第33話 感情の激流
獣のような咆哮が聞こえ、俺は我に返った。
腕の中には血まみれのヒナが抱えられている。
「誰か! 治癒魔法を!」
ヒナの腹にはオダが持っていたナイフが深く突き刺さっている。
近くにいた兵士が駆け寄り、ヒナの細胞を活性化させて、回復を促したが、効果は表れない。
治癒魔法も俺たち異世界人には効かないんだ。
「おい! あれを見ろ!」
その声の主が指さしていたのは、先ほどから叫び続けているオダの方向だった。
「か、火球が……」
何の言葉も成していないオダの叫びに呼応して、周囲に火球が生成されていく。
「ば、馬鹿な」
具体的な指示など何もない。
明確な意思すらもないだろう。
あるのは苛烈な感情のみだ。
「魔素が奴の思いを感じ取っているとでも言うのか」
その気持ちを察するかのように、火球はその数と大きさを次々と増していく。
「まずい! 総員、退避だ!」
ガルザードの指示で、兵士たちは安全な距離まで距離を取る。
「待ってくれ! ヒナの治療がまだ終わってないんだ!」
俺は必死に叫んだ。
先ほどの兵士がやっていたように見様見真似で治癒魔法も試みる。
「細胞にエネルギーを、ATPを生成して、ミトコンドリアの活性化も、早く、分裂しろよっ。増えろ! 増えろ!」
傷痕は塞がることなく、無情にも血は流れ続けている。
「もう、いいから……」
こちらを見て優しく微笑みながら、ヒナが俺の手を止めた。
「まだ、何か方法があるはずだ。諦めるな!」
「わかってるでしょ……、私たちには魔法は効かないんだって」
「そうと決まったわけじゃない! まだ、原理も法則も判明していないじゃないか!」
ヒナはまた優しく微笑んだ。
言葉を発しようと開かれた唇と、同時にこちらに多数の火球が飛んでくるのが目に入った。
ああ、これに燃やし尽くされて、俺も死ぬのかな。
矛盾した思考を抱えながら、火球を見つめた。
火球は俺に当たることなく、上から降り注いだ水にかき消された。
「捕えろ」
その声の方向を見ると、兜を目深に被った兵士がオダのことを捕えようとして行動を開始するところだった。
あの魔女の森で出会ったナオトだ。
そしてもう一人、そちらは知らぬ顔だが、ナオトに対して指示を出している。
その男もナオトと同じくカルセイワンの紋章を身に付けていた。
「うわああああああ!」
オダは悲痛な咆哮を放ちながら暴れ続けている。
「狂犬が」
見知らぬ顔の男が、何やら呪文を唱え始めると、オダが首元に手を当てて苦しみ始めた。
その隙に、ナオトがオダを拘束する。
すでにオダはぐったりとして、その身を預けている。
どうやら気を失ったようだ。
「次はそちらか」
その男は俺とヒナの方に向き直った。
「こちらの方々が拘束される言われはないはずです!」
オムリィが降り立ち、俺たちとその男の間に壁を作ってくれた。
「ほう、そちらの異形の者どもの所有権を主張するのか。まあいい。我は寛大だからな」
「オダさんのことはどうするのですか」
「この男か? カルセイワンの国境で暴れていたのだ。当然、危害が加えられんように、拘束し、適切に処理するまでよ」
「ここは中立地域だ。アルガルドとしては勝手な行動を見逃すわけにもいきませんな」
ガルザードも追いつき、オムリィの援護をする。
「カルセイワンは十分な時間をそちらにやったはずだが? この事態を治めたと感謝こそされ、非難される覚えはないぞ」
それに――、とその男はまた俺たちの方に視線をやった。
その男の視線が含む意味を読み取ったのだろうか。
ガルザードは、それ以上その男といることを忌避したように、無言で背を向けてこちらへと歩み寄った。
「急いで場所を移そう。魔法は効かずとも、物理的に止血すれば望みはあるかもしれん」
その言葉はただヒナの身を案じたのか、それともあの男から離れるために発せられた言葉なのか、俺には判断がつかなかった。
俺たちよりも早く、すでにその男達はこの場から飛び去って行っていた。
ナオトの手には未だぐったりとした様子のオダが抱えられている。
オダの姿を見て、俺は改めて怒りを覚えた。
思わず手に力が入る。
握りしめた手のひらにヒナの手を感じて我に返った。
