第3話 人感センサー

 私には友達がいなかった。いないと、思っていた。今となってはそれが現実だったのかどうかも分からない。生まれながらなのか、育ちのせいなのか、私は人との親密さを感じ取るためのセンサーが壊れてしまっている。だから、自分のことを嫌っている人にそうと分からず好意を抱いてしまったり、世界のどこにも私を見ていてくれる人はいないと、命を失ってしまいそうなほどの孤独にさいなまれたりしてしまう。

 いつしか私は、人間が嫌いになった。親密さは求めても与えられず、手にしたと思ってもたいていは勘違いで、そもそもこんな私が求めること自体がおこがましいのだ。

 私は誰にも、ここにいて欲しいと思ってもらえない。それならば、小説を書こう。誰にも好いてもらえないのなら、何か価値のあるものをわたせば良いのだ。ずっとひとりぼっちの私にとって一番価値のあるものは、本だった。私も本を作ろう。心の奥で大切にしてきた美しいものを、文章にしよう。

 そうしてたどり着いたのが、コミケだった。当時の私はあまりサブカルに詳しくなく、同人誌即売会と言えば一番有名なコミケしか知らなかった。

 自室の印刷機とホッチキスを使ってコピー本を四十部作り、単身上京した。真夏の有明。くらくらするような熱気と湿気、人の群れ。そこには信じられないほどたくさんの人がいたが、私の本に目を留めてくれる人は一人もいなかった。

 やっぱり私はひとりぼっちなのだ、と涙がこぼれそうになったとき、その人が天から舞い降りた。

「あ××××××さんですね。ついったぁでずっと見てました。この本、一冊くださいますか」

 人前ではとても口に出せないような私のペンネームを恥ずかしがりもせずに呼んで、彼女は微笑んだ。ちゃちな装丁の私の本を大事そうに抱えると、小脇に挟んでいた同人誌を差し出して来た。

「私の本です。あなたに読んで欲しくて、作りました。差し上げます」

「あ、ありがとうございます」

 私は手の甲で涙をぬぐって、彼女の本を受け取った。

「……今日、一冊目なんです。今日と言うか、人生で」

「最初の一人だなんて、光栄です」

 友達になれますか、私たち。そんな言葉が漏れそうになって、慌てて口を閉じた。この人は、私が美しいと思うものを分かってくれる。私のぶっ壊れた人感センサーは、かつてないほど癒されていた。

 その時の私はまだ知らない。舞い降りた彼女は人間なんかじゃなく、神か、あるいは化け物でさえあるかもしれない女だなんて。


 雨の中を、傘も差さずに歩いていた。世界は青色に染まり、白い光があちこちに反射してはきらめいている。宵の口。どしゃぶりだった。前髪からしたたるしずくのせいで、目を開けているのがやっとだ。車の白いヘッドライトが暗い道に伸びては縮み、あっという間に何本も何本も通り過ぎてゆく。

 人気のない路地の先に、ぽつんとオレンジ色の温かい灯がともっている。私は引き寄せられるように、そちらに向かって歩いてゆく。小さなカフェだった。窓から店内が見える。ヒトミさんが、臙脂色のエプロンをつけお盆を抱えて立っていた。常連らしい客と談笑している。いつも私に見せるのと同じ笑顔を浮かべていた。全く同じ、きっと他人に見せるための顔。

 冷たい。雨が、冷たい。店内は温かだろう。彼女は温かく迎えてくれるだろう。けれど、私は入ってゆくことができなかった。ただ、立ち尽くしていた。

 ふと、彼女の目がこちらを向いた。表情がかげる。こちらに手を伸ばすような仕草をしたので、私はくるりと背を向けた。速足で逃げる。

 何をしているんだ、私は。自分でもわけが分からなかった。


 自室でシャワーを浴びた後、ドライヤーで髪を乾かしていると、玄関のインターホンが鳴った。どきり、とする。あの夜以来、ヒトミさんはこの部屋に来ていない。期待と絶望がないまぜになった胸を押さえながら、玄関を開ける。

「ヒトミさん、なんで」

 彼女は何も答えない。悲しそうな顔で、こちらを真っ直ぐに見ている。

「なんで、ですか」

「……分かるでしょう、あなたはあんなに繊細な小説を書くんだから。私の気持ちなんてお見通しでしょう」

「買いかぶりすぎ。私はまともに人間と関わったことがありません。ヒトミさんの気持ちなんて、最初っから全然分かりません。初めてコミケで出会ったときから、全然」

 天井の蛍光灯が、ぶんと揺れた。

 逃げる間もなかった。

 彼女の体は、じっとりと湿って熱かった。ぴったりとくっついた肌から、甘い香りがした。人間と言うものは、こんなにも柔らかいのか。

「私は、好きで壁サーになったんじゃありません。大学の先輩に誘われて、流されるままに書いてただけ。ファンじゃなくて友達が欲しかった。ちひろさんなら、私に嫉妬も憧憬もしないだろうと思ったから。そういう世俗的なことに興味がないだろうと思ったから。だから――」

「買いかぶりすぎです」

「好き――」

 だから、こんな日本の端っこまで追いかけて来たの。

 つるりと、そんな言葉が肌を滑り落ちた気がした。


【第二章につづく】

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