ黒な毛に覆われた生き物。一見クマか何かにも見えたが、その図体は一般的なそれの何倍も大きい。辺りに立ち並ぶ二階建ての一軒家と変わらぬ高さに顔があり、大きな瞳がギョロりと動いている。


「え? いやいや、なんだよこれ」


 目の前の事態が呑み込めない。この巨大怪獣は何者で、何故俺の目の前に現れたのか。

 こんな化け物が突然現れたらパニックになりそうだが、周囲から驚きの声は聞こえない。隣の家には誰もいないのだろうか。

 あまりに大きな怪物の姿はまるで現実感がなく、俺はただ呆然とその巨体を見上げていた。

 ふと、怪物の目が動く。その瞳が俺をまっすぐ捉えていた。

 ――まずい。


「グオオォォォッ!」


 怪物が大きく口を開き、咆哮。

 あまりの轟音に周囲が震え、家々の窓ガラスがガタガタと音を立てている。

 その振動が体に伝わり、俺はようやくこの状況が危険であることを肌で理解した。


「や、ヤバいだろコレ!」


 自転車をぐるりと反転させて来た道を戻る。とにかく無我夢中でペダルを漕ぎ出した。

 背後で怪物が動く気配を感じる。恐らく立ち上がったのだろう。その場で足を動いただけでズシンと地面が揺れる。

 恐る恐る、俺は後ろを振り返った。


「でけえ……」


 座った状態でもかなり大きかったが、立ち上がると全長は一〇メートル近い。太陽を背にした巨体が暗い影を落としていた。

 こんな生き物は見たことも聞いたこともない。

 冷や汗がどっと溢れ、夏服に衣替えしたばかりの制服がじっとり濡れるのを感じる。背中を伝う汗が気持ち悪い。


「意味分かんねえ! なんであんな化け物が、街中まちなかに!」


 映画の特撮セットにしか見えないそれが歩み出す。一歩踏みしめるたびに地響きを発して、その振動と砂埃が逃避する俺を現実に引き戻した。

 妄想でも幻覚でもなく、そこにいる実感。

 怪物が周囲の建物を吹き飛ばしながら迫ってくる。ブロック塀の壁が破壊され、家屋の木材がひしゃげて、粉塵が舞う。

 なんとか瓦礫を避けながら、俺は全力でペダルを踏みこんだ。


「どうする!? どうすれば……!」


 どれだけ一所懸命に進んでも、少しずつ、確実に怪物の影が迫ってくる。

 再び怪物が咆哮。

 その声色は、獲物を見つけて喜んでいるようだ。

 怪物が右腕を振り上げる。黒い毛むくじゃらの手に、赤黒い爪が光っているのが分かった。貫かれたら終わり。それどころか、あの大きな腕がぶつかればそれだけで潰されてしまうだろう。