優先順位を間違えてはいけない。
「すぐに行きましょう」
俺たちはヒナを抱えて、国境本部の救護室へと向かった。
「ありったけの包帯と布を持ってきてくれ!」
治癒を担当する職員が必死に手当てをするが、魔法が効かない体質のヒナにはいつもの治療方法が使えず困惑している。
「止血薬とか痛み止めの薬はないんですか?」
「すまない、この世界では魔法で治療を行うため、薬の文化は発展していないんだ」
知識があれば、魔法の力を利用して、すぐに薬を合成することもできるのだろうが、俺には医学や薬学の知識はなかった。
薬と同様に外科手術のための道具も発展していないようだ。
ここにいても邪魔にしかならない。
俺は手伝うことは諦めて、外に出ていることにした。
「大丈夫?」
ベンチでうなだれている俺に声をかけてくれたのはオムリィだった。
「ああ……、いや、大丈夫ではないかな」
自分でもその声に元気がないことがわかる。
オムリィは何も言わずに俺の隣に腰掛けてくれた。
しばらくの間、優しい沈黙が続く。
「そういえば、ミアは?」
こんなことがあったとはいえ、またしても俺はミアを放置してしまっていた。
そのことに気が付いて、急に自責の念が襲ってくる。
「大丈夫だよ。さっき休憩室に見に行ったら、まだよく眠ってたから」
「そ、そうか。良かった」
こちらの世界ではオムリィに世話になりっぱなしだ。
そして、向こうの世界ではヒナに……
「心配ですよね」
青ざめた顔で俯いた俺を見て、オムリィが声をかけてくれた。
「俺が、遅かったばっかりに……」
アイツの性格上、俺より先にオダの元へ行ってしまう可能性はあった。
それがわかっていたのに、間に合わなかった。
それはダイレクトに自分自身の無能さが原因であることを物語っている。
「アイツはいつも俺なんかより優秀だった。真面目で、努力家で、でも、いつも自然体なんだ」
オムリィは黙って俺の言葉を聞いている。
「本当に楽しんでいたんだろうな。勉強も研究も、それだけじゃなくて自分の人生を。それがこんな……」
それ以上の言葉は何も言えなかった。
代わりに涙が一筋の跡を作った。
俺が慌てて顔を拭うのと同時に救護室のドアが勢いよく開いた。
「エリクセンさん、こちらへ!」
俺は急いで立ち上がり、ヒナの元へと向かった。
ベッドの横に近づくと、意識を取り戻したヒナと目があった。
「ひ、ヒナ! 良かった……」
「ルイ、泣いたの?」
「そりゃこの状況だ。泣くに決まってるだろ」
「これじゃあ、先が不安ね……」
力強く言い放たれた情けない内容に、ヒナは弱々しく微笑んだ。
「俺が遅かったばっかりに、こんな目に会わせてすまなかった」
「いいのよ……。自分がやりたくてやったことだし、貴方にはミアちゃんがいるしね……」
「ああ、今はミアも寝ているけど、後でまた連れてくるからな」
「そうね……、また、会いたかったわね……」
「おい、そういうことは冗談でも言うもんじゃないぞ」
ヒナはまた弱々しく微笑んだ。
「不安はあるけど、貴方のことは信じてるからね……」
「おい! やめろって!」
「最後までやりたいことがやれて、私の人生は幸福だったわ……」
静かに閉じられたヒナの目がもう開くことはなかった。
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ばたばたと慌ただしく駆け回る足音が聞こえる。
俺はベンチに腰掛けたまま、ただ茫然と地面を眺めていた。
身体に膜が張っているような、不明瞭な感覚に包まれている。
永遠に包まれ、そのまま感覚などなくなってしまうかと思った。
しかし、そんな薄い膜は突然の怒声によって打ち破られた。
「何故この距離まで気が付かなかった!」
「密度変化は確認されていません」
「光学レーダーも反応ありませんでした!」
何事かと、近くにいた職員に尋ねた。
「あの異形の者が門の前にいるそうです!」
俺は沸々と湧き出した感情に突き動かされて、ベンチから立ち上がった。
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