 逃げ切れない。


「誰か、助けてくれえっ!」


 半ば諦めの中で、誰に向けてでもなく叫んだ。

 その時。


「間に合った」


 声が聞こえ、隣を何かが通過していった。あまりの速さにそれが何なのか判別できず、俺はすれ違った影を視線で追う。

 振り返った時、既に獣の右腕は引き裂かれて宙に舞っていた。

 怪物が痛みから悶える。


「グオオォォォッ!」


 けたたましい音圧に弾き飛ばされ、俺は自転車と共に道路へ転がった。

 アスファルトに打ち付けられて痛みに視界がチカチカと揺れたが、同時に自分がまだ生きていることを実感する。俺は怪物の腕に潰されたわけではない。

 よろめきながら姿勢を持ち上げると、先ほどまで右腕があった傷口から血飛沫をあげる怪物の姿が見えた。相手もまだ生きている。

 そしてもう一つ。空中に人の影がある。

 それはとんがり帽子に黒いマントを身に着けて、大きな箒に跨っている。そのあまりに古典的な見た目から、逆に予想を口にするのが憚られるほどハッキリとしたシルエット。

 服装のすべてが素性を物語っていた。


「ま、魔法少女?」


 魔法使い、魔女っ娘、魔導士。言い方は多々あれど、とにかくそんな容姿の少女が浮かんでいる。

 よく見るとその手にステッキも握られていた。どこまでも型に嵌まったファンタジーなファッション。

 彼女がステッキを振るって何かを呟く。

 遠くてよく聞こえなかったが、この流れなら十中八九間違いない。呪文を唱えたのだろう。

 俺の予想通り、次の瞬間にはステッキの先から火炎放射が噴き出していた。

 怪物の全身を焼き尽くすような圧倒的火力が敵と周囲を包み、あまりの熱気に俺も顔を伏せる。


「あっつ!」


 焼け焦げながらも、獣はまだ抵抗して暴れている。

 左腕を大きく振るい少女を叩き落そうとしているが、少女は箒で空中を自在に飛び回って攻撃を躱した。

 彼女が再びステッキを構えて唇を動かす。今度は炎が収束し、一振りの刃のように形成された。燃える火炎の剣だ。

 先ほどは早すぎて見えなかったが、あれが怪物の右腕を切り落としたのだろう。今度は左腕めがけて振り下ろされ、あっという間に一刀両断。

 両腕を失い火だるまになった怪物は、遂に吠える気力もなくその場に倒れこんだ。巨体が墜ちて再び地面が揺れる。


「す、すげえ……」


 映画の映像か、ド派手なヒーローショーでも見ているような気分だった。

 息絶えた怪物は光の粒子となって散っていく。

 舞い上がった粒子が魔法少女の下へ集まっていき、彼女は全身でその光を浴びていた。

 辺りが静まり返る。


「大丈夫?」


 少女がふわりと地面へ近づいてきた。

 跨っていた箒から降りて、俺の方へと歩み寄ってくる。


「え、あっはい」


 理解が追いつかず間の抜けた返事をしてしまった。

 ひとまず倒れた自転車を起こしながら立ち上がり、改めて少女へ視線を向ける。

 よく見ると、年齢はこちらとあまり変わらないようだ。身長が俺よりだいぶ低いので年下かもしれない。長いブロンドの髪や白い肌、目鼻立ちの雰囲気から日本人ではなさそうである。話しているのは日本語だけど。

 少女は淡々と告げる。


「フィールドの中に人がいると思わなくて。助けるの、遅れた」

「はあ……。ええっと、ありがとうございます」


 言っている意味はよく分からなかったが、命の恩人には違いない。俺はお礼の言葉を伝えたが、少女は無表情のまま特に反応しなかった。

 疑問は止まない。


「あの化け物は一体……。というか君は何? 魔法使い? 炎を出せるの?」


 少女が少しだけ眉をひそめる。

 あまり感情を表に出すタイプではないようだが、一気に質問をして相手を困惑させたことはすぐ分かった。

 俺は頭を掻きつつ口を止め、辺りを見回す。

 散らばる瓦礫や破壊された建物。そして今なお燃え上がる街並み。


「そうだ、消防車を呼ばないと! 警察も! 怪我してる人もいるだろうし、救急車も――」

「大丈夫」

「えっ?」


 何が大丈夫なのか。問い返す前に少女が行動を起こした。

 楽団の指揮者さながらの軽やかな動きでステッキを振るう彼女。しばらくその動きを見ていると、景色がぐにゃりと歪んだように見えた。

 世界が魚眼レンズを通したように歪曲する。三半規管が狂い平衡感覚が失われる感覚に俺は思わず目を瞑った。


「終わり」


 しばらくして目を開けると、辺りの瓦礫が綺麗さっぱり消え去っていた。炎も消え、周囲には平穏な景色が戻っている。


「何もなかったみたいに、一瞬で……」


 世界が元に戻った。

 信じられず思わず目をぱちくりさせていると、無感情な少女はこくりと頷く。


「うん。何もなかった。

「ど、どういう意味?」


 聞いているのかいないのか、少女は手にした巾着袋を開くとそこへ帽子やマントを次々片付けていく。袋の容量を遥かに超える衣服がどんどん仕舞われ、しまいには箒やステッキも飲み込まれていった。

 マントの下に着ていたのは普通のシャツとロングスカート。先ほどまでの非現実的な服装が嘘のように、彼女は一般的な少女の姿に変わった。

 俺はこの状況にただ困惑している。

 よく考えると、あれだけの騒動だったのに先ほどまでは人っ子一人見当たらなかった。今は行き交う人も見えるし、その何処にも被害の跡はない。

 まさか、本当に夢や幻だったのだろうか。

 考えていると、少女がゆらりと近づいてきた。会話するには不向きなほど近くまで俺の顔を覗き込んでくる。


「あなた、なんで入り込んでしまったの?」

「入り込む……?」


 質問の意味が分からない。俺が? 何処に?


「聞きたいことがある。こっち」


 少女は言うや否や身を翻して歩き出した。ついて来いという意味だろう。

 俺は思わず彼女を呼び止めた。


「ま、待って!」

「?」


 少女が振り返る。聞きたいことは色々あるが、最初にこれだけは聞いておかないと話しづらい。


「先に名前だけ聞いていいかな?」


 彼女が薄く口を開いた。感情の起伏は薄いが、多分名乗り忘れていたことに驚いたんだと思う。

 そのまま表情は変わらず、淡々と伝えられる。


「ウイカ。獣魔討伐部隊“アザラク・ガードナー”の、ウイカ・ドリン・ヴァリアンテ」

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